【小説】家族の存在証明 -後編-
中学二年の冬、苗字を変えて、母と二人で暮らし始めた。住まいは日当たり不良の安アパートの一角で、風呂とトイレを別々に備えていたが、古畳の部屋が二つあるだけで、延べ床面積はこれまでの五分の一ほどになった。驚くべきことに、俺が通っていた中学校の側だった。
一部で物笑いの種にされていただろう。世間体を大事にしてきた母が、そんなことを気にしていたら生きてはいけないと言い放ち、俺にも強くあることを求めた。
ある日、スーパーマーケットの外で働く母の姿を見た。段ボールを片付けているようだったが、金持ち然としていた時よりも生き生きとしていた。私服の俺に気づくと顔を紅潮させて、「学校に行きなさい!」と親らしく声を張り上げた。
母はダンス教室を辞め、飾り気が一切なくなっていた。
俺は学校にほとんど行かず、悪友たちと良く連むようになっていた。類は友を呼ぶと言うが、片親だったり、親が外国籍だったり、家庭にコンプレックスを持った奴ばかりで、総じて育ちが悪かった。意識すべきは、舐められないように振る舞うこと。皆、虚勢を張ることに慣れていた。社会的にも、精神的にも、肉体以外のすべてが弱かった。
学校の前を自転車で通りすぎて向かう先は、溜まり場になっているゲームセンターと決まっていたが、中学三年に上がる頃から、サイトウという三つ年上の男と仲良くなり、彼が母親と暮らす場所にも足繁く出入りするようになった。そこはうらぶれた飲み屋の二階で、三つの住まいに分かれている内の一つだった。
あとの二つは、下の店で働く外国籍の女たちの寝床になっていて、客がたびたび出入りする半ば売春宿だった。サイトウの母親も、仲間の一人として同様に働いていた。
日中、女たちは寝ていて静かだった。コバヤシ、サイトウと呼び合う俺たちは、互いの本名を知らず、良くテレビゲームをして無駄に過ごした。
フィリピンから来たというサイトウの母親は、とても十七の息子がいるようには見えず、色白で派手な顔立ちをしていた。夕刻になると隣の部屋から起きてきて、更に派手な顔を作り出すのに小一時間。胸元は妙に人工的だった。サイトウの母親だと意識して見ると、その若作りと強い香水の匂いに吐き気がした。避けるように外に出ても、どこへ行けばいいのか分からず、どこへでも行けることが眩しすぎて、カーテンを閉め切った部屋にまた戻る日々だった。
サイトウは母親に対して高圧的に接した。おいと呼びかける響きは、ねぇとは全く異なるが、無意識のうちに俺は純子を下に見ていたのだろうかと考えさせられた。
母親が子供に与える影響は恐ろしい。サイトウは女に興味がないと言ったが、その理由は、余所の女が酔い潰れて寝ていることもある環境のせいだと思った。五月になると、布団をかぶっていない暑い日もあった。
玄関で力尽きたように倒れている女を見つけた時、俺は介抱する振りをして、初めて女の胸を触った。ぺらぺらの服の下に手を入れて。体を売っている女だと軽く見ていたような気がする。
日を跨いで二度三度、サイトウがコンビニへ行く隙などを狙い、大胆なこともやらかした。決して気づかれないと思っていたが・・・
女から揺すりを受けた。あまりに大きな金額を要求され、からかいを含んでいたかもしれないが、後ろめたさから弱気になり、逃げることしかできなかった。
二週間ほど真面目に学校に通い、溜まり場のゲームセンターでは俺のことを嗤っていると思った。女にびびった奴だと。逃げるところをサイトウに見られたわけではなかったが、女が暴露しない幸運は想像しがたく、事実よりも悪い噂になっているのではないかと恐れた。証拠がないことを安心材料にしようと思った。悲しい発想だ。
もはや否定することすら嫌になった時、笑って受け流す準備ができた。
社会の底辺に生きる暇人ばかりが集うゲームセンターは、底辺らしく地下にあり、古いゲームしか置いていない。
半月ぶりに訪れた日は、しとしとと雨が降っていた。悪友たちは、女でもできたのか?などと訊いてきて、あのことは噂になっていなかった。サイトウの姿はなく、いつ来たか?と訊いても、そんなことより女か?と話を戻された。
もう別れたよと、適当な嘘をついたが、彼らはどこまでやったのかを知りたいのだ。場所は特定せず、まるで自分が酔い潰したかのように語り、教えてやった。
すると、各々女への悪事を語り始め、自慢大会になった。どこまで本当か分からないが、全員死んだ方がいいと思った。
翌日も雨だったが、溜まり場に顔を出すと、肩幅の広いサイトウの後ろ姿を見つけた。幼稚なクレーンゲームを操作して、いつも通り時間を持て余している様子だった。どう声をかけようか考えて、ふと思い出したのは、サイトウと初めて出会った時のこと・・・
「君ってハーフだろ?」
「いや、違うな」
俺ははっきり否定して、端正な顔立ちを所々ピアスで傷つけている男を睨みつけた。
「目の色が俺と同じだぞ」
透き通るような茶色い目。俺はそんなに茶色くないと思った。
「自分の目は見えないのに、なぜ同じだと分かる?」
男はにやりと笑い、ガキのくせに頭いいなと言って、初対面で俺のことを気に入ったようだった。
「君ってハーフだろ?」
あの時と同じ言葉で、今度は俺から声をかけた。サイトウは振り返り、笑顔を見せた。毎日のように見ていた時は思わなかったが、口元のピアスが痛そうだった。
「違うと言ったよな。覚えてるよ」
なぜ家に来なくなったのか訊かれず、故に理由を知っていると思った。サイトウは朝から俺のことを待っていたようで、今日は会える予感がした、昨日の夜見た夢にコバヤシが出てきた、などと早口で語られた。
夢の中で俺たちは兄弟だったらしい。同じ父親を憎んでいたらしい。
夢の話とはいえ、嫌な気分になり、笑い飛ばすことができなかった。
「お前と一緒にするな」
なぜそう言ったのか分からない。喧嘩腰の俺に周囲が驚き、何人かに宥められた。
しばらくして、サイトウは明るい声で「気にするなよ。旨いもの食いに行こうぜ」と俺の肩を抱いた。
母から与えられる小遣いは微々たるもので、俺は金を持っていなかった。サイトウは羽振り良く、いつも食事や煙草などを奢ってくれた。嗜好が似ているのか、同じものを注文することもあったが、不気味な夢の話を聞いたせいで、その時はわざと別のものを注文した。
食後、これ使えよと言って差し出されたのは、携帯電話だった。「いいから持ってろ」と強引に、連絡が取れなくて困るからと説明された。そして、もう家には来ないだろ?の問いに、やはり理由を知っていると思った。
サイトウは誰にも言いふらさなかった。あの女から聞いただろうことを。
「今度は俺のとこに来いよ」
母はサイトウのことを嫌そうな顔で見た。ピアスのせいか、ひどい不良が来たという判断で、サイトウが帰った後に俺は説教された。
不良と付き合うな、高校に行けなくなる、などと言われて腹が立ち、進学する意志はないと初めて伝えた。動揺する母に、働いた方が助かるだろ?と意地悪なことを訊いた。予想通り反論。お金はあると。
「働きたいんだ。早く大人になりたい」
母は大きなため息をつき、どこかで聞いたと呟いた。記憶を辿るように目を細め、項垂れ、あの濁音を口にした。
「純子か・・・純子」
力なく、憎しみもなく、嫌な濁りが取れた声だった。
「純子は、香純さんのせいだろ?」
母は何も答えなかった。純子の早熟は自分のせいだと認めたようだ。認めた時には反論しない。それが母だと信じた。
中卒で働くことに対して、さほど考え直すように言われなかったが、切り詰めて頑張ろうとしていた母は、拍子抜けしたのかもしれない。正直、助かったとは思ってほしくなかった。何をして働くつもりなのか訊かれたのは当然のことで、まだ分からないと答えると、鳶は絶対に駄目だと言われた。危険を強調する母に、それ以上の疑問をぶつけなかった。やってみたい仕事があるわけではなかったが、ただ早く大人になりたかった。そして、なぜか漠然と、いつか結婚したいと思っていた。
サイトウは定職を持たず、たまに年齢を詐称してホストのような仕事をしていた。大人っぽいスーツ姿が意外に似合っていた。働く店に行ったことはないが、聞いた話によると、店員だけでなく客も男ばかりのようで、通常のホストクラブではなかった。
「サイトウは男が好きなのか?」
それをサイトウに訊いたのは、七月初旬のある日、母の留守中だった。分からないという答えだったが、「でも、コバヤシのことは好きだ」と真顔で付言された。
いかにサイトウでも、部屋に二人きりだったこともあり、俺は警戒心を覚えた。扇風機の回る音がやけに大きく聞こえた。
「好きの意味が違うだろ?」
「どうかな。分からないんだ」
そして、サイトウは女にありがちな特徴をあげつらい、ののしり、次第に熱が入ると、自分の母親のことばかりを取り上げた。聞いていて思ったのは、男に媚びを売る行為を特に嫌っているということ。同意できたが、サイトウ本人もそういう仕事をしている矛盾があり、同性ならばいいのだろうかと考えた。
仮に、母が過去の不倫を認めたとして・・・相手が女だったならば、笑い飛ばせるかもしれないと思った。同性の不倫相手との間に、子供が生まれてくることはないのだから。
翌日も、母の留守中にサイトウが遊びに来た。
母が帰宅すると、サイトウはお邪魔してますと礼儀正しく言った。鉢合わせること数回。歓迎とは程遠いが、母は小さく笑い、どうやらサイトウを受け入れた。
台所から何かを千切りにする音がして、母が夕食の支度を始めると、サイトウは帰る頃合いだと察したようで、俺も一緒に外に出た。
歩いて向かった先は、近所の和菓子屋の跡地だ。そこは廃業して数年が経ち、倉庫として使っていた建物の裏が、隠れて煙草を吹かすのに最適な場所だった。
サイトウは歩きながら、唐突に母のことを褒めた。いいよな、と。
「何がいいんだよ?」
「普通でさ。普通な感じがいいよ」
俺は納得して頷いた。女の魅力はないという意味に聞こえたからだ。サイトウの目から見ても、母は普通のおばさんだった。そもそも若い頃の写真も美人ではない。だから純子を嫌った。嫉妬していた。純子は美しかった。
暮れかかった道でそんな話をぽろり、ぽろりと、俺は口からこぼして、父との別れもサイトウに明かした。
置き捨てられた古いコンクリートブロックに腰を下ろす頃、今度はサイトウが自分の生い立ちを語り始めた。手元の火を点けることなど忘れていたが、少し遠くにある街灯が俺たちの心の闇を照らすように灯った。
サイトウが七歳の時、突然いなくなった三つ下の妹。母親と二人でフィリピンに帰り、戻ってきたのは母親だけだったそうだ。恐らく父親の暴力から逃がす為だった、それは正しかった、と振り返る一方で、サイトウ自身は暴力的な父親をなぜかかっこいいと思い、その気持ちは今でも拭えないと言った。
「父親は今どこにいるんだ?」
「四年前に交通事故で死んだよ。たぶん殺されたんだけどな」
妹の行方は今でも分からないらしい。母親は固く口を閉ざして、一枚の写真すらなく、顔の記憶が年々薄れていることが悲しいと・・・会いてえなぁと、まさに心の声だった。
「そうだな。会いたい」
「姉さんか?」
俺は返事をしなかったが、純子のことだと分かったのだろう。サイトウは叫ぶように言った。会いに行けよ!と。
「一緒に来てくれるか?」
不安が言葉になった。純子はまだ同じ場所に住んでいるだろうか。戸籍上も弟ではなくなった自分を受け入れてくれるだろうか。
サイトウは嬉しそうに笑い、「もちろんだ」と力強く答えてくれた。
翌々日、サイトウがどこからか厳ついバイクを調達してきた。
「後ろに乗れよ」
ヘルメットを渡され、どんよりした蒸し暑い空気を切り裂いて走った。俺の記憶だけを頼りに、道を間違えながら。
一方で、サイトウの運転には乗り慣れているような安定感があり、全く怖いとは感じず、バイクに乗るのは初めてなどと口に出さずに済んだ。
探索は、敷地内に着いてからが本番だった。なにせ、暑い盛りのほぼ一年前、ファミレスの駐車場から寂れたアパート群を遠目に見ただけだ。その一角に純子が住んでいるとして、無論どこの棟かも分からない。
棟を間近で見上げると、五階建ての外壁の側面に消えかかった数字がふってあることに気づいた。とりあえず数えて回ってみた。南から北へ等間隔に1、2、3、小さな公園を挟んで5、6、7。4号棟はどこにあるのか、サイトウに訊いた。
「たぶん4は、縁起が悪いってことだろ」
意味が分からなかったが、説明を受けて納得した。死、死と声に出す俺をサイトウは笑った。
純子の新しい苗字は、丸山だと知っていた。小林に戻っていたら、ここには住んでいないような気がした。
サイトウが提案したのは郵便受けを見て探すこと。一棟につき三つの階段があり、階段ごとの出入り口にあるそれを六棟すべて見て回った。大半は部屋番号だけで、名前が添えられていなかった。
しかし一件、MARUYAMAという表記を見つけた。広告類が溢れそうなほど入っている両隣とは対照的に、住人がいることを分かりやすく示していた。鍵などはなく、サイトウはその郵便受けを開け、中にあった二通の手紙の宛先を見た。俺も確認したが、二通とも純子ではなく、章子という名前が記されていた。俺は「しょうこ?」と読んだ。
「あきこじゃないか?どちらにしても違うな」
サイトウは手紙を元の郵便受けに戻して、他をあちこち開け始めた。階段から誰かが降りて来る足跡が聞こえて、「おい、誰か来たぞ」と俺は少し慌てたが、サイトウは平然と、まるで自分の郵便受けを見ているような態度で、降りて来た中年の女に、「こんにちは」と挨拶したばかりか、「暑いですね」と爽やかに付言した。女は怪訝な顔で何かをぼそりと言って、逃げるように立ち去った。
玄関の表札も見て回った。該当したのはMARUYAMAだけだったが、名無しの表札のどこかに、純子はまだ住んでいるような気がした。探しているうちに、彼女は表札を出しそうにないと思ったからだ。離婚間際の、不幸な家庭を想像してのこと。急に訪ねても、恐らく歓迎されないと思い直して、住人とおぼしき男に話しかけようとしているサイトウを制止した。
「あの公園で待ってみよう」
3号棟と5号棟の間にある小さな公園。そこでただ待つ、という提案だ。純子が子供を連れて来るかもしれないと説明した。
サイトウは「暑くて来ないだろう」と、ため息をついたが、すぐに笑い、こう言ってくれた。
「秋まで待つか」
例年よりも早く梅雨が明け、午後になると連日暑さがひどかった為、純子を待っていられるのは午前中に限られた。ブランコ、砂場、ジャングルジム・・・、鉄棒だけは大人用の高さの物があり、逆上がりができないことをサイトウにからかわれ、やったことないから当たり前だと嘘をついた。
幾度か挑戦するうちに逆上がりができるようになった他は、木陰のベンチに座り、携帯型ゲーム機で暇を潰した。場所が変わっただけで、サイトウの家に出入りしていた頃とやっていることは変わらず、あの頃から純子を待ち続けているような気がした。夏休み前に来るのは年寄りばかり。彼らの休憩場所は、何見てんだと威嚇する俺たちが占拠していた。
故に、ある日二人の警官がやって来た。ここ最近、怪しい奴らがいると誰かが通報したのだろう。想定していたことで、煙草とライターは持っていなかった。年齢を訊かれ、俺も十七と答えた。嘘を並び立てて、居場所がないのだと泣きを入れ、主にサイトウが対応した結果、長時間居座らないことを約束させられるだけで済んだ。
しかし、そんな約束を守るはずはない。警官も分かっていただろう。三日後、またやって来たその姿を遠目に見て、サイトウはこう言った。
「逃げるぞ」
まさかの選択だったが、胸の高鳴りを覚えた。二人で笑いながら駆け出して、敷地内を北へ、鈍足で追いかけてくる警官から逃げ切ろうとした。7号棟の横を通過して、どれくらい引き離したか確認しようと振り返った時、棟の階段下でしゃがみ込んでいる純子の横顔を見た。乱れた髪に部屋着とおぼしき格好。傍らに、立って間もない様子の樹里がいて、二人でぼんやりと遠くの空を見ていた。
「待ってくれ」
息を切らして言うと、サイトウの足も止まった。俺は頬を流れ落ちる汗を肩口で拭い、呼びかける・・・いや、呼び捨てるのを躊躇った。こちらを向いて立ち上がった純子の左目付近には、殴られたような痣があった。それでも微笑む純子に近づくと、なぜとは聞かれず礼を言われた。会いに来てくれたのね、ありがとうと。俺は微笑み返すことができず、自分の左目に手をかざして、どうしたんだ?と訊いた。
「足を滑らせて、階段から落っこちたの。心配ないよ。すぐに治るから」
あまりにも下手な嘘だ。俺は問い質そうとしたが、純子はそれを遮るように、「あら?」と視線を移して、警官に捕らえられた状態のサイトウに気づいた。
「お友達?」
「そう、友達。一緒に来てくれたんだ」
サイトウは何か説明しながらこちらを指差した。訴えるように。あの人を探していただけだ、あの二人は姉弟だ、そう言っていたのかもしれない。正しくとも、所詮逃げ出した奴の言うことだ。こちらに近づいてきた警官の一人が、俺に一瞥をくれ、お知り合いですか?と純子に訊いた。
「そうです」
俺が答えてやった。お前に訊いていないと言いたげな警官に、純子は微笑みかけて、正しく言い換えるように、はっきりこう言った。
「家族です」
俺と目が合うと、小さく頷いた。一切笑っていなかった。そして純子は、家庭の事情で離ればなれに暮らしていると説明した上で、彼らが不審な行動をとったとしたら、どこに住んでいるのか伝えていなかった私のせいだと謝罪した。
「なんで謝るんだ?」
「あなたは黙ってて」
純子は泣き出した樹里を俺に預けて距離を置き、警官と話を続けた。子供をあやしたことのない俺は戸惑ったが、サイトウが慣れた様子で手を差し伸べてくれた。
やっとのことで泣き止み、純子の方を見ると、彼女は警官が携えていたバインダーを使って何か書かされていた。大人の対応で丸く収めようとしていた。警官は書き終わったそれを受け取ると、俺たちには何も言わずに帰っていった。
サイトウは純子に会釈をして、言葉を交わすことなく気を利かせた。俺に言い残したのは、最寄りのコンビニにいるということ。冷たい物の買い出しにたびたび利用していた場所だった。
「元気そうね。良かった」
痣のある顔でそう言われ、俺は辛い気持ちになった。このまま連れ去ろうにも、純子と帰る家はない。何を訊いても心配ないと言うだろうと思った。なぜなら俺は、助ける力のない子供。母と二人で暮らしているのか訊かれ、小さく頷かなければならなかった。
「手紙、読んだよ。私はね、お父さんも悪いと思うの」
家を出る時に隠しておいた手紙のことだった。宛先通り無事に純子が見つけてくれた文面は、不安や戸惑いを隠して、運命を受け入れる覚悟を表した。父に罪はない、全く恨みはないなどと、かっこつけて書いたのだ。
「仕方ないよ」
そう言って笑う俺は、結局かっこつけて、強く生きている姿を示そうとした。
弱いくせに。真実を曖昧にしたいくせに。父を恨めば、俺を捨てたと認めることになり、母を恨めば、誰かと不倫したと認めることになり、どちらも恨めず、誰が悪いとも決めず、ぼやかした運命を受け入れているだけだった。
サイトウは大きな窓ガラス沿いの雑誌コーナーで待っていた。俺は店に入る前に、その立ち読みする姿を見つけて、窓ガラス越しに笑わせてやろうと思ったが、おどけた顔をするような気分ではなく、ただその真正面に立ってみた。なかなか気づかれず、何を読んでいるのか背伸びをして覗き込み、また通報されそうな事態だったが、ようやくサイトウは顔を上げ、怪しげな俺を見て吹き出した。荒っぽく手招きされて店内に入ると、「えらく早いな」と驚かれた。
「電話番号を教えてもらったからな。いつでも話せるさ」
そうは言ったが、サイトウから借りているこちらの番号は教えていなかった。それを捕捉してサイトウに伝えた。この電話は使わないから安心しろと。
「使えよ。気にするな」
そして、サイトウはアイスキャンディーを二つ買い、店を出ると俺に一つくれた。受け取ってすぐに齧りついた。遠慮すれば、気にするなとまた言われただろう。その言葉に幾度も救われ、同時に情けなく思っていた。
「いつかアイスを千個くらい奢るよ」
サイトウはけらけらと笑い、いつか仕事を紹介してやるよと言った。頷く代わりに見上げると、空がとても高く見えた。宇宙まで青く続いているような空に、どこまで近づけるだろうかと考えた。
「俺さ、鳶になろうと思う。鳶職だ」
サイトウは予想外の反応を見せた。冗談だろ?と笑うことなく、或いは止めておけと否定することもなく、真顔で、突然どうした?と訊いたのだ。
「鳶になるって、さっき純子に言ったんだ」
「いや、だからなぜそうなった?」
自分でもはっきり分からなかった。ただ、純子に伝えたかった。早く大人になると。それが、鳶になるという宣言に思えたのだ。きちんとした仕事の多くを知らなかったこともある。純子に高校に行くのか訊かれた時、何も決まっていないとは言いたくなかった。
サイトウに隠さず伝えると、すぐに辞めたら逆にかっこ悪いぞと言われた。そして、鳶はきつい仕事だと・・・
純子にも同じことを言われた。その時返した言葉をもう一度、自分に言い聞かせるように言った。
「大丈夫だ。俺は強いから」
サイトウは微笑み、姉さんのことをコバヤシが守ってやれよと言った。純子の目元の痣が何を示しているのか、サイトウも分かっているようだった。
「家族なんだろ? あの言葉は、聞いていて感動したよ」
俺は深く頷き、サイトウと一つ大切な約束をしようと思った。
「いつかフィリピンに、サイトウの妹を探しに行こう」
俺たちは肩を組んだ。唯一無二の親友だと思った。
鳶になることを母にどう伝えるか。意を決して伝えるような雰囲気ではなく、晩飯の時にさらりと言うつもりだったが、そう意識するほどに妙な緊張を覚えた。
三日間、顔色を窺い続けて・・・
鼻歌交じりで皿洗いをする母に声をかけた。今思い出したように装い、淡々と決意を伝えると、シンクの中で皿が割れた。振り返った顔には涙があり、それは私に対する復讐かと訊かれた。
復讐とは母らしい表現で、大袈裟だが、俺は否定しながらも、無意識にそういう感情があるのかもしれないと思った。あったとしても、実行する復讐はパフォーマンスで、誇張した演技にすぎない。明確な恨みはないのだから。ただ訊いてみたかった。母の思い通りにならない俺を、それでも息子と認めるのかを。
「いつか、あなたは私を捨てる。私の運命。お父さんにも捨てられた。私はいいの。でもね、あなたを捨てたことが許せない」
唐突に父への恨みを語り、号泣して、まともに話を続けられなくなった。俺は父の息子であると、言い方を変えて幾度も言っていた。この町で暮らすのは父への復讐だと言っていた・・・
たしかに、父は遠くへ行ってほしいと思っているに違いなかった。
なぜこんなに近くに住んでいるのか。俺を転校させたくないなどの理由ではなかったのだ。
二ヶ月ほど経つと、母は俺の進路について嘘くさいことを言った。
「あなたの為を思えば、それがいい」
本心かもしれないが、俺が口にするまで、昼間仕事をして夜高校に通った方がいい、などという助言は、母から一度もなかった。
純子に言われたのだ。たびたび電話で話すようになり、高校には定時制で通った方がいいと。
緊張しながら初めて純子に電話した時、糸電話でお話したこと覚えてる?と訊かれた。鮮明に覚えていたが、記憶は朧げであるかのように、そんなこともあったねと言った。
「これは秘密のお話の続き」
母には言うなという意味か。二人だけの秘密という意味か。いずれにしても純子との会話は、あの日と変わらず秘密の電話だった。
「急がば回れって教えたじゃない」
焦って大人になろうとする俺をたしなめるように、考え直すように言うこともあった。定時制の高校という助言は、それでも働きたい俺への一種の妥協案だった。
悩んだ末、意地を張らずに従うべきだと判断したのだ。
「応援してる」
そう言ってくれたのは、純子だけではなかった。意外にも学校の先生たちの応援も受けて、鳶の働き口と定時制の進学先、どちらも世話をしてくれた。
なぜ俺なんかに? 一番良くしてくれた先生は言った。俺の若い頃を見ているようだと。働きながら定時制の高校に通った経歴を持ち、苦労人らしい厳しい顔つきをしていた。ただ現れるだけで、悪ふざけしている生徒を大人しくさせる威圧感があった。背中には登り龍の刺青があると噂され、ある生徒が授業中にそれを訊いたらしい。気が弱い奴で、正確に言えば訊かされた。俺はその場にいなかったが、先生は無言でシャツをすべて脱ぎ、裸の背中を教壇から生徒たちに見せたそうだ。無論、刺青はない。授業中に裸になったという事実だけが一人歩きした時も、先生は言い訳をしなかった。かっこいい大人だと思った。口数は少なかったが、発する言葉には重みがあった。
そして、卒業式の日は・・・
「死ぬ気で頑張れ。死なないことは俺が証明した」
他の生徒には、そんな激励をしなかっただろう。重みを超えて、胸を殴られたような痛みがあり、俺は涙を堪えて頭を下げた。死ぬ気で頑張ろうと思った。強く生きている姿を父に見てもらいたいと思った。復讐ではない。母にも伝えたいことだった。
最後のホームルームは、卒業式と同様に保護者たちが教室の後ろで見守っていたが、母の姿を見つけられなかった。目立つ場所を陣取る人たちは、派閥のようなものに属していると感じて、少し不愉快だった。母は廊下に押しやられた人の中に紛れていたのだろうか。
校舎を出ると、校門との間で他クラスの生徒たちとも別れの挨拶を交わした。肩を叩かれて振り返り、喋ったこともない奴とも写真を撮り、制服のボタンを交換して、なぜかその一時だけ友達が増えた。そして、また背中をぽんと叩かれて振り返ると、まさかの純子だった。校門の外から見ていたのか。目元の痣は消えていて、綺麗に化粧をしていた。
「卒業おめでとう。一言それを伝えたくて」
何かが入った紙袋を手渡され、すぐに立ち去ろうとする純子に俺はこう言った。
「死ぬ気で頑張るから」
見ていてほしいと願ったが、しばらく会わないでいようと、死ぬ気で頑張るとは、そういうことだと思った。背中をこちらに向けたまま純子が小さく掲げた拳は、約束という力になった。
実際、俺は死ぬ気で頑張った。朝七時半には仕事現場に入り、見習いとして、地上での荷運びが主な業務だった。重い資材をひたすら運ぶ。運ぶ際のバランスの取り方を体で覚える。唐突に専門用語で指示をされ、混乱して、また同じ指示をされて覚える。丁寧に教えてくれることはなかったが、良く見てろなどと言って、後は背中で語る姿をあの尊敬する先生と重ねた。
先輩たちは総じて実年齢よりも上に見えた。三十前後だと思っていた人がまだ十代だと知った時は、さすがに冗談ですよね?と訊いてひっぱたかれた。
初任給で真っ先に買った物は、携帯電話だった。新しい番号でまずサイトウに電話して、借りている電話は返すと伝えた日、肉屋に入り馬刺しを買った。夕暮れの中、元和菓子屋の隠れ場で一人になり、調味料を何もつけず、わざと獣のようにそれを食べた。分け与えたのは、か弱い鳴き声の野良猫だった。食べたそうな顔が、一瞬ブランに見えたのだ。
職場では中坊と呼ばれていた俺だったが、四ヶ月の頑張りで漸く名前を呼ばれるようになり、外見も不釣り合いではなくなってきた。たるんだ脂肪は筋肉に変わり、顔は日焼けて黒くなり、鏡に写して見ると、父に全く似ていなかった。それは虚像だが、俺が変わったのは事実だった。遺伝子が変わること、或いは変えることは可能だろうかと考えた。体力的に何か考える余裕ができたのもその頃だった。
十七時に仕事が終わってから学校へ行くのだが、当初は疲れすぎていて授業を聞いていられなかった。集中はおろか、気づくと寝ている。基本的に先生は注意してこなかったが、ある時起こされると、教室中の生徒から笑われた。どうやら豪快な鼾をかいていた。狸顔なのに狸寝入りではないなどと、休み時間にからかってくる奴がいた。
それはぼんやりと記憶に残り、ずいぶん経ってから、俺は狸顔か?と訊いた。言われて気づいた奴を含め、そこにいた全員が頷いた。
次第に授業を聞いていられるようになると、狸起きという新語を誰かが作り出した。起きている振り。頑張って起きているだけならば、たしかに狸だ。しっかり授業を理解しなければならないが、少し考える余裕ができたことで、逆に弱気になっていた。そもそも高校に通う意味はあるのかと。
仕事は金になる。分かりやすい対価を得ることで、大人に近づいている実感があった。お気に入りの財布は、卒業式の日に純子にもらった本革の高級品。添えられていた手紙には、お互い忙しい時は電話に出られないからと、メールアドレスが書いてあった。
すぐにこの財布が似合う給料を取ってみせるよ。
そんなメールを四ヶ月経って見返すと、あまりの無知ぶりに恥ずかしく思った。
「どちら様ですか?」
サイトウは会う度にそう言った。無論ふざけて言っているのだが、月に一度くらいしか会わなくなり、逞しく変化する俺の外見に毎度驚いていた。食事代は俺が出す番だ。サイトウが求める割り勘を拒む時、使う言葉は「気にするな」だった。
そう言えるようになったことに浮かれ、見習いの低賃金にも関わらず、学校の同級生にも気前良く奢っていたが、ある時貯金という発想が生じ、金は考えて使うようになる。十八歳になったら車を買いたいと思ったからで、きっかけは純子との再会だった。
中学を卒業してから半年ほど経った頃、祝日の昼下がりに、純子は角張った黒い軽自動車を運転して俺を迎えに来てくれた。無論、母に見つかりそうな場所ではない。指定したのは、わざわざ電車に乗って移動した先の、小さな駅前だった。
いい意味で驚いてくれるだろうと期待して会ったのだが、純子は俺の顔をじっと見て、「髪を切ったんだね」と、まるで先週も会ったかのような反応だった。半年もあれば三度は切る。長いままの純子も幾度か切って整えたはずだ。にっこりと笑う顔に新しい痣や傷などはなく、後部座席のチャイルドシートにも元気そうな姿があった。樹里はすくすくと大きくなっていた。俺の成長は取るに足らないほどに。
三人でドライブする目的を誘った純子も持ち合わせていなかった。珈琲が美味しいという喫茶店に向かうも定休日で、それならばと向かった店も閉まっていた。
「ごめんね。何も考えてなくて」
女にそういうことを言わせてはいけないと生意気に思った。純子任せだったと反省した時、ハンドルを握れない自分に苛立った。
数日のうちに近所の自動車学校を調べ、九月下旬にバイクの免許を取得した。一つ年を重ねて十六歳になっていた為、それは可能だった。
そして、中古の黒い原付バイクを自分で買い、ゴーグル付きの白いヘルメットを母が買ってくれた。白が暗闇でも目立つという理由で、親らしい気遣いだったが、わざとらしいとは感じなかった。
サイトウの新しいヘルメットも白く似たような形だった。近所を巡るだけのツーリングに二人で出かけた時、「なんだか兄弟みたいだな」とサイトウに言われた。否定する言葉が出てこなかった。やはり兄弟という表現に嫌悪感を覚えながらも、俺が痩せて背格好も似てきたことは確かだった。
角張った黒い軽自動車を見つけると、運転手の顔を確認するくせがついていた。サイトウに注意された。走っている時によそ見をするなと。ごもっともだ。兄貴面するなと出かかった言葉を飲み込んで、俺は返事をしなかった。
たまに口論になることはあった。親友であるが故に。本当の兄弟ではないと信じていた。親友だからといって、携帯電話を借りるのは行きすぎていたかもしれない。ゲイだから良くしてくれるのではないかと、下心を疑うこともあったが、それは恥ずべき過去だ。例えゲイだとはっきり告白されても、俺は受け入れる自信があった。男女の友情はあり得るのだから。
秋らしくなってきた頃、学校へ遅刻して行くことが多くなった。授業中に入室すると悪目立ちする為、十八時から四時限あるうちの最初の一時限をまるまるサボる手口だった。サボった時間をなにかしら有効活用する考えはなく、ただの怠惰だったが、一旦帰宅して、仕事先から帰ってくる母に見つかっても、中学の頃のように怒られることはなかった。
怒ってほしいと寂しく思った時、母がまだ帰ってこないはずの、十八時前には出ると決めて、わざわざ時間調整の寄り道をするようになった。
馬刺しを分け与えたあの野良猫は、俺に良く懐いていた。仄暗い日没後にも関わらず、煙草の匂いで来たと分かるのか、訪れる度にか弱い声で俺を呼び、同情を誘う姿を見せた。誰かに捨てられた猫だと思い、名前は勝手に付けなかった。馬刺しを買ってきてやると、警戒せずに食べ散らかして、育ちが悪そうだったが、早朝、仕事前に立ち寄っても、挨拶はきちんとできる子だった。
その愛らしい姿を撮って純子に送った。仕事以外の話題を考えてのことで、写真付きのメールを送ったのは初めてだった。野良猫を可愛がっていると、文章でも伝えた。
返信は翌日、可愛いね、と素っ気ない一文が返ってきただけだった。半年ぶりに会ったきり、あれから一度も誘われないのは、俺とのメールを退屈な遣り取りだと感じているからだろうと思った。
メールすら間遠になってきた原因を単調な日々のせいにして、面白い話題を学校で探した。仕事のことばかりメールしていたせいか、どうやら純子に、学校をサボっていることを悟られたからだ。ある返信メールで、学校も頑張ってね、と。
学校を辞めるきっかけがなかった。面白い話題は、作ってみた女友達の良く外れる占いくらいしかなかった。
学校の友達から、雨の日は仕事が休みになると思われがちだったが、基本そんなことはない。専用の合羽を着て、翌日に備えての地上での運搬や、事務所周りで足場の整理などを行う。秋でも肌寒い日はひどく体が冷える。どしゃ降りで高所作業が中止になることはあるが、そもそも見習いの俺は高所へ行かせてもらえなかった。専用の合羽を “鳶合羽” と書き表すと、いかにも空を飛べそうで、雨の日は尚更惨めだと感じた。
正直、働いている姿をまだ誰かに見られたくなかった。理想は遠く、とても高いところにあり、そこで華麗に動き回る先輩たちを仰ぎ見て、憧れと不安が交差した。俺には無理かもしれないと弱気になった時は、仕事終わりに食べるもの、それだけを考えた。
食べたい、眠たい、抱きたい・・・。低次元の欲求に支配されていると、意外に楽になることが分かったが、抱きたいという欲求を自分一人で処理した後の虚しさは、吐き気がするほどだった。眠たくなるから救われた。寝る意味とは、体を癒すというよりも、精神の安定の為だと思った。
十一月初旬のある雨の日、仕事中に殴られた。きっかけは殴った先輩本人のミスだった。理不尽にも俺のせいにされ、それが良く聞き取れずに聞き返したところ、鼻っ面を拳で殴られたのだ。雨のせいで聞こえなかったと言い訳したことを少し後悔したが、帰れという言葉を真に受けず、最後までやりきった。
そして、食べようと決めていた豚骨ラーメンの店に行き、大盛りのそれと餃子、炒飯まで平らげた。学校へ行く気がなくなった。卓上につっぷして寝てしまい、店員に起こされて帰路についたが、まだ通常ならば学校にいる時間帯だった。
母は心配するだろうと思った。愚痴を聞いてほしいと思った。久しぶりに甘えたい気持ちを持って帰宅した。
俺の顔を見て二人は驚いた。母とサイトウ。グラタンとサラダを食べていた。母が作ったものに違いなかった。サイトウも俺のことを下の名前で呼び、ラジオのように良く喋った。待たせてもらってたんだ、早く帰ってきて良かった、なんか元気ないな、一緒に食べようぜ、このグラタン最高に上手いぞ・・・などと。俺はこう答えた。
「俺に電話してから来いよ。今日は疲れてるんだ。早く帰ってくれ」
サイトウは神妙な顔をして、悪かったよと謝ったが、母が俺を悪者に仕立てた。
「待ってくれていた友達になんて酷いことを言うの」
「嘘をつくなよ」
母にそう言った直後、俺は自分を否定したような気分になった。何が嘘なのかと訊く母。そそくさと帰っていくサイトウ。今夜は俺が悪者でいいと思った。
大抵の場合、母の言うことが正しければ、俺は幸福なのだから。
「昨日は悪かったな」
いつも通り出社すると、俺を殴った先輩に謝罪され、いえ、とだけ言って頭を下げた。
休憩時間になると、その先輩は缶コーヒーを飲む俺の横に座り、また話しかけてきた。空は見事な秋晴れで、清々しさを取り戻していた。
「昨日、何か夢を見たか?」
唐突にそう訊かれたが、俺は仕事を始めてから夢を見た記憶がなく、寝た記憶すらなく朝になっていることがあった。その先輩は鳶になってから、良く落ちる夢を見るようになったらしい。昨日の夜は天地がひっくり返り、空に向かって落ちた・・・そんな夢の話だけでは終わらず、実際に天地がひっくり返ること、大地が崩れ落ちることはあり得ると語った。自分たちが作った足場は崩れないと確信しているが、神だか仏だかが作った大地のことは信用していないと。
それを側で聞いていた職長、即ち現場の長が口を挟んだ。
「祈ってるだけじゃ駄目ってことだ。自分で確信を掴みに行かねぇとな」
若干二五歳にして職長。二児の父親。俺と同じ中卒で鳶の見習いになり、その翌年に第一子が生まれた時、自分は大人になったと決めたそうだ。年齢や性別は関係ない、どんなことも自分で決めてぶれない確信を掴めと、良く言ってもらった。
「確信を掴むと人は強くなれる。まぁ、頑張れよ」
俺は組み上がった足場を見上げ、一番高いところに向かって手を伸ばして、何かを掴む振りをした。先輩たちは、「掴め掴め」と囃し立てて笑った。
その日は遅刻せず学校へ行った。
授業中にメールの受信音が鳴ると、純子からではないかと気になり、携帯電話を教科書で隠して操作した。メールは右斜め後ろに座っている奴からだった。半見え、という辞書には載っていない言葉を使い、股上の短いジーンズをいつも履いている女の、見えているというより見せている下着について、取るに足らない情報を送ってきたのだ。
純子にメールを送ったのは二日前。その日も返信はなかった。
翌日も音沙汰がなく・・・
短い文章をまた送ってみた。何かあったのかもしれないと不安になった。それまでは遅くとも二日後、返信が来ないことは一度もなかった。
返信のない最初のメールから五日経った夕刻、仕事終わりにメールではなく、電話をかけた。純子が出るか否かの前に、携帯電話の呼び出し音を鳴らせなかった。電源が入っていないのか。電波が届かない場所にいるのか。どこか遠くへ行ってしまったような気がして、学校をさぼり、純子の住まいに向かって原付バイクを飛ばした。日は暮れていたが、もう迷うことはない。部屋番号は電話で聞いていた。
ななごーに。純子がそう読んだ部屋番号の意味は、7号館の5階、西から2番目だ。
その付近は、外廊下の共用灯が切れかかり、不安を煽るように点滅していた。やはり表札はなかった。インターフォンを鳴らしたが、人のいる気配はなかった。
なす術を考えて、父の家に向かう決断をした。純子は離婚して帰ったのかもしれないと思ったからだ。
父に会ったら何を言おうか。逞しくなった俺を見て驚くだろうか。もう受け入れてくれるかもしれないと、淡い期待もあった。
ずっと遠ざけていた家・・・
月明かりの下、その白い外観が見える場所まで来ると、一瞬ほっとした。純子の部屋に灯りが点いていたからだ。しかし、他の部屋の灯りも沢山点いていて・・・リビングから男の子の声がした。賑やかだった。まるで家族が暮らしているかのように。
ゴーグルで顔半分を隠して、バイクに股がったままインターフォンを押した。ゴーグル越しに見た表札の名前は、読み方が分からなかった。知らない若い女の声がインターフォンから届いた瞬間、俺はバイクのエンジンをかけて走り去った。
誰だ? 女も同じことを思っただろう。父は恐らく、自分の家を捨てたのだ。どこへ行った?どこへ行けばいい?
俺は途中で引き返した。あの幸福を破壊してやろうと。会ったこともない人への殺意が燃え上がった。
これで最後だと思いながら家を眺め、煙草に火を点けた。父からもらった腕時計の針は、残酷に動いていた。脳裏を駆け巡るのは、過去のことばかりだったが、時間を決して巻き戻せず・・・次第に吐き出す煙が震えた。夜風の所為ではない。目元にゴーグルを付けていられなかった。
殺意が涙に消火されるように萎んで、煙草の火はアスファルトの上に落ちた。
翌日、俺は初めて仕事をさぼった。仕事に向かう格好で定時にアパートを出たが、通勤路を大きく外れ、行く宛てもなく、そういう人が集う場所に自然と流れ着いた。サイトウに出会った、あの地下のゲームセンターだ。
朝七時台の開店前、地下道のベンチには、老いぼれた浮浪者のような先客がいて、隣に座り、一言二言言葉を交わした。呂律が回っていないせいで何を言っているのか分からなかったが、自動販売機を指さして訴えていることは分かった。買ってくれだと。その時、財布を忘れたことに気づいた。代わりに煙草を取り出して、吸うか?と訊くと、男は首を横に振り、堂々と吹かし始めた俺の煙を避けるようにどこかへ行った。
忘れずに持っていた携帯電話が鳴ったのは八時すぎ。職長からだった。少し迷ってから出ると、生きてんのか?!と怒鳴り声で訊かれ、すみませんと答えた。何を訊かれても、すみませんと。職長は舌打ちをして、まぁ生きてりゃいいわ、の一言で電話を切った。
直後、俺は純子に電話をかけた。生きてりゃいいと、繋がったら言ってやろうと思った。また駄目だったが、明日は繋がるような気がした。そして、明日は仕事へ行こうと・・・今すぐ行こうという気持ちにはなれず、ひどく体が怠かった。金もなく、アパートに戻ろうとしたが、母が出かけるはずの九時半以降にしようと思い、いつもの隠れ場に寄り道した。
少し前から野良猫は現れなくなっていた。俺は一人で猫の鳴き声を真似た。猫の呼び方、名前は知る由もなかった。
腕時計で十時を確認して帰ると、誰もいない部屋は綺麗に片付き、ほのかに化粧品の女っぽい匂いがした。脱ぎ散らかして部屋着に着替え、布団を敷いて潜り込んだ。
すぐに落ちた眠りは浅く、夢かうつつか、寝ている間に誰かが来た。鍵を開ける音。部屋に入り出ていく気配。母が何か取りに来たのだろうと思い、はっきり目を覚まさなかったが・・・
どうやらそれは違った。十八時頃帰ってきた母は、「具合が悪いの?」と、布団の中にいる俺を初めて見たような顔で驚いたのだから。
久しぶりに夢を見たことにしよう。
そんな風に思った。落ちる夢ではなく、誰かが来る夢だ。仮に父だったならば、もう正夢になることはないと分かっていた。
明日は電話が繋がる。その予感は正しかった。
休んだ分、いつも以上にしごかれた仕事が終わり、携帯電話の発信履歴に連なる番号に電話をかけると、呼び出し音が俺の耳にも届いた。長く感じたその四コール目、死を恐れて五と言い換えるべきかもしれないが、無言で電話に出た相手は、純子ではないのかもしれないと思った。もしもし、と話しかけても応答しない。不安を振り払うように、生きてんのか?!と強い口調で訊くと、ようやく純子の声が返ってきた。
「生きてるよ」
無機質な声色だった。生きてりゃいいとは言えなかった。
「色々あったの。ずっとメールも返せなくてごめんなさい」
会って話さないかと提案すると、純子は的外れなことを言った。彼女がいるでしょうと。いない、そんな暇はないのだ。
「彼女なんているわけない」
「すぐにできるよ。私になんて構わないで」
「関係ないだろ?」
家族なんだから。そう付言しなかったが、例え彼女がいたとしても、純子に会うこととは関係ないはずだ。
「私を彼女にどう紹介するの? あなたの今後を考えると、私はいない方がいい」
「何でそんなことを言うんだ?」
「あなたはもう一人前」
その声色は笑っていた。
「両親がいなくても生きていけるもの」
まだ半人前だ、いい加減なことを言うなと、思ったそれを俺が言う前に、純子は笑った声色のままでこう言った。
「家族を卒業しましょう。私たちは自由なの」
糸電話をしたあの日から、切れそうで切れずに繋がっていた細い糸のようなものが、頑張ってね、の一言で電話を切られた瞬間、一緒に切れてしまったような気がした。
一人でいる時間が辛くなった。死ぬほど忙しい方がいいと思った。内面を直視する暇がないように。良く働き、良く学び、良く食べた。学校が終わってもすぐに帰らず、勉強を教えてくれと誰かを巻き込み、深夜も営業しているファストフード店に居座ることもあった。
今度の休み暇か?と誘われれば、これまでと違って断らなくなり、鳶の先輩から女を紹介してやると言われ、合コンという会合にも参加した。紹介される女に好感は持てず、馬鹿騒ぎする雰囲気に乗り切れなかったが、そこにいるのは嫌ではなく、いい声だね、とカラオケで褒められるなど、嬉しく思うこともあった。
ひたすら疲れることをして、あとは寝る。疲れすぎていて夢など見ない。それで良かった。体は強くなっていた。お前体力あるなと、先輩から言われるほどに。
職長から、女にでも振られたか?と訊かれた時は少し動揺した。積極的になった俺の背後には悲しみがあると、口にしたのは職長だけだったが、他の誰かも感じていただろうか。
振られたわけではない。家族だ。そう心の中で力む度に、私を彼女にどう紹介するの?という純子の言葉が胸に浮かんだ。姉なのか。違う何かか。
俺が決めるのだ。世間や遺伝子には決められたくない。男に生まれても、女として生きようとする人もいる。彼らは、女だと確信する瞬間があるのだろうか。それを認めない人の気持ちも理解できる。家まで捨てた父の気持ちも理解している。誰しも受け入れられないことはあるのだ。理屈ではない。・・・そう、サイトウは俺の兄ではないのだ。
そして、親友でもなくなる日が訪れる。
皮肉なほど穏やかな小春日和。仕事は予定していた資材が搬入されず、午後から急に休みになった。どこかへ遊びに行こうと、周りに提案したが、誰も乗り気ではなく、昼飯の牛丼を食べただけで帰路についた。
日当たり不良のアパートの二階。玄関の扉は、眼前の小道から上半分が見える。
徐行したバイクでその辺りに差しかかると、母しか出てこないはずの扉が開き、サイトウの顔が見えた。咄嗟に隠れようかと思ったが・・・現実と向き合わなければいけないと思い直した。
階段の裏にバイクを停めている時、上にいる二人は別れがたいのか、何やら言葉を交わしていた。扉が閉まる音と同時に、俺とサイトウは歩き出して、階段を挟んで目が合った。互いの足が止まり、沈黙の数秒の後、動き出したのはサイトウの方だった。俺は階段の下で、上手い言い訳を待った。
「おう」
そう言っただけでサイトウはすれ違った。無表情で。何も言い訳はなかったのだ。
「おうじゃねぇだろ!」
俺はきびすを返して、サイトウの首根っこを掴んだ。その手を強く引き、そして逆に押し込むと、たやすく崩れ落ちたサイトウの上に馬乗りになった。
「お前、女に興味ないって言ったよな?」
「ああ、そうだな」
背後から、止めなさいと叫ぶ母の声がした。また俺を悪者にするのだろうと思った。
「認めてくれよ。新しい家族として」
続けてサイトウは、俺の名前を呼んだ。コバヤシではなく、母の真似だ。
「下の名前で俺を呼ぶな!」
虫酸が走る。気持ちが悪い。もう一緒には暮らせないと、時を超えて父と思いを共有したように感じた。そして認めた。母を偽りなく。顔も見たくない家族の一人が、俺の母だと。
駆け寄ってきて俺をサイトウの上から退かそうとする母は、足に靴下しか履いていなかった。俺は汚いものから離れた。母に抱き寄せられるサイトウのことも、汚いと思った。
母の予言は的中した。いつか私を捨てると。しかしそれは、捨てる方が悪いという意味を含んでいるから、正しい言葉に置き換えなければならない。
卒業しよう。母との暮らしを。俺はそう決意した。
迷わず職長を頼った。知らされたのは、親の承諾がなければ一人暮らしはできないということ。部屋が借りられないのだ。食い下がって無理矢理を言うと、一旦はこう言って突き放された。
「お前の親にはなってやれんよ」
しかし、その僅か三日後の昼休み、職長は助け船を出してくれた。中古で買ったばかりという白いボルボの助手席に俺を乗せ、ほぼ片手でハンドルを操作しながら、社宅として部屋を借りる許可を得たこと、そこの大家は融通が利く男であること、そして自分が家出少年だった時のことを語った。色々あったが、今では親と上手くやっている・・・俺の場合、そんな帰結は想像できず、ただ目の前の移り変わる数十メートル先しか見ていなかった。
十五分ほどで着いた線路沿いのアパートは、電車の音がうるさいという理由で不人気物件とのことだったが、駐車場で待っていた大家は、にこりともしなかった。軽トラに乗ったまま鍵を職長に手渡すと、仕方なく貸してやるという態度で、大きく倒した運転席のシートにもたれた。
「贅沢言うなよ」
そう言って開かれた扉の先、フローリングの床に日溜まりができていた。明るい印象の六帖一間。窓を開けると煙草を欲したが、心機一転、禁煙しようと思った。
職長にそう伝えると、「十六で禁煙かよ」と頭を軽く叩かれた。電車の音はさほど耳障りにならず、再出発に相応しい駅を連想させた。
「ここでいいのか?」
ここからだと思った。中学を卒業した時のように。外の空気は冷たかった。もう一度死ぬ気で頑張ろうと思った。なぜか出てきた涙に、職長は気づかない振りをしていた。
引っ越しは一週間後に決まった。布団と着替えさえあればと楽観的に考え、洗濯は新居の近くにあるコインランドリーで予習した。スーパーマーケットも近くにあり、特に問題なく暮らしていけそうだったが、職長は困ってからが勉強と言って、何か壁にぶち当たることを暗示した。
母は小うるさいことを言わなかった。何を思って幼い頃の俺の写真を眺めていたのか分からないが、そういう姿を見かけた。引っ越しまでは最低限、どうしても顔を合わせる為、些細なきっかけで掴み合いの喧嘩になりそうな、嵐の前のような静けさを互いにまとっていた。
そんなある時、母が切り出した話は「ごめんなさい」という丁寧語から始まった。サイトウとの関係について、俺に伝えていなかったことを謝った。しかし、悪いことをしていたわけではないと言った。その通りだ。母はもう独身なのだ。誰と交際してもいいだろう。息子の親友であっても不倫ではない。過去に不倫があったことにもならない。母もその点を強調した。あなたはお父さんの子と、また呟き、以前聞いた話が繰り返されると思ったが・・・
「お父さんはね、若い頃、実は鳶職をやってたの。あなたはそれを知らずに鳶職を選んだ。私が止めろと言ったのに。親子ね。そう、親子なのよ」
父は怪我をして辞めたそうだ。母は怪我の功名と言った。その後大学に通い、本当に進みたい新たな道を見つけたことができたのだと。
母はどうだろうか。離婚して良かった、という結論になっているような気がした。母が見つけた新たな道・・・
誰でもいいんだろ?
そう思ってしまった。雌とでも言うべき母の姿は見たくなかった。しかし、母が女でなければ俺はこの世に生まれなかった。
何を肯定するべきか?
やはり、母が女であることだ。そして、俺が男であることだ。純子に会いたいと、強く思った。
出立の朝、母がサイトウに殴られている夢を見た。助けを乞うような視線が俺に向けられ、目覚めるとひどく汗をかいていた。
母は玄関先で言った。いつでも帰ってきなさいと。
サイトウからメールが届いていた。必ず分かり合える日が来ると。
鳶の先輩に車で往復してもらった。新居に荷物を運び込んだ後、バイクを取りに戻る為だ。サイトウとは鉢合わせたくなかった。いつか分かり合えるとは思えなかった。しかし、分かり合えていた日々を否定しなかった。母とサイトウが出会う前から、俺たちは純粋に親友だった。
一人でバイクを走らせているうちに、怒りが寂しさに変わり、その情けなさにまた怒り、新居の前でヘルメットをアスファルトの地面に叩きつけた。目の前を通過する電車に向かって奇声を発した。しゃがみこんでジャンバーのポケットをまさぐり、出てきた煙草を投げ捨てた。
しばらくして拾い上げたのは、母に買ってもらった白いヘルメット。それをまた被り、純子がまだ住んでいると願う場所へ向かった。
アパートの敷地内に差しかかると減速して、南側から1、2、3号棟と順番に、その横を通過して行った。7号棟の整然と並ぶベランダが見えてきた時、ぱっと意識を向けた先に洗濯物が干してあった。けばけばしい色遣いのそれらは、純子を連想しがたく不安になったが、バイクを止めて良く見ると、場所を間違えていたことに気づいた。そこは五階の西から三番目。本来見るべき西隣は、生活感が全くなかった。
インターフォンを二度鳴らした。男が出てきた場合の言葉は用意していた。誰も出てこず、その場で純子に電話をかけた。呼び出し音が電話口から届き・・・空耳ではない。扉の奥、部屋の中でも鳴っていた。純子はまだここに住んでいると確信した。扉を強く叩き、純子と叫びそうになったが、声には出さず、一旦引き返すことにした。
敷地内の公園のベンチに座ったが、一人では大きすぎると感じて仰向けになった。青空に映える散り残った紅葉をじっと見つめていると、今にもそこに火が点きそうだった。そして、その一葉が風に舞った。火の粉のように。電話が鳴った。純子からだった。胸の奥が燃えるように熱くなった。
「今すぐに行く」
開口一番そう伝えると、純子が何かを言った。良く聞き取れず、遥か遠くから聞こえてくるような、不思議な感覚だった。今すぐに行くと、声を張ってもう一度言った。
「駄目。来てほしくない。見られたくないもの。今の私。自分の子供もちゃんと育てられなくて・・・いいえ、もしかすると、この子は私の子供じゃないかもしれないの」
「何を言っている?」
「正直、もう疲れたの。この子の親でいることに」
「ふざけるな!訂正しろ」
耳を疑った。これは本当に純子が言っているのだろうかと。純子が幼い頃言われた言葉ではないのだろうかと。
電話を唐突に切られ、俺は全力で走り出した。急がなければいけないと思った。急がば回れという教えは無視した。強い向かい風が吹き、まるで火の粉を掻き分けて進むかのようで、6号棟の横を南側から走り抜けた時、見上げた場所に女がいた。見間違いではない。五階の西から二番目のベランダ。子供を抱いている・・・いや、落とそうとしているように見えた。
「純子!」
俺は叫んだ。純子が落とした子供を必ず受け止める思いで走り、もう一度名前を呼んだ。上ばかり見ていて段差に躓き、転びかけた顔を上げると、ベランダに二人ともいなかった。一瞬ぞっとしたが、落ちてはいない。部屋の中に入ったのだ。
北側へ回って階段を駆け上がり、息を切らせて辿り着いた。ドアノブに手をかけると、鍵はかかっていなかった。
先ほど鍵がかかっているか確認しただろうか・・・
不気味に物が少ない部屋の奥に、ぽつんと二人がいた。なぜか子供の方が純子に思えた。女の髪は懐かしさを覚える短さだった。疲れ果てたように床に座るその姿は、想像上の純子の母親と重なったが、壁かけの木製時計は、俺の腕時計と同じ時刻を正確に示していた。
「一緒に帰ろう」
そして俺は、二人の名前を呼び、生まれたばかりの赤ん坊のように泣き出す子供を抱き上げた。