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スターシードの子どもたちは生まれた時から大人のハート ① (長男が生まれて)


2025年が明けました。
おめでとうございます。

お正月は、何にもおめでたいことがなくてもおめでとうなんです。

これが日本文化の「予祝」
予祝は、先におめでたい気分になってお祝いすること。
そうしたら本当におめでたいことがおきてくる!

これ、てスピ引き寄せやアファメーションみたいなやつですね。
めちゃステキな文化です。


で、昨年末から下書きしていたのが、ちょうど2025年の元旦投稿になりました。
文章書くのはあまり得意じゃなくておしゃべりの方が自分を表現しやすいのですが、こんな私の文章でも、一人でも読んでくださる方に感謝をこめて〜♡



私と親子の約束をして地球にやってきた3人のスターシードの子ども時代について、部分的になりますが記憶をたどりながらほんの少し書いてみます。

過去の体験をこうして文字にしていくと、その時感じきれていなかったことや、押し込めてしまった気持や出来事こしっかりとふれ直すことができて未完成で止まっていたりする何かがやっとストンとおさまるべきところに届いていくような気がします。
薄れてきていた喜びや幸せが再びもっと深く感じることができたりします。

波乱万丈すぎてブログには一部しか書けないですが、今の自分のペースで思いつくまま表現できればと思います。

第一子 1987年生
第二子 1994年生
第三子 1999年生


私のところに生まれてきた3人のスターシードの子ども達はちっちゃーい体に大きなハートの宇宙人


スターシードのなかでも HSP、エンパス、アースエンジェル系ファミリーです。
(特に私はライトウォリアー寄りです)



3番目に超自然に生まれたクリスタルチルドレン時代のスターシードの子は、育つ過程も自然体でしたが、

第一子長男時代は、地球の子育てルールに縛られて一生懸命頑張ったから、余裕のない地球人子育て感覚を体験しました。

長男が生まれて、地球感覚から宇宙感覚へと開いていくプロセスが始まり、スピリチュアル目覚めと言わる扉がそこに待っていました。

知識で学ぶのではなくて実体験から宇宙観を呼び覚ましていく流れで、
7年後に長女が生まれた頃は本格的に命の本質を確認していき、ここで一応宇宙の本質を忘れた状態での地球体験基本シナリオ(完全地球人体験)は一通り終わりました。

私の子ども時代から結婚出産までの地球体験プロセスでした。

3番目の子では
宇宙感覚プロセスが本格的に始まりました。

 

 長男の赤ちゃん時代

地球人子育て体験では、自分の気持を感じることよりも「〜しなければいけない」という責任感や義務感の方が強く、
勧められた育児書を読んで、できる限りその通りにしないといけない…
それがベストなんだという強迫観念の思い込みで一生懸命頑張りまくりでした。

愛おしい大切な我が子をちゃんと育てたいと思うからですね。

あれをして…
これもして…

抱っこして…
ミルクを飲ませて…
あやして…
離乳食を作って…
オモチャで遊び相手をして…

日向ぼっこをして…
公園で外遊びをして…

団地の友人親子とお茶をして…
疲れたまま夕食作って…

一日中、地球ルールの強迫観念呪縛…

それに右手の平にヘルペスが出る為に365日、毎日毎日布手袋やビニール手袋を一日中着用、見た目の想像をはるかに超えた労力や精神力は普通に子育てする2倍〜3倍くらい使うようなエネルギー消耗状態でしたから、半端ない頑張りまくりでした。

私の場合、よくある口唇ヘルペスと同じで手のひらに出るのはめずらしく、医師からは新生児に万が一感染したら脳炎をおこすかもしれないという悲惨な危険性を告げられました。
完全に脅しでした。

接触したら(手を)30秒洗いなさい、と無神経な医師の言葉の為に洗えない箇所の場合など生活が成り立たないような残酷物語・・
器用に何でもできてしまうから、可能な限り考えつくことは全て実行して、完璧に必死で我が子を守ろうとしたのです。
医師のヘルペス宣告を受けるまでは別病名診断になっていて一度も再発しなかったのに、脅し言葉で急に再発を繰り返すようになったのです。
ヘルペスが出ている最中は直接右手を洗えないから完全に治るまでの約一ヶ月間は手袋をさしっぱなしになり、やっと治ったと思ったらまたすぐに再発を繰り返してしまう・・
これも伝染るかもしれない…あれも伝染るかもしれない…と
恐怖心が増幅していき、ものすごい苦痛の作業生活になっていったのです。
治ってもとすぐまた出るかもしれない、という強い恐怖心の為にしょっちゅう再発するようになってしまいました。

そうして強迫観念はどんどんエスカレートし、我が子を守ろうとしすぎて強迫神経症の不潔恐怖症を一気に発症してしまいました。

(現在は全然再発しなくなりました。
恐怖心が無くなったからです)

ずっと後に口唇ヘルペスのある友人に聞いたら、伝染るなんて知らなくて気にもしていない様子で子育てをしていました。

病気は恐怖心が根源だと実感でした。


そんな辛い状況が始まってしまった第一子の誕生でしたが、赤ちゃんがいる暮らしは、無条件に深い愛おしさを感じさせてくれて、たくさんの幸せを運んできてくれました。

 


朝起きたら、まーるっこいいちっちゃーい顔を見て一日が始まります。

毎回ミルクを飲む時は、ゴックン ゴックンと語りかけながら、ゆったり目を合わせていられる時間でした。


長男赤ちゃんは、毎日キッチンでベビーバスの沐浴をします。

小さなボディを洗い終わって 「ぬくぬく ぬくぬく」
と話かけながらお湯の中であったまる時は、とーっても気持ち良さそうに目を閉じて ゆる~りほんわかになっていました。
ほーんと気持ち良さそうにしてお風呂が大好きでした。


何かを語りかける声…✨
かわいいベッドの中は伯母からお祝いの手作りマットやベッドガードでおとぎの国…✨

始めての寝返り…✨
始めてのおすわり…✨

ありきたりですが、親にとってはホンマにめちゃくちゃかわいいです🍀

始めてのハイハイは手足を動かさずにお尻を前後に振ってその勢いでピョコタン、ピョコタンと変な進み方を最初に覚えました✨

始めてのちょこんとつかまり立ち…✨
ベッドの柵につかまっていつも柵にパクついていました。

一人で立って始めて数歩歩いた時は、思いっきり喜んでめちゃ嬉しそうな声を出しながらポトポトポトと歩いた我が子の満天の笑顔✨

始めて声を出して笑ったのは 「エーヘッヘッヘ・・」でした✨

3日に一回くらいの買い物は、高台の団地から下に降りていく近道の石段をガタコンガタコンと話しかけながらベビーカーで往復していました✨
あんな坂の石段をベビーカーで上り下りするのはめちゃハードです。
若かったのです。 

数えきれない瞬間瞬間のかわいい姿が蘇ります✨✨✨



3〜4ヶ月くらいだったか、抱っこが慣れすぎて抱き上げた時にバランスくずして自分の立っている位置から畳の上に赤ちゃんを落としてしまった時は、真っ青になってタクシーで病院へかけつけました。
病院について診てもらったら「僕は元気だよ✨」とかわいいしぐさを見せてドクターに伝えているみたいな気がしました。
落ちた途端すぐにオシッコをもらしたし 大丈夫でした✨

公園では、ちょっと目を離したスキにタバコの吸い殻を拾って口に入れていたり…
すぐにミルクを飲ませて大丈夫でしたが…✨

業者が部屋の壁を一部塗り変えにきた時はシンナーのにおいで意識を失ったので部屋の換気が完全になるまで数日間実家で過ごしたり…✨

歩けるようになったら、いつも砂遊びのオモチャを入れた小さなバケツを買い物カゴのように小さな腕にかけて、公園へお友達赤ちゃん達と出かけました✨

ヘルペスがなかったら、この幸せをいつも思いっきり感じて暮らせたと思います。

右掌ヘルペスの苦悩で人並み外れた生活困難が多大になってしまっていたから、

私の頑張る力みや緊張感みたいなのは強くて、

赤ちゃん時代は抱っこしていても眠るまで顔を私の肩にもたれかけてこれなかったり… そくらいリラックスできなかったと思います。

一生懸命で何かをすることに追われているから、私は休むことを知らない状態でした。
 

小さな我が子をかわいくて大切に思いながらも、一緒にゆったりとふれあうことを楽しむゆとりはあまりなくて、
かけがえのない瞬間瞬間をしっかりと味わえていなかったのだと思います。


あんなにかわいかったのに!

もったいない・・・



余談になりますが、ヘルペスは水疱ができる症状なので、掌に出るというのは赤ちゃんを抱きしめられない哀しみの潜在意識の現れだと、後々命の本質(本)を届けてくれた人に言われました。
医師の宣告も含めて
その時はそうなんだと納得してしまいました。
そうだったのかもしれないし、違ってたのかもしれません。 



夫とは望んだ結婚ではなく最初から不調和で、朝早く出勤して夜遅く帰宅するサラリーマンだから、家事育児の協力はほとんど無しの母子家庭同様でした。

(友人曰く、隠れ母子家庭と呼んでいました)

彼は、毎日のお風呂と休日にはミルクとオムツ替えはしましたが、家事は一切協力無しでした。
不器用すぎてちゃんとできない人でしたし、封建的でした。

長男の時こそ、出産後の実家で長く暮らした方がベストだったのです。

本当なら、ある程度大きくなるまでは、日常に身近な協力者は絶対に必要でしたが、生活する奈良県と実家和歌山県の距離では身近ではありません。

一般的な里帰り出産の産後は一ヶ月もすれば実家を離れますから、手のひらヘルペスを抱えた母子家庭同様の生活に先々の不安や無理を感じながら一ヶ月後には実家から自宅へ戻りました。

両親同様に自分達もそうしないといけないという思い込みでした。

こうして、一般的という世の中の地球ルール枠の中で、自分の本音の声はしっかりと聴こえていないことばかりでした。

ヘルペスがきっかけで医師の無神経な脅し言葉に洗脳されて、我が子を全力で守ろうとした為に発症してしまった強迫神経症(不潔恐怖症)は長引きました。

強迫神経症(潔癖症)は見た目には分からないから誰にも助けてもらえないし、ほとんど一人で頑張るしかない生活が続きました。
命の本質にふれてからは約9年半の結婚生活を終えて、離婚後自分のヴィジョンに向けて本格的に羽ばたいていくまでは強迫観念と戦いながら一人で頑張るしかなかったのです。

何もかも自分の思っているレベルの人並みにする為に手抜は一切自分に許さないから、
不自由な右手を持ちながら人並み以上に全力でした。
右手に手袋しながらの生活困難を一人で全力で頑張り、他者にはヘルペスを隠して子どもの保育園の農園作業までやりました。

今なら、そんな無理なことは絶対にしないしできません。
ヘルペスも一目を気にせずオープンです。

自分に優しくなるのは遅すぎましたが・・・


そんな風に見た目には理解されない困難多難苦難の日々の中に、
深いところではいつも長男の存在がサポートしてくれていて、導いてくれていたのだと思います。


大変な生活でも、第一子は始めての体験はかりで喜びがいっぱいでした。

その時の私なりのフルハートいっぱいを込めてぜーんぶ自分の手でふれあえてきたし、かけがえのない赤ちゃん成長過程の一コマ一コマは鮮明に記憶に残っています。

あの子の存在は、深い潜在意識が開放へと向かいはじめた光の扉への階段を一緒に歩いた小さなパートナーでした。

体は子どもだけど中身は大人の高い魂でした。



長男とのプロセスは自信のなかった過去から脱出開始!

命の本質を知り、自己肯定の扉が開きました。
自分の素晴らしさに気づかされながら、他人軸から自分軸へと本来の私自身に還りゆく自己信頼の始まりでした。

あの子がいることで、母という位置から自分への小さな自信が芽を出していきました。

自分を感じて自分を愛する自己受容への光の道のりを最初の一歩から共に歩いていったのです。


 バーストラウマ


長男出産に選んだ病院は、私の母がよかれと思って勧めてくれた評判の良い新しくて綺麗な綜合病院でした。
出産入院の個室は近代的で広々としていました。
 

帝王切開で生まれた長男は、ヘルペスの医療データが乏しく過剰に慎重な医師の為に極端な対応をされてしまいました。
(帝王切開出産体験記に少し書いています)

空気感染でもないのに万が一の為にというだけで何の問題もない生まれたばかりの小さな赤ちゃんは1週間保育器に入れられて、母子完全別室で抱くことも母乳も飲ますことも赤ちゃんの部屋に入ることも禁じられました。
部屋の入口から見ていることしかできなかったのです。
 
母乳は早くから出始めていましたが、授乳を禁止されたままずっと搾って捨てていきました。

後には、絶対にありえないことだらけです。

当時の私は何も知らなかったから、そんな医者の言葉を鵜呑みにして信用し言いなりになってしまったのです。

両親は、万が一の為に良い対応をしてくれたと言って喜んでいました。

今なら、唖然とします。

医者の万が一恐怖心ほど、生命の本質を狂わせてしまうものはありません。
 
第二子娘の帝王切開では、生まれたら直ぐにそばにつれてきてくれて母乳がポタポタ出るので傷口は痛くても2日目から抱っこして授乳開始。
ヘルペス感染検査なんてありません。
それくらいでは感染しないからです。

長男の時のあの医師の対処は何の意味もなかったことになりました。
データ不足の為に「万が一」という必要のない最悪対応をされただけのことでした。

2回目が帝王切開になったのは、1回目が帝王切開だから1回切ったら次からは絶対に帝王切開だと決めつけのクリニック医師でしたから。
 
1回目の総合病院医師は、1回目帝王切開でも2回目は普通分娩ができるという医師でした。

こんなに医者によって判断が異なる「医療のお好み趣味の世界」みたいなのは超迷惑です。

医療の危険性はその医師の個人的な考えで大きな差があり、長男出産は、生まれてすぐの時期に最も大切な大切な母子のふれあいや繋がりの心身安定に対してあまりにも優先度が低すぎるめちゃくちゃ慎重すぎる医師でした。

自然な生命力からは最も遠い医師でした。
人柄も良くて評判の良い産婦人科医でしたし、医者でなかったら良かったかもしれません。

両親は万が一を重視する慎重な医者が最高だと思っているからそういう病院へ引き寄せられて、まだ若かった私は疑いもなく勧められたまま受け入れていたのです。
一般的なことしか知らない地球人体験中の未熟な私でした。

生まれたばかりの赤ちゃんの1週間は、大人の1年分くらいの中身に相当しますから、その期間、保育器の中で泣いて泣いて泣きつかれて、
眠るしかなかっただろうし、呼んでも呼んでも誰も答えてくれないし、抱っこもされずにミルクの時間だけ保育器の横から手を入れて飲ませるだけだったみたいです。
たぶん・・・?

ヘルペスが伝染っていないかどうかの検査結果が出るまでは、そんな残酷処置をされたようです。

医者の無意識的脅しほど怖いものはありません。

総合病院は不要な検査や処置が多すぎるし自然生命力にはマイナスになるばかりの処置は、私が赤ちゃんを出産するには最も相応しくない場所でした。

根源を完全に間違った地球人の無知な世界でした。


始めての帝王切開でしたから、何をされるかわからないまま手術台のまな板にのせられて思いっきり固まっていました。
背中に半身麻酔をうたれて手術は進行していきました。
下半身は痛みはないけど、医師が私の体を切り裂いて内臓をひっぱるような赤ちゃんを取り出す感覚が伝わってきてめちゃくちゃ気持悪かったです。
それに、手術中医師同士で勝手に色々会話しているのが半身麻酔だからまともに耳に入ります。
なんて医者は無神経なんだろう、とあらためて思います。

術中会話で、
「ええ産道やなー」と言った医師の一言がずっと心に強く残っているのですが、
普通分娩だったらめちゃ安産だったのだと思います。
私の母も超安産で安産体型がよく似ているのです。

後の3番目自宅水中出産には、この安産体型が安心感の大きな支えになっています。

スピリチュアル的に観れば、安産体型だから、自然出産の確かな可能性のメッセージだったと潜在意識には受け止めていました。

「きゅ、きゅ、きゅ、」
という小さな産声でした。
オギャーとはなかなかったです。

私が固まっていたから、赤ちゃんも固まって声があまりでなかったのかもしれません。

赤ちゃんが取り出された一瞬だけ目に焼き付けた我が子はそれっきり1週間もふれることなく、
手術をしたという恐怖心状態で、
赤ちゃんを産んだ…母になった…という実感も弱く、
術後最初の夜は激痛で苦しみまくりでした。
半身麻酔が切れたら「初日は痛いよ」と言う医師の言葉(波動)を受けた強い恐怖心の為に、傷口の痛みは半端なく酷かったです。

半身麻酔は短時間で切れてくるから痛み止めが保たなくて一晩中怖くて痛くて大手術みたいにきつかったです。

全部慎重すぎた医者の被害でした。

ですが、その時は被害を被害と認識することすらなく、
医師の安心だと判断するまでの無意味な制限が解除されるまでは、手術入院患者でした。



赤ちゃんを始めて抱いた日

1週間経って無意味な制限は解除され、我が子はやっと私のそばに来ることができたのです。

部屋につれてきてもらった赤ちゃんの顔は、安心に満ちて穏やかな誇らしい微笑みに見えました。



小さな小さな我が子がやっと戻ってきました。

やっと…始めて自分の産んだ赤ちゃんにふれて抱きしめました。


始めて我が子を抱いた時、そばで見ていた担当医が言いました。
「やっと抱いてもらえたなー」 と・・・


今なら思いっきり言ってやります。
「あんたが、抱けないようにしたんやないの!?」 

 
それらも全部地球人生の体験シナリオでしたが・・・


そんなふうに地球スタートをしたスターシードの長男息子は、すぐに諦めてしまう潜在意識ができてしまったような気がするし、
自己主張も自己表現も弱められたような潜在的ベースができてしまったように感じました。

呼んでも呼んでも届かない状態に置かれたからです。

無意味制限中、赤ちゃんを部屋の入口まで見いった時は泣き声も力ない感じがしました。

何もかもおかしいことだらけなのに、本質をまだ何もしらなかった私はそれが普通に当たり前で「そんなもんなんだ」と思って疑問すらもたなかったのです。


長男はお腹にいる時から大人しい優しい子で、そんな生まれ方を経て、ストレスを抱える私に自分の気持をあまり言えない我慢と諦めの傾向が強い子ども時代になってしまいましたが、
バーストラウマの原因が根底にはあったと思います。

自分の気持を言えなかった私のインナーチャイルドと同様でした。


ですが、後に光の扉が大きく開いてステージが上がる時期が訪れました。


ヘルペスと強迫神経症との戦いで、頑張りまくってとうとう生きる希望を無くしかけた時、ずっと深いところでは求めていた命の本質(本とメッセージ)を当時の夫の義理の姉から伝えられました。
そこからは、さらに自信への道のりがいっきに進み、息子と共に親子で「本質」へのプロセスを歩みはじめました。
 


命の本質に繋がり高い魂だと伝えられてから、その後宇宙情報が届いた頃に我が子も自分もスターシードだったことを知りました。

宇宙のルーツは天使です。

    納得でした。 

自分も長男も宇宙高次の星から転生してきた素晴らしい存在だったことを確認していきました。

この長男との光の階段プロセスはまた別の機会に書いてみます。



大人になった息子を再び抱きしめて

特に一番かわいい一歳までの赤ちゃん時代にゆったりと思いっきり抱きしめる余裕がなかったから、ずっとそれが最大の心残りでした。


長男が成人して大学卒業式の日が子ども時代最後の日になるから、この日に一緒に食事をする約束で、絶対に赤ちゃん時代の思いを全部込めて思いっきり抱きしめようと心に決めていました。


その頃の私は熊本県に遠く離れて暮らし、辛い出来事がおきていてショックから簡単に卒業式に行けるような状態ではなかったけど、どんなことをしても絶対に行こう!と強く心も体も奮い立たせて
「もう一度本当にあの子を心からゆったりと抱きしめたい」一心で大学のキャンパスへたどり着きました。

チャンスがうまく繋がりますようにと祈りながら、最後の最後のタイミングで勇気を出して大きくなった我が子を抱きしめることができたのです。

体は私よりもかなり大きくなったけど、初めてわたしの肩に顔をもたれかけてくれました。

ちっちゃーいあの時のあの子が頭をちょこんと私の肩にのせていました。

あの時のちっちゃーい息子(インナーベビー)を思いっきり抱きしめました。

愛おしくて涙が出ました。


やっと本当にゆったりと抱きしめることができたのです。

息子もゆったりまったり
安心して抱っこされるようにもたれかけてこれました。


ホントにうれしかった!!


過去の小さな息子にできなかった心からの願いはようやく叶って、ハートに足りていなかった根本部分が埋まったような気がしました。

赤ちゃん時代の抱っこしていた記憶を全部この瞬間に繋げて、潜在意識の書き換えをしたのだと思います。

そこには他の色々な子育てふれあいも全部込めていました。





私の肩にもたれかけてくれたあの時がくるまで、先に何も言わなくても気持はぜーんぶ通じていたのです。


一緒にホテルの食事して部屋で少し話してドイツ卒業旅行の写真を見せてもらい、
帰る直前に抱きしめた数時間でした。 

遠くから必死で会いに行ったのに一緒に過ごせたお祝いの時間はめちゃ少なかったのは残念でしたが、
息子はそんなことには全然気づかずに大学の友達と謝恩会以降を楽しんで帰っていきました。

そのまま私はホテルに泊まり、わずかなひとときの幸せをかみしめながら直ぐに帰る気になれなくて、
数泊ホテルに一人で滞在していました。
そこにはもういない息子を感じながら・・・

またいつ会えるかわからないし、帰宅したら辛い状況が待っていましたから、帰りたくなかったです。


その後、長男の就職先の会社では研修1年目の勤務先が当時私の住んでいた熊本県に決まり、結果的に長男がまた身近に繋がってきたのです。

奇跡がおきたような喜びでした。

本気の本気で抱きしめた結果、ステージは喜びの現実化へと宇宙が動いたのです。



二人目長女の誕生


長男が生まれてから、7年後に長女が生まれました。


命の本質(生命の実相)が伝えられた1年後くらいだったような気がします。

その時期は本質にふれていたので、母子の自然体をようやく体感、実感でき始めていったのです。

長女誕生のことは、次の記事に書いてみます。



長男のハッピー妹育て

二人目長女が生まれて退院した時は、実家の母が協力のつもりで一時的に長男を実家に預ける流れになってしまいましたが、何となくひっかかっていました。

退院して長女と二人の生活が始まると、すぐに預けるのはやはり間違ってることを感じて、長男を赤ちゃんのいる自宅に戻しました。

実家に長男を預けるなんて自分が本当に望んだことではなく、私の本音はありがたくなかったことに気がついたのです。

両親や世の中の一般的概念に引っ張られて、預けなければいけない…みたいな錯覚になっていたと思います。


お兄ちゃんがいてくれた方が妹を大切にしてくれて色々助かるし、その方が楽しく家事も楽にできます。

実家から送ってきてもらった長男は、めちゃくちゃ嬉しそうに帰宅しました。 

彼も早く妹に会いたくてたまらなかったのです。

長男は思いっきり妹をかわいがり、父親以上にいてくれてホントに良かったと実感でした。

自分の感覚を信じて、最初から実家に預ける必要なんてなかったんだ…
もっと早く連れ戻せば良かったと強く思いました。


長男は妹を無条件に可愛がり愛しました。  

妹が生まれた日は産院の保育室のガラス窓にへばりついてずーっと赤ちゃんを見つめていました。

お利口さんの為の良いお兄ちゃんなんかではなくて、からかわいくてたまらないという感じで、何もかも自分から妹を愛して大切に大切に可愛がりました。


学校から帰ると、真っ先に妹のベッドへ行き、直ぐに簡単に宿題を済ませ、妹のベッドに入って一緒に遊び、夜寝るまでずーっと妹と二人で部屋中を遊びまくりの毎日でした。

ベッドで一緒に遊んでいるうちに二人くっついて眠っていたり、背中におぶって走り回ったり、ひな祭りには折り紙で手作り雛人形を作ったり、もう、かわいくてたまらないという感じでした。



小学校の作文で、一番大切なものを書きましょう、というのがあって、そこには「妹」とだけ書いていた、
と担任の先生が家庭訪問で感動を語ってくれました。

他の子はオモチャ等と書いてるのがほとんどの中、うちの子だけ妹と書いていたとのこと。

当時、 長男は生まれた妹赤ちゃんのことを、

「世界一かわいい赤ちゃん」

と、目をキラキラさせて言っていました。


ありったけの愛を込めた笑顔からは、完璧無条件の愛が溢れていました。

兄もまた、妹から愛されて癒されていきました。

愛てんこもりの微笑ましい兄妹でした。

長男はホントに父親以上でした。

だから、妹も父親以上にめちゃくちゃ兄を慕っていたし、
彼女にとって最も信頼できる最愛の人でした。


兄と妹の超仲の良い関係性は大人になるまで続きました。

(複雑な環境の為に後々関係性は変わってしまいましたが、本来なら、大人になってもずっと信頼は変わらなかったと思います。)


スターシードの子供は 特に愛深くそのままで輝きます。

ボディは子どもで小さくても、ハートはとーっても大きくて大人です。


 

  ステキな兄妹


長男9歳、長女2歳くらいの頃、ある波動の高い場所を訪れた時に、そこで出会ったおばあちゃんが、この兄と妹の在り方を観ていて言いました。

「素晴らしい兄妹ですね。
どんな風に育てたのですか? 」

と感動を伝えてくれたのです。


私は、そのまま返答しました。

「私は特別な子育てとかを何にもしていません。
いつも、できるだけ対等に接することを心がけています。

自分は、両親にされたようなしつけや干渉的な嫌な子育てを絶対にしないようにと思っていて・・
それでも、つい、両親のような古い固定観念の反応や親都合の関わりになったり、自分ストレスで怒ってしまうことはよくあるから、
その後には心から抱きしめて、
ごめんよ、また怒ってしまって・・

本気で対等に謝ります。

しいて言えることはそれだけです。
しつけや教育的なことは特に何もしていないです。」
 
おばあちゃんには、そんなことを自然に自分の口から出てきました。


子供達は完全にわかっていますから、基本的に何も心配はなく、自分の人生を自分でちゃんと生きていく魂だということは、元々私なりに深い確信があるのです。


それは、ノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイさんの父親がトークしていた子育ての本質と同じ内容でした。  



子どもは生まれた時から翼をもっている


すっと後になって、長男が成人して結婚した頃だったか、一番下の子と暮らしていた部屋の片付けに長男が手伝いに来てくれていた時のことでした。

ノーベル平和賞受賞者マララさんのお父さんの講演がテレビから流れてきました。  


お父さんのコメントの一部の記憶です。

「他者からは、そんな素晴らしいお子さんに育ったのは、どんな風に育てられたのですか?
とよく質問されます。
ですが、私は特に何もしていません。

子供は、生まれた時から翼を持っています。

その翼を大切に信じてきただけです。

何かをしてやる、とか親の勝手な押し付けやしつけ、固定観念や決めつけというようなことを一切しないことです。

そういう風に

何かをどれだけしてやれたか…
ではなくて

『どれだけ何もしなかったか』

それが全てです。 」


と、コメントされていました。

そういう子育てルールみたいな不自然な余計なことをどれだけしなかったか、につきる、ということです。

私は、心底共感して聞いていました。

全く私の考えや感覚と同じことを言っていました。

私の子育ては、これが基本になっているからです。



簡単に言えば、
信じて見守る…という意味ですが、かなり根本的な深い原点からのトークで、宇宙意識に直結していました。



私が、ストレスを感じたのは、体は大人ですが中身が幼稚な子どもで古い固定観念だらけの「昔の価値観の人達」でした。


(特に昭和の象徴みたいな夫や両親)


彼らから受けるストレスは強く、そのイライラが身近にいる子供に流れてしまう・・・
そうすると、子供もストレスで困る状態が発生してきます。

ストレスになるのは、地球の責任感や義務感をはじめ、無条件の愛を遮られてしまうような古い固定観念の価値観や人や社会です。

自己否定の潜在意識は根底にありますが、
現実ストレスの大きな原因はその部分でした。

基本的に、子供達からストレスは直接ありません。  


それが、私が体験して実感した母性の本質につながる母と子の基本だと私なりに確信しています。


言うまでもなく、夫婦が対等のパートナーシップが家庭の基本ですが、私なりに母と子の関係性について最も感じてきたことです。

厄介な昭和(土の時代)の本質に対して無知な人に妨害されるまでは私達母と子の幸せは、根本的に何の問題もなかったです。


色々、語り尽くせない波乱万丈プロセスでスムーズに母と子が生きてこれなかったことは深い哀しみの奥に言葉にできないものがありますが…

子供達との関係性の根底には、ずーっとこの本質が私の中に在り続けています。





関連記事として、帝王切開で生まれた第一子と第二子から3番目の子の自宅水中出産体験記をブログの一番最初に投稿しています。

https://note.com/tanoshiiuchuujin/n/na6a950b415d8

https://note.com/tanoshiiuchuujin/n/nca7b9087fdc0


その他

🍀自宅出産の父から息子へ
🍀幸せをありがとう
🍀叶うからねがう




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