予感
「待っていてくれたんだ」
その日目覚めた時、私は泣いていた。
枕が涙で濡れていて、頬もぐっしょり濡れていた。
こんなことってあるんだろうか?
驚いた。
長い夢を見ていたような気がする。
長い長い、永い夢。
けれども目覚めた時、その夢の内容を何一つ思い出すことはできなかった。
何一つ覚えていなかった。
冷たい水で顔を洗って、柔らかいタオルで丁寧に拭って拭いた。
さっぱりとしてとても気持ちが良かった。
まぶたは晴れていなかった。
あんなに泣いたのに。
とても不思議だった。
服を着替えて外に出る。
今日はゴミ出しの日だ。
大きな袋を2つ持って、私は集積所に向かった。
そこにはすでに沢山のゴミの詰まった袋が置かれていて、私はそのてっぺんにそっと運んできたゴミの入った服を2つ置いた。
やれやれだ。
1度出し忘れていたので沢山たまってしまった。
なんだかとても気が重かった。
自分の部屋に向かって歩きながら、私はさっき見ていた夢を思い出そうと必死に待っている。
けれどもほんのひとかけらも思い出すことができない。
理由は全くわからない。
けれども何一つ思い出すことはできなかった。
よく晴れていて風のある、気持ちの良い日だった。
朝の空気は澄んでいて、眠っていた時間の空洞のような感覚を払拭してしまっている。
何気なく空を見上げてみると、小さな雲がいくつも浮かんでいた。
飛行機雲が伸びている。
小さく光る飛行中の飛行機のうしろに真っ白な筋がゆっくりと伸びていく。
高い空の上から地上を見ている人たちにどんな景色が見えているのか、今の私には想像することもできない。
大きな建物や川や道路もジオラマのようにしか見えていないのかもしれない。
私の姿など見えているわけもない。
そんなふうに思うととても楽になって、思わず両腕を伸ばして大きく伸びをしてしまった。
朝の空気の中でからだを伸ばすと、こんなに気持ちがいいなんて、新しい発見だった。
私は部屋に帰り着くと全部の窓を開けた。
外から風が入ってきて、部屋の中にこもっていた空気を吐き出させてくれる。
爽快だった。
その日、仕事に向かう途中も、仕事の合間にも、仕事が終わって家に帰る途中も、気がつくといつも昨夜見た夢のことをずっと考えていた。
私は一体どんな夢を見ていたのだろうか?
考えても考えても、何一つ思い出せない。
不思議なほどきれいに夢の記憶は消えていた。
それなのにこんなに気になってしまうのは、目覚めた時に頬も枕も涙でぐっしょり濡れていたから。
そしてなぜだかわからないけれど、長い間ずっともやもやとして重ぐるしかった胸の奥がすっきりと片付いたような爽やかな気分があったこと。
胸の奥に押し込められていた何かがたくさんの涙に押し流されて消えてしまっていたような感覚があったこと。
その気分とその感覚がどんなふうにして自分の中にできているのか、そのことが知りたくて、考えてしまうのだった。
どこかからカレーの香りが漂ってきている。
夕方の風の中には誰かが作る夕飯の美味しい香りが混じり込んでくることがある。
カレーや煮物や焼き魚、私は駅から自分の借りている部屋までの道を疲れた体で歩きながら、そういう香りに癒されている。
子供の頃の優しい思い出、夕方の心許なさ、両方が混じり合って切ない気分になることですら私にとっては癒しになるのだった。
昨夜見た夢のことを考えながら、私は夕暮れの中を歩いていた。
思いだせない昨夜の夢は私に何を伝えてくれようとしていたのだろうか?
夕食を終え、入浴も終え、ハーブティーを飲みながら、私はまだ昨夜の夢を思い出そうとしていた。
どうしても気になって、気になって仕方がないのだった。
けれども何一つ思い出すことができない。
それでも飽きることなく私は昨夜の夢を思い出そうとしていた。
私は夢の中にいる。
真っ暗な闇の中に私は紺色の花の咲く白地の浴衣を着て真っ赤な帯を締め、赤い鼻緒の黒塗りの下駄を履いて立っていた。
たくさんの人たちが暗い夜空を見上げながら、さざ波のようなざわめきを作っていて、私はそのざわめきの中で何かをじっと待っていた。
空を見上げていた。
そして、
私の横に誰かがいる。
誰なのだろう?
そこで夢は終わった。
目覚めると雨が降っていた。
シトシト、シトシト、
音も立てずに雨は静かに降っている。
遠くで濡れたアスファルトの上を車が走り、雨水を弾いている音がしている。
もうかなり長い時間雨は降っていたのだろう。
空気が冷えて湿っている。
雨の日特有の空気の匂いがする。
水の匂い、そういう感じ。
私は布団の中で雨の気配を感じながら動き出すことができずにいた。
このまま静かに横になって雨の気配と空気感を感じ続けていたい、無理なのだけれどそう思った。
そうして静かに昨夜見た、夢の中のことを考えていた。
浴衣を着た私が、夜の人混みの中で何かを待ち続けていた。
そして隣に誰かがいた。
誰だろう?
知りたいのだけれど、少しだけ怖いような気持ちになっていた。
本当にとても知りたいのだけれど。
仕事が休みの日の朝に私は必ず洗濯をする。
働いていた日の洋服たちを丁寧に手入れするのだ。
きちんと分けて洗濯ネットに入れて洗濯機を回しながら掃除機をかける。
掃除機をかけている時、私は何も考えていない。
ただ無心に掃除機をかける。
そうして床を水拭きする。
水拭きをした床は化粧落とした後の咲花のように柔らかなツヤを取り戻し光を弾く。
そうしているうちに洗濯ものは洗い上がり、皺の寄らないうちに丁寧に伸ばして干すのだ。
その一連の作業か私の暮らしにリズムを作り、型を作ってくれるので、どうしてもそうしなくてはいられないのだった。
その一連の作業が終わってから、温かいハーブティーを飲むのがいつもの習慣だった。
あれからまだ夢の続きは見ていない。
あの夢に続きがあるのかさえもわからないのだけれど。
私の隣にいた人が誰だったのかが、なぜだかずっと気になっている。
とても、とても、気になっている。
ハーブティーの爽やかなミントの香りとカモミールの柔らかな甘い香りが日曜の午前中の静かな時間に溶けていく。
私はソファに押し掛けながら、ゆっくりとハーブティーを飲む。
からだを動かした後の静かな時間は私を安心させてくれる。
なぜだかわからないけれど大丈夫だと思わせてくれる。
夜の人波の中に立っていたと夢を見たのがいつだったのか忘れてしまった頃に私はまた夢を見た。
花火が、大きな花火が夜空で弾けて、パチパチと火花を散らして、人波に沈黙と歓声を起こしていた。
私もその人波の中でその大きな花火を見上げて感動を味わっていた。
花火が弾けるときのドン!という音は私のからだに衝撃を与えて、私を動けなくさせた。
そして信じられないほど大きな、大きな大きな火花が空に広がって、見ている人たちを明るく照らし出している。
圧巻だった。
と、私は不意に私の隣にいた人に、私の右手を握られた。
え?
驚いて私がそちらを見てみると、ずっと前にどこかで会った、知っているはずの人がいた。
え?
何も言葉が出てこない。
その人は私をじっと見ていた。
何も言わず温かい目で私のことを見つめていた。
なぜだかわからないけれど涙がこぼれた。
理由はわからない。
わからないのだけれど、私は泣いてしまった。
それはとても暖かい涙で、この暖かさの分だけしょっぱいような気がした。
その人は自分の持っていたハンカチで私の涙を拭いてくれた。
私はそれでとても安心して、そしてその夢は終わってしまった。
その夢が終わって目が覚めた時、私は泣いていなかった。
ただ静かにあの夢の中の出来事を受け止めていた。
大丈夫。
大丈夫なんだ。
多分、きっと。
夢の中で私が流した涙を彼は拭いてくれた。
それだけで10分だった。
なぜだかわからないのだけれど、心から安心できた。
私はきっと大丈夫。
わけもなくそう思えた。
私は部屋の窓を開いた。
風は入ってこない。
遠くで小鳥が鳴いている。
その鳥たちの声を聞いて、新しい何かが始まっていくことを静かに予感している。
大丈夫なんだ。
多分、きっと。
新しい1日が始まる。
私はきっと、大丈夫なんだ。
竹原なつ美
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