第41回_大宮駅東口徘徊_マーク_トウェイン「不思議な少年」_2024_11.24
片倉洸一の耽楽的音声記録
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前回からの1週間でも色々な変化を感じる年末のこの頃。
1:近況、大宮東口徘徊
・家に持ち込めない仕事の良さ
・大宮を通る習慣と、大宮への慣れ
・他人への余裕のある観察が可能に
・大宮駅周辺―西口はまず行かない地区。東口はまさに繁華街。カオスで猥雑な南側、埼玉県内で唯一都内ぶれそうな北側。
※ミニシアターでもあればさらによかったのですがさいたま市は現在「ミニシアターのない100万都市」らしい。そこに来年あたりに初のミニシアターができる予定らしいです。ただし、西口の住宅地らしいですが…
・東口北側の大栄橋をくぐった先の区域―時間の流れの格差を感じる住宅地と、その中に浮かぶソープ街の異様さ。しかし客引きなども一切なく静かに共存してる模様。
・住宅地の取り残された感のある住宅から岩槻の今は亡きマミーマート、その後に建設中のヤオコーについて。地価の高い土地を代々持ってる人間は羨ましい。
2:耽楽的即興感想マーク・トウェイン「不思議な少年」
以前感想を語った「ハックルベリー・フィンの冒険」https://note.com/brainy_azalea673/n/n43e974ed1f61
とは違ってほとんど現代では知られていないトウェインの悲観、諦観が色濃く出た作品。16世紀末のオーストリアの田舎の村に突然現れたサタンと名乗る自称天使だという少年の姿をした何かが超常的な力を使って村人たちを「幸福」に導いていくお話。
・楽天主義イメージのつきまとうトウェインの悲観丸出しの死後刊行作品。
・少年3人の前に現れたサタンは自分を天使だと名乗る。「悪魔のサタンは伯父だし、伯父も昔は天使だった。伯父以外の一族はみんな天使」
・一見平和な村にも小さな問題は散見される。そこにサタンが干渉すると…
・サタンによる人間蔑視―人々が獣と人間を分ける基準としていた「良心」なんてものを持ってるからこそ人間は下劣な生き物なのだ。
・サタン的な「親切」―時空を超越して思惟=存在で人々がどう死ぬかも見えているサタンからすれば早めに死なせてやる事が「幸福」である。
・サタンによって大金を手に入れて投獄されていた神父に対する親切
「正気で、しかも幸福なんてことが、絶対にありえないってことくらい、君にもわからないのかねえ?狂人だけが幸福になれる。自分を国王だと信じ、神だと思い込んでる少数のものだけが、そうなんだ。(略)いわば人間にできる唯一の方法によって、幸福にしてやっただけじゃないか。」
「つまり、これなのだ。サタンというやつは、殺したり、気ちがいにしたりする以外には、好意の示し方を知らないらしいのだ」
・最後は投げやり夢オチ主意主義エンド…―笑いというものが人間の持つ、最も使うべき武器だという前向きなヒントもほのめかしつつも最後は全てが夢だとして無理矢理物語は終わる。
「ぼくが君に見せてあげたもの、あれはみんな本当なんだ。神もなければ、宇宙もない。人類もなければ、この地上の生活もない。天国もない。地獄もない。みんな夢―それも奇怪きわまる馬鹿げた夢ばかりなんだ。存在するのただ君ひとりだけ。しかも、その君というのが、ただ一片の思惟、そして、これまた根なし草のようなはかない思惟、空しい永遠の中をただひとり永劫にさ迷い歩く流浪の思惟にすぎないんだよ」
物語構築の放棄、論理性の放棄にしか映らない終わり方。文学性も完成度も低い一品。
・片倉の求める展開―サタン介入による村の状況の悪化、最後は不在の領主まで巻き込んだ大事件に発展して村壊滅、生き残ったのは私だけ…みたいなところまで突き詰めてほしかった。物語としての出来事、形而上的な展開の両立が全く足りていない。
・「マラルメ詩集」に苦戦―本文よりも注解の方が断然長い。しかも思ったより象徴詩してない。そもそも詩を読むのが苦手
3:耽楽的楽曲紹介 Colby Acuff「If I were the Devil」(2021)
訳詞はこちらhttps://note.com/tanraku_record/n/n436ca5090a4c
・「不思議な少年」がこんな展開になればよかったのに…という連想とぴったりな曲。
・もし僕が悪魔だったらこうするけど…という物語。
・最後に人間達は終焉に向かっていき、それを見た悪魔がドン引きして「やっぱり地獄の方がいい」と振り返る、ぼかし方も自称天使のサタンのように煙に巻かれた感じで良い。
1:近況、大宮東口徘徊
・家に持ち込めない仕事の良さ
・大宮を通る習慣と、大宮への慣れ
・他人への余裕のある観察が可能に
・大宮駅周辺―西口はまず行かない地区。東口はまさに繁華街。カオスで猥雑な南側、埼玉県内で唯一都内ぶれそうな北側。
※ミニシアターでもあればさらによかったのですがさいたま市は現在「ミニシアターのない100万都市」らしい。そこに来年あたりに初のミニシアターができる予定らしいです。ただし、西口の住宅地らしいですが…
・東口北側の大栄橋をくぐった先の区域―時間の流れの格差を感じる住宅地と、その中に浮かぶソープ街の異様さ。しかし客引きなども一切なく静かに共存してる模様。
・住宅地の取り残された感のある住宅から岩槻の今は亡きマミーマート、その後に建設中のヤオコーについて。地価の高い土地を代々持ってる人間は羨ましい。
2:耽楽的即興感想マーク・トウェイン「不思議な少年」
以前感想を語った「ハックルベリー・フィンの冒険」https://note.com/brainy_azalea673/n/n43e974ed1f61
とは違ってほとんど現代では知られていないトウェインの悲観、諦観が色濃く出た作品。16世紀末のオーストリアの田舎の村に突然現れたサタンと名乗る自称天使だという少年の姿をした何かが超常的な力を使って村人たちを「幸福」に導いていくお話。
・楽天主義イメージのつきまとうトウェインの悲観丸出しの死後刊行作品。
・少年3人の前に現れたサタンは自分を天使だと名乗る。「悪魔のサタンは伯父だし、伯父も昔は天使だった。伯父以外の一族はみんな天使」
・一見平和な村にも小さな問題は散見される。そこにサタンが干渉すると…
・サタンによる人間蔑視―人々が獣と人間を分ける基準としていた「良心」なんてものを持ってるからこそ人間は下劣な生き物なのだ。
・サタン的な「親切」―時空を超越して思惟=存在で人々がどう死ぬかも見えているサタンからすれば早めに死なせてやる事が「幸福」である。
・サタンによって大金を手に入れて投獄されていた神父に対する親切
「正気で、しかも幸福なんてことが、絶対にありえないってことくらい、君にもわからないのかねえ?狂人だけが幸福になれる。自分を国王だと信じ、神だと思い込んでる少数のものだけが、そうなんだ。(略)いわば人間にできる唯一の方法によって、幸福にしてやっただけじゃないか。」
「つまり、これなのだ。サタンというやつは、殺したり、気ちがいにしたりする以外には、好意の示し方を知らないらしいのだ」
・最後は投げやり夢オチ主意主義エンド…―笑いというものが人間の持つ、最も使うべき武器だという前向きなヒントもほのめかしつつも最後は全てが夢だとして無理矢理物語は終わる。
「ぼくが君に見せてあげたもの、あれはみんな本当なんだ。神もなければ、宇宙もない。人類もなければ、この地上の生活もない。天国もない。地獄もない。みんな夢―それも奇怪きわまる馬鹿げた夢ばかりなんだ。存在するのただ君ひとりだけ。しかも、その君というのが、ただ一片の思惟、そして、これまた根なし草のようなはかない思惟、空しい永遠の中をただひとり永劫にさ迷い歩く流浪の思惟にすぎないんだよ」
物語構築の放棄、論理性の放棄にしか映らない終わり方。文学性も完成度も低い一品。
・片倉の求める展開―サタン介入による村の状況の悪化、最後は不在の領主まで巻き込んだ大事件に発展して村壊滅、生き残ったのは私だけ…みたいなところまで突き詰めてほしかった。物語としての出来事、形而上的な展開の両立が全く足りていない。
・「マラルメ詩集」に苦戦―本文よりも注解の方が断然長い。しかも思ったより象徴詩してない。そもそも詩を読むのが苦手
3:耽楽的楽曲紹介 Colby Acuff「If I were the Devil」(2021)
訳詞はこちらhttps://note.com/tanraku_record/n/n436ca5090a4c
・「不思議な少年」がこんな展開になればよかったのに…という連想とぴったりな曲。
・もし僕が悪魔だったらこうするけど…という物語。
・最後に人間達は終焉に向かっていき、それを見た悪魔がドン引きして「やっぱり地獄の方がいい」と振り返る、ぼかし方も自称天使のサタンのように煙に巻かれた感じで良い。