花伝書(カデンツァ)
花びらが溢れ落ちていく。
はらはらと音も立てずに。
それをただ何も言わずに眺めている。
それが生きていくということなのかもしれない。
花の色も香りも様々で、それを選ぶこともできない。
気づいたらそこにいた。
そんな感じで生きているのが人なのかもしれない。
みんなその中の一人。
みんなそう。
みんな同じ。
では何が違うのだろう?
人と人の間の違い。
それが一体どこから来るのかわからなくまま生きている。
花は咲き、散っていく。
音も立てずに開いて散って、静かにそっと消えていく。
跡形もなく静かにそっと。
あの日から私の人生は変わった。
音楽が私の人生を変えた。
強いリズムと激しいビートが私の心を捕まえて離さなくなってからそれまでは曖昧なまま置き去りだったいろんなことが動き出し色とかたちを作り始めた。
そして予想もしない方向に私を運んで止まらなくなってしまった。
私は変わった。
変わり続けた。
それは今も続いている。
多分どこまでも。
いつまでも変わり続けて止まらない。
きっとそう。
多分そう。
その音楽の中には私がいた。
何故だかわからないけれど確かにそれは私だった。
確実に私だった。
私はそれに魅了されその中に入って行った。
時計を持ったうさぎを追って知らない世界に迷い込んでいったアリスのように夢中になって。
そして気づいたら引き返せなくなっていた。
帰り道を見失ったというよりも、周りの世界が変わり過ぎてしまって自分も変わるしかなくなったという感じで。
音楽が鳴っている。
強く激しく。
軽やかに楽しげに。
そして私は踊りだす。
その曲に合わせてしごく自然に。
え?
なぜ?
私は艶のある少し透けた薄桃色のシフォン生地が何層も重なってできたドレスを着ている。
軽やかな音楽が私のからだを弾ませる。
弾けるようなステップと自由自在な腕の振りと全身の動きがその薄桃色のシフォンのドレスをはためかせ光の粒を振り撒くように輝きを放っている。
夢中で踊りながら私は今を強く感じて歓びの気持ちが満ちていく。
私は踊り、光を放ち、ただ今を生きている。
これは夢?
それともほんと?
弾けるように踊りながら考える。
からだは弾み踊りながら汗をかき風を受け、地面の硬さを実感し、強いビートに弾かれてその激しさに動きを速めたり緩めたりしている。
お人形?
いいえ、私は人間で、今を吸い込み吐き出して、生きている。確実に。
ギャラリーがいてもいなくてもいい。
今ここで踊っていることそのものが私の存在価値だから。
そう素直に思えた。
私は自分自身の意思で今ここで踊っているのだ。
そう、この音楽がなり続けている限り私は踊る。曲に合わせて。
それは自然なことなのだ。
私にとっては当たり前のしごく自然なことなのだ。
それを止める力を持った人はいない。
訳もなく素直にそう思えた。
何がが空から落ちてくる。
音も立てずに静かにそっと。
透けていて色もなくささやか過ぎて見えにくいけど。確かに空から落ち続けて、積もる間もなく消えてゆく。
柔らかな甘い花の香りがする。
とてもほのかなその香りに私はそっと癒されて、踊り疲れたからだのちからを静かに抜いていくことができた。
踊りを終えた私は靴を脱ぎ、ドレスを脱いでシャワーを浴びて眠りにつく。
眠りは深く、夜は深く、まんじりともせず私は眠る。
音楽は鳴り止まず、続いているけど聴こえない。
深い深い夜が吸い込んでくれるから、私はぐっすりと眠って新しく生きる体力をからだにためることができる。
繰り返し繰り返し私は踊り、そして眠った。
花びらが降り注ぎ静かに消えていく中で、私は踊り、私は眠り、音楽に染められて、静かに静かに変わっていった。
気づかずに、知らないうちに。
花びらが落ちていく。
誰にもそれは止められない。
音もなく静かに花は咲き、散っていく。
その中で生きながら花の香りに染められてただ、瞬間瞬間を生きていた私が毎夜踊り出したのは音楽が理由だった。
強いリズムと激しいビート。
私の心を鷲掴みにして離してはくれないのだ。
私は音楽に恋をして、それに合わせて踊ることで、今を生き光を放つ存在になり自分自身を紡ぐようになった。
薄桃色のシフォンのドレスを身に纏い、透明なピンヒールの靴を履いて踊る。
私は音楽に恋をして、それに合わせて踊ることで自分を表す人になりアリスのように生きている。
時計を持ったうさぎが走る。
音楽がその世界をつくる。
私はその世界に生きて音楽に恋をする。
からだではなく心で恋をしてそして踊る。
花びらが音も立てずに落ちては消え、ほのかな香りを放つ世界で、私は踊りそして眠った。
夜は優しかった。
激しい曲を吸い込んで私を静かに眠らせてくれた。
私は夜を信じていた。
でも夜は音楽を騙して私を別の世界に運ぼうとしていた。
夜は嘘つきだった。
私を騙し、音楽を騙して、私をアリスの世界から闇の世界に連れ出そうとしていた。
私は踊っていたいのに。
音楽に染まってその中に溶けて行きたくて、ただ毎夜踊り続けていただけなのに。
夜は私を騙して、音楽を騙して、私を闇に運ぼうとした。
夜はただ自分が夜でいるために闇に私を売ろうとしたのだ。
激しいる音楽が聴こえて私は今夜も踊り出す。
薄桃色のシフォンのドレスはほのかに光を放ちながら光の粒を振り撒くことをドキドキしながら待っている。
音楽が鳴る。
リズムが弾みビートが弾け私のからだを弾ませて止まらずに鳴り続ける。
恋をしている私は躊躇なく踊り始める。
透明のピンヒールの靴は光を透かし、ステップを踏み、弾むビートに合わせて動く。
闇が私を飲み込もうとして夜に紛れて近づいてくる。
危ない!
小さな声が私の耳に突き刺さったのと同時に目には見えない時間の花がたくさんの花びらを一度に落として花吹雪になり私のからだを包んでくれた。
え?
闇は驚いて怯み、後退り、それを強い強い光が消し去ってくれた。
私は闇に飲み込まれずに光の中に立っていた。
光の粒が降り注ぐ。
きらきらと音を立てながら。
私は光のシャワーを浴びて、その中で立ち尽くす。
なぜ?
どうして?
君が好きだ。
光の粒は私に降り注ぎながら言う。
僕たちは君が好き。
愛してる。
大切なんだ。
だから闇に飲まれずにこのまま踊り続けて欲しい。
君が僕らを弾かせながら踊るのを見ていたい。
そしてしあわせになって欲しいんだ。
音楽に包まれて、音楽に染まって、恋を成就して欲しい。
夜は夜でいるために君を闇に売ろうとした。
でも夜も本当は君のことが好きなんだ。
だから君を優しく包んで眠らせてくれただろう?
夜はね、君が休めなくなって壊れてしまうのが怖かったんだ。
夜も君が踊るのをいつまでもずっと見たかったんだ。
君の踊る様を見られなくなるのが嫌だっただけなんだ。
私ば黙って俯いた。
光の粒は言葉を続けた。
君は音楽に染まって彼と一緒にいるべきなんだ。
え?
音楽は君を愛している。
彼は君を踊らせて君の命を輝かせたくてたくさんの曲を君に贈った。
君に届いた音楽は彼の君への想いなんだよ。
彼は自分の命を削って君に音楽を贈り続けた。
君を生かすために。
音楽を受け入れて、音楽に染まりなさい。
静かに私は聞いていた。
何故だかわからないけれど、私の両方の目から涙が溢れて止まらなかった。
私は静かにうなづいて、光の粒にお礼の言葉を伝えた。
光は静かに消えて行き、しんとしたその場所にとても優しい曲が流れた。
私はその曲の中に溶けてしまいたいと思った。
目を閉じて耳を澄ませた。
優しい曲が染み込んでくる。
夜が私に「ごめんなさい」と言うのが聞こえた。
私は小さくうなづいて静かにそっと目を開けた。
音楽がそこにいて、私をぎゅっと抱きしめた。
もう他に何もいらない。
理屈ではなくそう思えた。
それだけでよかった。
それ以外欲しくなんてなかった。
降り注ぐ花びらに埋もれながら私は思った。
ありがとう、と。