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【小説】カネの準備は出来ている

 夏のおびただしい日差しを避け、賑わう学食で特盛カレーを食べていると、嫌な話を小耳に挟んだ。
「シングルマザーの再婚率は、子供の性別によって五倍の差があるらしい」
 ちらりと振り返ったところ、男が女に語っていた。五倍は、流石に盛っていると思った。
「どっちが再婚しやすいの?」
「そりゃあ、女の子でしょう」
「ああ・・・なんか、気持ち悪いね」
 生じた偏見は、致し方ないのかもしれない。性的虐待に関するニュースは、後を絶たないのだから。
 
 俺の両親は、息子の彼女に四歳の娘がいると知ったら、大きく落胆するだろうか。将来の結婚を反対するだろうか。少なくとも、まだ若いことを理由に、考え直すように言われるのではないか。
 彼女は、人として素晴らしいが、どう考えても、歓迎されるはずがない。
 
 やはり、言わざるを得ない状況に迫られるまで、彼女の存在を口にすることは難しい。ただでさえ俺は、呪詛のような親の期待に喉元を締め付けられている。
 
 本当は、都会の大学へ行きたかった。東京か大阪、名古屋も魅力的だった。我が家の財力であれば、それを叶えてもらうことは出来たが、親の期待に見合う進学先に肝心の学力が及ばず、せめてもの親孝行として地元の国立大学を選んだ。わざわざ都会へ行く者は、遊びたいだけの馬鹿などと言って、負け惜しみは、すらすらと口を突いた。
 そのせいで、実家暮らしが続く日常を腹立たしく思っている。だが、期待通りの息子を演じる期間は、大学を卒業するまでの、残り一年半ほどかもしれない。
 
 互いの愛が冷めなければ、結婚は必然だ。内心、覚悟を決めたのは、今年の春先のことだ。
 
 その頃から、不登校の恭平を目にかけてやるようになった。もとより、好きになれない弟だが。
 奴は、親の期待をあっさり裏切る。兄貴や俺と違い、すぐに諦める。嫌なことから逃げてしまう。野菜嫌いの偏食のくせに、体ばかりが成長して、背丈は俺とすでに変わらない。
 そんな恭平とも、離れて暮らすようになる前に、なにか良い思い出を作りたかった。
 
 家の中で優しく接しているうちに、恭平は俺の部屋へ漫画本を借りにくるようになった。次第に、部屋に居座って読んだり、自分の悩み事をさらけ出したりするようになった。以前の俺ならば、お前は甘えているなどと、厳しく叱りつけたに違いないが、今更、あえて嫌われるような、損な役回りを買って出るべきではないだろう。理解のある良い兄を装った。財布からカネを抜き取られていることに気付きながらも、黙っていた。
 恭平は、俺がトイレに立った隙などを突き、度々盗みを働いた。千円札が多く入っていればそれを一枚、小銭が多ければ二百円ほどで、少額だった。カネが欲しいというより、スリルを味わっていると思った。中学生が、引きこもりがちの生活を送っているのだから、当然、刺激が足りない。
 
 春先からの半年弱で、いくら盗まれただろうか。
 ざっと計算したところ、恐らく一万円に満たない。別のなにか、物を盗まれた可能性もあるが、小遣いがほしいと言われれば、月に二千円はくれてやった。もっと高額をねだられれば、貸してやったっていい。
 最近の俺は、就職活動費としてカネをやたらと貰っている。懐が潤うほど重苦しく、憂鬱になり、一夜にして使ってしまいたい気分になる。
 
 やってやろうか。独身だから出来ることだ。結婚したら、カネをばらまくように遊ぶ機会は、二度と訪れないだろう。
 そんなことを思い巡らせた夜、普段持ち歩かないキャッシュカードを財布に入れた。
 
 次の日、手持ちの二万円ほどに十万円を加えた。引き出したそれは、残高の四割弱だ。
 論理学の退屈な講義を受けた後、急なバイトが入ったと彼女に電話で嘘をつき、素顔を隠すためにマスクを付け、寂れかかった繁華街へタクシーで向かった。西日がほのかに消え残っていた。ホステスと豪快に呑んでやろうとして目星をつけたのは、この辺で一番と噂の店だ。
 
 いざ、タクシーから降り立つと、どぎつく光る妖艶な看板を前に躊躇った。自然と溜め息が出た。脳裏をかすめたのは、俺が騙した彼女ではない。母親の顔だった。
「ちょいと、そこのお兄さん」
 男が、ふいに声をかけてきた。目を合わせなかった。
「おカネに困ってますね?」
「いえ、困ってないです」
「五万円、借りてほしいのですが、いかがでしょう?」
 無視して立ち去ろうとした。
「お待ちなさい。利子は大してつきませんし、いつ返してもらっても構いませんから。それと大事なのは、私に返さないで頂きたい」
「はい?」
 思わず声を出してしまった。男を見ると、ずんぐりむっくりした体形で、人の良さそうな顔をしていた。父親と同年代に見えた。
「さあさ、遠慮はいりません」
 二つ折りの黒い財布を差し出された。というより、手に握らせようと押し付けてきた。
「やばいカネ、ですよね?」
「まさかまさか、ただのカネ。天下の回り物ってね。この財布もセットです。いずれ誰かに返さなきゃいけなくなりますよ」
 興味本位で手に取った。男に押し切られる格好だったが。
「では、たしかに五万円。お兄さんにお貸ししました」
 男が、そそくさと立ち去った後、押し貸しされた財布の中身を見ると、不気味に五枚以上の万札が入っていた。他の札と小銭はなく、数えたところ、ちょうど十万円だった。
 思い返したのは、男の姿だ。老舗の店先にあるような信楽焼の狸に似ていた。化かされているのかもしれない。
 疑いながらも、受け取ったカネにあっさり手を付けた。コンビニの自動精算機で支払いを試みると、本物のカネだと分かった。それでも、なぜか安っぽい紙切れに見えて、使うことを躊躇うような重みが感じられなかった。
 同じ十万円が、俺にとっては全く違った。
 
 初めての散財は、あっという間だった。それなりに楽しかったが、また遊びたいとは思わなかった。釣りはいらないと言い放ち、片方の財布を使い尽くした。事前に持っていた方は、往復のタクシー代でしか使わなかった。残ったカネは、十一万六千円ほどだ。
 
 彼女にバレず、無事に日を跨ぐと、ちょうど十万円を自分の財布に残して、そのまま引き出しの奥底に隠した。もう散財する気になどならなかった。返済に当てるのであれば、夜遊びに直接使えない大切な十万円も、使わざるを得ない。むしろ、借りたカネは早く片付けるべきだ。漠然とした返済にいつ迫られようとも、その準備は端から出来ている。
 余ったカネは、万札が一枚、千円札が五枚、そして端数の小銭だ。やはり、きちんとしたカネに見えた。それらを空っぽの借り物に入れ替えて、日常、人の財布を使うことにした。恭平を牽制するために。
 
 財布が変わったら、尻込みするだろうと思った矢先、なんと一万円が消えた。六枚の紙幣のうちの一枚だが、万札はたったの一枚だった。気付いた後、リビングで鉢合わせた恭平は、しれっと笑いかけてきた。この大胆な手口を見過ごせば、手癖はますます悪化して、取り返しのつかないことになりかねないが、ただ叱り飛ばすだけでは意味がない。そして、誠に残念なことに、恭平の将来を思って真剣に叱る気になれない。
 所詮、しょうもない弟だ。その責任の一端は、両親にもある。兄貴や俺とは、明らかに育て方が違ったのだから。甘やかした分だけ、両親が責任を取ればいい。俺が更生してやることはない。
 そう結論した途端、なぜか浮き立つ気分になった。夜八時を過ぎていたが、母親に一声かけ、恭平を外へ誘い出した。ラーメンを食いに行こうと。
 
 向かったのは、歩いて十分ほどのラーメン屋だ。途中、灯りの少ない夜道で風鈴の涼やかな音を聞いた。
 乗り気で付いてきた恭平は、店に着くと、メニューをじっくり見た上で、三品も頼んだ。
「夕飯食ったのに、そんなに食えるのかよ」
「大丈夫。だって食べてみたい」
「後で気持ち悪くなっても知らねえぞ」
「こんな小汚い店に初めてきたんだ。そのぶん絶対、旨いよね。そうじゃなきゃ潰れてる」
「おい、小声で言え」
「失礼かな? この店の感じは、味に自信がある証拠」
 聞こえたらしい給仕のご婦人は、笑いを堪えている様子だった。
 しばらくして、注文した料理が目の前に揃うと、恭平は「旨い旨い」としきりに言って、満足気に食べた。担々麺も、餃子も、チャーハンも、水も沢山飲んで、見事に平らげた。
「兄ちゃんは塩ラーメンしか食ってないから、今日は俺が全部支払うよ」
「は? 生意気だな」
「いつも兄ちゃんには、世話になってるからさ」
「漫画を貸してやってるだけじゃねえか」
「そんなことないよ。まじで感謝してる」
 カネを盗んでおいて、いい度胸だと思った。
 そして、恭平はレジの前に立った。後ろで見守っていると、ズボンのポケットから折り畳んだ紙幣と小銭を出していた。
 
 翌日、例の黒い財布を空にして、恭平にくれてやろうと思った。一応、借り物だが、押し付けてきたあの男は、誰かに返せばいいと言っていた。カネは、引き出しに隠したままだ。財布だけ誰かに引き継いだ場合、なにか奇妙なことが起こるか興味があった。
 
 手渡したのは、漫画を読みにきた恭平が帰ろうとした時だ。
「それ、お前にやるよ」
「なんで?」
 その顔つきから、動揺を感じ取った。盗みを働こうとしたなら、空の財布だと知っているだろう。数分前に、俺はわざとトイレに立った。
「財布を持ってないんだろ?」
 きまり悪そうに頷いた。
「お前が必要なくなったら、他の誰かにくれてやればいい。俺に返さなくていいからな」
「・・・分かった。使ってみる」
「昨日はありがとな。嬉しかったよ」
 照れ笑いを浮かべた恭平は、さっと自分の部屋へ戻っていった。
 
 二日後、朝の早い時間に部屋の外で人の気配がした。半裸のままそちらを見ると、少し空いた扉から恭平の姿が覗き、控え目にノックしてきた。
「ちょっとだけ、いいかな?」
「どうした? 二三分ならいいぞ」
 そう言って白いTシャツを着ると、恭平は扉の中に入ってきた。
「あのさ、こんなに貰うわけにはいかないよ」
 突っ返してきたのは、空にして渡した黒い財布だ。ぱっと開いてみると、紙幣ががっぽり入っていた。十万円な気がした。
「俺、使ってないよ。気持ちだけ受け取るから」
 恭平は、そう言い残して、唖然とする俺の前から立ち去った。
 
 唐突に現れたカネは、万札が十枚で、やはり十万円だった。最初に俺が押し付けられた時も、五万円を借りたはずが、謎の五万円が増えていた。
 日中、あれこれ考えた。講義の後に彼女と会わず、早めに帰宅すると、新たに増えた十万円を引き出しにしまった。財布をまた空にした。
 
 夕食後、恭平の部屋の扉をノックした。財布の中身を確認すると、空のままだった。
「開けてもいいか?」
 返事はなかったが、恭平が中から扉を開けた。その様子は、少し怯えているように見えた。久しぶりに入った部屋の中は、思いのほか奇麗になっていた。勉強机の上には、生意気に高性能なお下がりのパソコンが置いてあった。兄貴が家を出る時に貰ったものだ。
 財布だって、遠慮なく貰えばいい。
「色々考えたんだが、やはり、これはお前が受け取れ。自由に使えよ」
 渡したのは、あくまでも空の財布だ。
 恭平は、手元に視線を落とし、財布の札入れ部分を覗き見た。その顔をゆっくり上げると、たまりかねたように涙をこぼした。
「兄ちゃん、俺は、そうだよ。カネがほしかった。兄ちゃんから盗んだよ。でも、五万円なんて無理だよ。貰えない。本当にごめん」
 小さく頷くと、震えた手で財布を返してきた。
「自分から言えたな。それは偉い。きちんと反省して、二度とするな」
「・・・一つだけ、お願いがある」
「なんだ?」
「お父さんとお母さんにだけは、言わないで」
 聞いた途端、喉元が苦しくなり、咄嗟に言葉が出なかった。
「兄ちゃん、お願い。お父さんとお母さんには・・・」
 頭の中が、混乱した。自分勝手なお前がなぜ、それを言うのかと。
「もう絶対に、盗みはしないから」
「俺以外の、他の誰かから盗んだか?」
 即、首を横に振ると、盗み聞きを警戒するように、扉の方を一瞥した。
「俺だったのはなぜだ?」
 今度は、即答しなかった。なにかを考えていた。
「盗みやすかったか?」
「・・・俺、兄ちゃんが嫌いだった。兄ちゃんも俺のことが嫌いだったろ? それなのに、ちょっと前からすごく優しくて、今更なんだよって、最初は困らせてやろうと思った」
「俺は・・・お前の頑張らないところが、嫌いなだけだ」
「兄ちゃんは、ズルイよな。頑張ればなんでも出来るんだ。なんでそんなに出来るんだよ。俺はいくら頑張ったって、兄ちゃんみたいに・・・」
「俺も、出来ないことだらけだ。よく見えるだけだよ」
「そんなわけない」
「あるさ。出来ないことの一つは、お前と同じだよ」
「なに?」
 答える代わりに微笑むと、不意に喉元が楽になった。ふっと息を吐き、彼女のことを話せる気がした。
「まずお前に、聞いてほしい話がある」

 馴れ初めから、彼女とその娘の話をした。互いにすっかり腹を割り、次第に声を上げて笑い合った。財布のことを伏せたのは、恭平の出来心を刺激しないためだ。
 二時間近くも部屋に留まっていると、母親が「おーい」と扉の外で呼びかけてきた。
「なにー?」
「どっちか先に、シャワーを浴びなさいよー」
「うん、すぐに行く」
 母親の声色は、やけに明るかった。後で顔を合わせたら、恭ちゃんのことを宜しく頼む、などと言われるだろう。気にするな、と強く思った。
 
 財布は、俺の部屋で一人になってから開いた。当然のように、十枚の万札が入っていたが、恭平はたしかに五万円と言った。それが正しければ、ごく僅かな時間で五万円がふっと湧き出て、その後、再度同じ現象が起こったことになる。
 財布をつぶさに調べると、「24」という小さな数字を見つけた。内側の札入れ部分の側面に、うっすらと彫り込まれていた。模様や製造番号などとは明らかに違い、鼓動するような縦揺れが微かにあった。二十四ではなく、二と四の可能性もあった。死を連想する数字に胸騒ぎがして、「24」の意味について深く考えた。
 そして、試しにカネを戻した。取り出したばかりの十万円と、引き出しにしまってあった十万円、後は使い始めた小銭入れの中の三千円ほどだ。
 
 翌朝、万札だけが消えた。恭平への疑いは微塵もなかった。札入れ部分の数字を見ると、「2」の痕跡はなく、「4」が少し大きくなっていた。
 つまり、以前消えた一万円は、恭平が盗んだカネではない。俺が、財布に返済したカネ、と言えるだろう。
 本来、男から借りたカネは、五万円だ。それが三回、いや五回、五万円ずつ勝手に増えていった。思い返すと、財布の持ち主が変わるたびだ。俺と恭平は、二回往復させている。
 利息は、どうやら贅肉だ。極めて太りにくい体の下っ腹に、見て分かるほど付いていた。ずっと返さなければ、太り続けて狸のようになるのかもしれない。
 
 残りが「4」になった財布に、手元にあった最後のカネを入れた。夜遊びの後、引き出しの奥底に隠した十万円だ。
 しばらくすると、不吉な数字と四枚の万札が音もなく消えた。完済まで、誰かに引き継ぐ五万円のみになり、五枚の万札以外を抜き取った。
 
 自分の財布からタクシー代を出し、夜の繁華街へ再び赴いた時、この奇妙な体験に感謝した。彼女のことを話すきっかけになったのだから。
 そして、明日は両親にも。心の準備が整った。

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