反抗期の一時停止。輪唱の思い出、彼なりのもがきや苦しみを、見守る力がわたしにあるか。
noteを続けていると、不思議な、デジャビュに出会うことがある。昨日はちょっと目に入ってきたやつを読んでいたら、およそ思春期のこどもと殴り合ったり罵り合ったりするとは思えないようなたたずまいのライターさんが、殴り合ったり、怒鳴りあったりしたとさらっと書いていた。
うちの「二階に住んでいる人」とわたしの関係も一進一退だ。わたしの立ち位置やわたしの視野が、多いにその時々の行動に影響していることもわかってきた。
昨日は、波の穏やかな日だったと思う。
もう、昼夜逆転してダメダメな生活時間なんだけど、わたしの夕飯の時間、思春期の人のおやつ?の時間のふっとした合間に、なぜか、もみじの輪唱をした。
秋の夕日に照山もみじ、濃いも薄いも、数ある中に。松を彩る、カエデやつたは、山のふもとの裾模様。
これだけなんだけど。
親子で輪唱した。きっかけが何だったのか、昨日のことなのに思い出せない。最初は二人とも下を歌っちゃって、笑う。次は若干はずれながら、それぞれのパートを歌う。もう一回、もう一回。しつこくするとプイっといなくなってしまうことや、聞き返すと、もういい、という捨て台詞を吐いて去ることの多い毎日だったのに。なぜかうたった。一緒に。そして、最後はうまくはもった。
「合唱コンクール頑張ったんだけどな、なくなったからなー」
「え?もみじ合唱コンクールの歌だったの?」
「こんな簡単な歌、うたわねえよ」
といって去っていった。
山梨に、わたしといつもこの歌を輪唱していた学生時代の友人がいる。西沢渓谷を歩いて、熱海の坂を上りながら、そして桜満開のキャンパスで。いつも彼女と手当たり次第に歌っていた。なんで歌っていたのかはもうわからない。でも、歌っていた。はもるのが楽しいのか。追いかけるのが楽しいのか。
高等学校の音楽の授業は、第九を歌った。ステージがあったのかもしれないし、なかったのかもしれない。そのころの同級生と、今年は第九歌いたいね、と新年会で話した。その後地元の市民合唱グループの練習に応募したが、昨今の状況で、取りやめになりました、という丁寧なお手紙と一緒に応募はがきの復路のやつが、送り返されてきた。
反抗期一時停止。
こどもともみじを輪唱。
人生いいことばかりかもしれない。