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「死ぬ」構文
友達がへんなくまさんのスタンプを送ってきたました。
漫画みたいな吹き出しにらくがきみたいな「死んでたまるか!」
染みやす。
3日ぶりのお風呂のあとの化粧水ぐらい染みますね。
小学生のころは、「死ぬ」っていう言葉を発することすら、ちょっと危機感があったのに、22歳の今は、ちょっとしんどいことがあるだけで「死ぬ」っていうようになりました。
私は、自分の背負っている苦しみがどれだけ大きいものか、伝えるために「死ぬ」という言葉の懐の深さを利用してしまいます。そして且つ、客観的に見た苦しみ体積とのギャップで、笑い話になるんだと思っています。
ここから「死ぬ」という言葉の汎用性の高さが伺えますね。
例えば、わたしは「薄皮クリームパン5個から4個になってて死ぬ」とか使います。
私にとって、薄皮クリームパンが5個販売から4個販売に変わることは、絶望であり、物価高騰への悲しみでもあります。だから本来の意味とは違う「死ぬ」(類義語は絶望)を使います。
これは他者から見たら、薄皮クリームパンが1個減っただけで「死ぬ」なんておかしいだろ。という(ギャップを使った)ボケになります。
私にとって「死ぬ」という言葉は、私視点の絶望を120%伝え切る言葉であり、コミュニケーションのひっかかりとなるボケとしても働く、まさに一石二鳥のことばです。
でも最近は、自分を省みてやっぱりこの言葉遣いは良くないんじゃないかと思ってきました。
社会的に見たら問題大アリなのは承知の上ですが。
個人的には「死ぬ」という言葉を使い続けているうちに、「死ぬ」という言葉を使うハードルがだんだん低くなってきて、不幸と認識する出来事の数が増えたことにあるかなと思います。
不幸とカウントするものが増えると、不幸の最大公約数も増えるわけです。待ってるのは破滅しかないんじゃないかと思えてきました。
たとえば、以下の出来事は別々に起こったことだとしてください。
①コンビニに梅酒がなかったわ→死ぬ(ぴえん)
②雨が降ってきた→死ぬ(ぴえん)
これが偶然重なると
=雨降ってきて、コンビニに梅酒もなかった
→死ぬの2乗(ぴえんの2乗)
になるわけです。
破滅です。
ポジティブな人が自然とやっている発想の転換とかを、瞬時に手放すのが「死ぬ」構文なんです。
言葉だけ切り取ってみたら、0・100判断というか、それはとっても危険だと思ってきました。
だから、最近はイコール「死ぬ」になりそうな時は、急いで「シンデタマルカ!」って唱えるようにしてます。
もう願い。0.1秒でも早く、シンデタマルカって思えるかの勝負。
現在の勝率は3割5分9厘です。(言ってみたかった)
そんな感じでいつか「死ぬ」構文に頼らないでいいようになりたいです。
毎日が延命治療のような日々です。
みなさんもぜひやってみてください。