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命の本質の扉が開いた人生最大のターニングポイント ①(導かれて)


こんにちは♡

今回の体験記は、人生最大のターニングポイントで命の本質ステージへと導かれていった最初の流れのお話になります。


  


生命の実相との出会い

約31年前(1993年)
長男が生まれて約6年後、
人生最大のターニングポイントが訪れました。
 

この時、私は地球人生ではじめて「命の本質」を知りました。

生活の困難苦難から脱出して健康で豊かな真の幸せへと移行できることを知ったのです。

この時こそが地球シナリオの覚醒ポイントとして設定してあった「その時」でした。 


自分が何者なのか?
 
自分は何故ここに居るのか?

何処から来て何処へ還るのか?

それらの答えが明らかになっていくステージの扉が開いたのです。


始めて知ったという知識ではなく、
この世界は何かがおかしいという疑問は幼少期から深いところで感じながら地球体験シナリオを生きてきて、ずーっと探し求めてきた本質の深い意識の答えを呼び覚ましたような感じでした。

やっと届くべきところに
   届いた! 

  辿り着いた!

という強い確信みたいな感覚でした。
  

そこに知りたかった全てがある!

という確かなものでした。


それは
「生命の実相」という形で届きました。

不安感や恐怖心が消えて安心感に満たされた愛と喜びの平安な世界が本当の自分なんだということ。

究極の真髄が書かれていました。
 
スピリチュアル的には、宇宙の本質、大いなる自己、真我、神、創造主…など色々表現されますね。 


生命の「実相」とは生命の「本当の姿」という意味で、私は一般的な言葉で「命の本質」と言っています。 

この生命の実相を伝えてくれたのが離婚した1回目夫の義理の姉で、ある日突然電話がかかってきたのです。

長男出産からヘルペス感染症告知を受けた際の医師の脅し言葉の為に、強迫神経症を発生してずーっと苦しみ続けてきたことで、
頑張ること、生きることに限界を感じた頃でした。

義理の姉と電話で30分くらい話しました。

彼女を通して必要な魂の言葉が流れてきました。

その中で最も心に響いたのが、
人間は皆神の子で「キリストが奇跡を起こしたことが、本当は私達にもできるんですよ」
という言霊でした。

ここに全てが在る、と当時の私は強く強く感じたのです。

魂が待っていた言霊でした。

そして、本「生命の実相」と「聖経 甘露の法雨」という命の本質の詩を書いたものを届けてくれました。

生命の実相全巻の内容を集約したものが甘露の法雨という短い詩に全て表現されている、ということでした。

生命の実相の内容は、「人間は神の子である」ということをあらゆる観点から詳しくわかりやすく表現されていますが、全巻通じて人間神の子を言っているだけだ、と義理姉が話していました。 

彼女の話はチャネリング同様の次元だったので、彼女自身話したことはほとんど覚えていなかったみたいです。

 
生命の実相というのは、生長の家創始者谷口雅治氏が昭和初期にチャネリングで書き下ろした本質を伝えるメッセージ著書です。
ジャンル的には哲学書です。

日本教文社が出版している本で、図書館にも置かれています。

全部で40巻ありますが、中心は第1巻と第2巻です。
私はこの1巻、2巻と霊界編の第9巻だけを読みました。
他は、読もうとしても読めなかったのでそれらは全部わかっていて必要なかったことは後から確認しました。 
 
第1巻は、一言で言えば「人間は神の子である」ということを多方面から繰り返し伝えていました。

宗教的な解説っぽいですが実相哲学は一宗派ではないので、例えば○○についてキリスト教ではこういう表現、仏教ではこういう表現、などと具体的例をあげて命の本質に至る表現をしていてどの宗派も否定しません。

全巻通してこの神の子を伝えているわけで、生長の家ではこの表現が中心になっていますが、神の子よりも神そのものという表現の方が私にはしっくりきます。

神の子という表現は、生長の家組織独特の言葉みたいになっているので、スピリチュアル的には創造主の意識の一部というのが自然で、量子物理学的な解釈のほうが一般的にはわかりやすいです。  

第2巻には、医療について書かれていました。

最も印象に残ったところを簡単に要約すれば、
「医者も商売だから患者がいないと困るわけで、医者の言う通りにしないと治らないよ、という潜在的コントロールが発生して患者は医療に依存させられてしまう(生命力低下の危険性)」という部分でした。

なるほど! その通りだ!
と思いっきり共感しました。

医者も商売だから患者がいないと困る、という箇所だけははっきり記憶に残っています。
実際、この部分だけしか覚えていません。
 

命の本質に対して、医療の集合意識に潜む医者の無意識的コントロールを覆していく自分のヴィジョンとして実感したのです。

2回の帝王切開から後の自宅水中出産が実現した自分のヴィジョンに繋がるメッセージでした。

私には、生命の実相でこの部分が必要だったのです。
他は、人間は神の子
ということ以外は宗教的な表現なのであまり覚えていないです。

生長の家は医療を否定はしていません。
命の本質に繋がり、医療のコントロールを手放して、感謝しながら神に委ねるというふうな意味で伝えていたと思います。

甘露の法雨には、現在のスピリチュアル界で伝えている様々な情報を根本的に全部集約した内容が書かれていると言えます。 

感謝からはじまり、願望実現引き寄せの法則や想いの現実化、自己肯定など 自他を讃嘆し、浄化し、赦し、喜びを生きる、というようなスピリチュアルの本質の全てを詳しく伝えていました。

時代的に自己受容よりも感謝を強調している感じです。

表現方法は生長の家独特な部分は多々ありますが中身は同じことです。

実際、生命の実相や甘露の法雨を読んで不治の病が消えたり貧困が豊かになっていったり、生活苦が消えて幸せになった奇跡は現実に続出しています。

生命の実相には、病気は治るのではなく、実相が顕現すれば「消える」と表現しています。

現れていた病気は、光の当たらない影のような状態に視えているだけだから、実相(本質)である光があたれば自動的に消える、ということです。

自分の本質、宇宙意識では奇跡が当たり前におきる、ということです。

生長の家の表現を自分なりに簡単にまとめると…

実相は実在し、闇は本来無いから消える。
光のあたらない状態を無明といい、
光と闇ではなくて、光と影。
光のみの世界。
善と悪ではなくて、悪に視えているだけで本来悪はなく善のみの世界。

現象は移り変わり消える。
実相は円満完全に実在し、消えない。
 
ざっと簡単ですが私なりの生命の実相を表現してみました。

当時は本質を伝える情報が少ない時代で、この生命の実相は数少ないほんまもんの一つでした。
松下幸之助氏も読まれていたと聞きました。

時代が時代ですから、その時代の宗教っぽい表現になっているので私には堅苦しい文章でしたが不思議に何とか読めました。


私は 生命の実相の行間を読んだのだと思います

それらは原点でした


私にとって生命の実相とは、本ではなくて「命の本質」です。

実相というのは超意識、宇宙意識のことです。


生命の実相の代わりに生長の家の本だけではなく、本質について書かれた沢山の心理の本を読み、後には宇宙情報に繋がってチャネリング本も色々と読みました。

ぱっと開いたページだけで終わる場合もあったり、必要なものは与えられました。

読書は好きではなかったからそれまでは本なんてほとんど読まなかったのですが、この時期だけは本気で読みまくりました。

単に知識を学ぶのではなくて、実体験から確認していくような感覚でした。

生長の家が組織化されて宗教法人の宗教本みたいなイメージになってしまっていますが、本来哲学書で、著書谷口氏本人も宗教団体を全く望んでいなかったわけです。
第二次世界大戦の為に生長の家を持続していくにはやむを得ない選択だったとのことでした。

宗教団体になると、組織が大きくなればなるほど真実発信のバランスに歪みや偏り等が色々と発生しますから、組織活動3代目谷口雅宣氏の現在は、結果的に「生命の実相」は生長の家組織からは完全に離れています。


生命の実相の説明が長くなりました。

ここから私の地球シナリオ光の道が始まり
長男と共に導かれていきました。 
 


生命の実相第2巻   医療について

昭和一桁の私の母は、医療を絶対信頼していました。
お医者さんは優しい、と言って潜在的には愛を求めて病院へ行っているようなもので、医療では治らない病気を次次と発症しては大量の薬を食品のように服用し続けて、最終的に薬で死んだのかもしれないと思えるような医療依存者でした。

あれだけの大量の薬を飲んでも高齢まで生きるパワーがあったのだから薬に負けないあのパワーが本当の生きる方向へ向いたなら病気は消えてしまうくらいの生命力だったのではないかと、私には思えました。

毎日おかずのように薬を食べているように視えました。

亡くなる1年くらい前から、薬は効かないし治らないんだ、とようやく気がついて、一気に止めるのは怖いから少しずと減らしていっていました。
死期が近くなったから生命の本質に気持ちが向くようになったのかもしれません。

一般的には、病気をわずらいなからも薬のおかげで長生きができた、と言えるところですが…?
本質は逆です。

そんな母に育ったのですから、子ども時代は薬付けでした。
ちょっと風邪をひいたら薬…
ちょっとお腹が痛かったら薬… 
熱が出たら薬…
それが最も良いことなんだ、と母は確信していたからです。

ある時、私は風邪で田舎町の行きつけ病院を受診したら、医師が教えてくれました。

風邪に効く薬はないんだよ、体を休めて自然治癒力で治るんだよ、と。
医師は同級生のお父さんでした。

それを聞いて、私は薬を飲むのをやめました。

そうしたら、どんどん健康になって結果的にほとんど風邪をひかなくなりました。

子ども時代にそういう体験をしていたことで、大人になってからは病院へ行く事がなくなりました。

出産以外は長い間、病院には縁がなくて一昨年癌の告知を受けるまでは、薬らしい薬も飲むことはなかったです。

たまーに飲むのは漢方薬やビオフェルミンくらいでした。
きつい薬は効かないし、
病院へ治療に行ってもたいてい根本的に良くならないことを子ども時代から体感していました。

そういう地球体験のシナリオが後の自宅水中出産実現のヴィジョンへ繋がっていたのだと思います。



生命の実相の話しに戻ります。

私の実家は浄土真宗で、先祖や信仰を大切にする家族でした。
が、私はそんな宗教の教えの内容には幼少期から疑問があり、むしろ宗教大嫌いでした。

生長の家の基本が宗教ではなく実相(本質)哲学であることと、義理姉からのメッセージがほんまもんだったので、当時の私はベストタイミングでそこに繋がっていきました。

 

生長の家のつながり       

  
義理姉から伝えられた生長の家の組織の中を覗いてみるプロセスがはじまりました。

私は基本的に、組織には入らないし入る必要もないので、導かれていく流れの中でほんの少し宗教団体的な組織の体験をしてみたんだと思います。

そこには、必要な素晴らしい人達との出会いがたくさん待っていたのです。


生長の家の人達の波動は明るくてオープンで自由でした。


色々ある発信方法の中で、なによりも一番気に入ったのは自己讃嘆でした。
自他を讃嘆し、当たり前が素晴らしい、ということをみんなで高めあっていて、自己否定だらけだった私には一番必要なものでした。

自分の素晴らしさに沢山気づかせてもらって、自己肯定の第一歩でした。


当時は三重県名張市百合ヶ丘という新築一戸建てに引っ越して間がない頃でした。

生長の家活動をしている近くの人達につながるようにと、義理姉に勧められて生長の家三重県教化部という部署の名張市のグループにご縁ができました。

離婚後には全国4ヶ所ある練成道場にも導かれて長男&長女と三人で訪れた最終地点で2回目のパートナーに親子で出会ったのです。
このプロセスは次の
記事に書いてみます。

はじめて生長の家のグループの集まりに参加する日、途中まで迎えに来てくれて橋の上で待ち合わせをしていた女性との出会いこそ、大きな魂のご縁でした。年齢も1歳違いで彼女が上でした。
生長の家では地球の輪廻転生しか伝えられていなかったから、過去世では姉妹だったのかもしれないと言われました。

彼女は心理がとても深く、愛深い意識の高い女性で、待ち合わせ場所の橋で会った時はキラキラして微笑んでいました。

初めて会ったような感じではなかったんだな、と思えます。

まだまだ乏しい情報の中を手探りで集合意識を開くように、彼女と二人三脚で光の道を導かれて進みました。
今から思えば当時のスターシード、ライトワーカー先駆者の一人だったのかもしれません。

後に宇宙情報へ繋がっていった頃にはやはり彼女も高次元から来た宇宙人ソウルの存在であり、約束してきた魂の再会だったのだと思いました。

彼女は若い頃から生命の実相を読んで、こんな生活がしたい!と湧き上がる感動だったとのこと。

当然彼女も、組織に洗脳されることは一切なくてスターシードライトワーカーとしてのポジションで根本的なところで生長の家に深く繋がっているのだと思います。

また、組織にありがちな他の人に依存的についていかないし、先生を追いかけないし、
自分自身と常に向き合い、共感し、共に存在している、という関係性が基本的にありました。

どちらかというと私が色々出向いては体験行動することが多く、彼女はたくさんの本を読みたくさんの新しい情報やメッセージを届けてくれました。

当時の私には本当に特別な深い繋がりでした。 

この時、長男はまだ小学校1年生だったと思います。
二人目長女が生まれてくる予感すら全然ない頃でした。

長男と生長の家に繋がって、1年後には長女が生まれて、1年半後に離婚へと導かれていきました。

離婚後には全国4ヶ所ある生長の家練成会にも呼ばれるように長男&長女と三人で全部参加し、素晴らしい出会いや体験を経て最終地点(生長の家総本山)で2回目のパートナーに出会ったのです。
これらの親子三人で共にあるいた光の道は次の記事に書いてみます。

 

話はまた少しそれますが、
生命の実相に繫がった2軒目新築の家に引っ越す前の、1軒目新築一戸建て(奈良県桜井市)では、長男の保育所時代を過ごした4年近い暮らしで、長男と二人で3次元生活のシナリオを一生懸命生きた時期でした。



当時、新築一戸建てが2回も与えられていたのは、強迫神経症潔癖症の為に最も必要になっていたからです。

奈良の新興住宅地の最初の家では、再発性手のひらヘルペスと強迫神経症に頑張りまくる苦しい生活の中にも、3歳で保育所に入所した長男を毎日原付バイクで送り迎えをして、
長男の良い友達ができて、良い保育士さんに恵まれ、良いママ友にも繋がりました。
それなりに幸せと言える事も色々ありました。

まだ自覚はなかったけどスターシードだから、ハートフルに本音で繋がれていたんだと思います。


長男にとって最初の思い出深い幼少期のステージです。


3歳になって直ぐに保育所入所でしたから、最初は慣れるまで緊張して行きたくないのを我慢しながら頑張っていました。
初日に迎えに行って自宅に着いた途端、「やっと帰ってきた」と思いっきり安堵の一言を言った時の様子は今も鮮明に覚えています。

大人しい長男は運動能力はそんなに高い方ではないけど、バランス感覚がすんごく良くて、2クラス全員の中で一番最初に自転車のコマ無しに乗れるようになりました。

長男は自分からコマ無しに乗りたいと言い出して、公園で私が自転車の後ろを押して勢いよく走ったら即そのまま上手くバランスとって走り出し、手を離してもこけないで真っ直ぐ乗りこなしました。

それまでは、父親に押してもらってちょっとづつ何度か挑戦したけど全然ダメでしたが、
私が「大丈夫」と自信をもって最初から勢いをつけ、スピードを上げて押していくとそのまま一人で走り出したのです。

二輪はゆっくりよりも早く走った方が早くバランスとれますから。

私には不安や迷いが無くて、本人も早く乗りたい気持ちが強いから、
「よし、いける!」
て感じで、呼吸がぴったりでした。


みんな大喜び!!
めちゃくちゃ喜びまくっていました。



保育園であまり自信のなかった長男は、2つのクラス全員の中で一番先にコマ無し自転車に乗れて思いっきり自信ができたのです。

一番仲の良い友達も刺激をうけてすぐにコマを外して、毎日保育園から帰ると二人一緒に自転車で住宅内を走り回って遊んでいました。


 
 
他に思い出深いのは、室内用のジャングルジムを買って大きな出窓のあるリビングで父親と楽しく組み立てました。

長男はめちゃくちゃ喜んで、リビングは毎日遊びまくるジャングルジ厶で占領されていました。

室内ジャングルジムの実際の色は赤です。


普段は私の生活困難ストレスでしたから長男とのふれあいをもっと増やせるように、毎晩眠る前に布団に添い寝をしながら絵本を3冊くらい読み聞かせを始めました。


長男はめちゃくちゃ嬉しそうに毎晩の絵本を楽しんでいました。

絵本が終わってトントンしながらねんねんころりの子守唄を歌うと、
「おこ〜ろーり〜よー」
と寝ないで一緒に歌ったりしていました。
 

絵本読み聞かせは小学校へ入学する頃まで毎晩続けました。書店に出向いては色々な絵本を買ってきて、私が絵本選びを楽しんでいたと思います。
我が家に図書館ができるくらいステキな絵本がズラーリてんこもりになりました。


 

これが息子と一番ゆったりできる母と子の時間でした。 

絵本のおかげと本人の能力で、大人になると文章力がかなり高くなっていました。

そんな保育所時代の思い出です。


 
その新興住宅地は前夫好みで、私には波動が暗くて重い感じのする場所でしたから、毎年害虫が家中に大量発生したり物理的条件も最悪になっていき、更に強迫神経症は悪化してとうとう生活に限界がきてしまいました。

新築した家の外壁のカラーは白っぽいものを選んでいたのに、建築中の施工業者が茶色に間違えて暗いイメージの外壁になってしまい、ハウスメーカーも前夫と波長の合う担当者で内容は良くなかったし、私は自分の好む明るいハウスメーカーの選択ができずに妥協してしまったのです。

まだまだ自分軸が弱かった時期で、私には違和感があり、何となく重くて暗いような古いものが残っている感じでしたからエンパス気質には過酷な場所だったのです。

スピリチュアル的には桜井市の大神神社(おおみねじんじゃ)の氏子にあたる場所で、開いていないその場所の浄化だったのかもしれません。 

  
そうして3年間の長男との保育園時代を過ごした後、

最初の奈良の持ち家を売りに出して、前夫の通勤は遠くなるけど2軒目の名張市新築戸建に引っ越せたのは、両親のサポートのおかげでした。

関西で最も閉鎖的なエネルギーが潜んでいた奈良県から脱出しました。

(私に引っ越しが多いのはグリッドワーカー的なものもあるのだと思います)
 

奈良県を出てお隣の三重県名張市へ移ったのは、光の道へと導かれていった流れだったのです。


桜井市の新興住宅地よりは明るい感じで波動も良い感じがしました。


ステキなデザインのステキなおウチが出来上がりました。

何もかも明るくて内装もめちゃオシャレでした。


当時の夫は奈良での1軒目の時とは違って、新しい玄関先の小さな庭を大切にして庭づくりにはりきっていました。
新築完成間近に二人でとってもステキな幸福の木を見つけました。
我が家の小さな庭にピッタリの幸せを運ぶ木が新しい暮らしを見守るように玄関の庭に来てくれました。

他にも優しい小さめの木やかわいい花がミニスペースにステキに並びました。


小さな我が家のミニガーデンに自分達の手ではじめての花壇をつくりました。


彼は長男と二人でかわいいパンジーをたくさん植えました。


あったか~い想いがたくさん込められた小さな庭ができて、我が家に来てくれた植物さん達は生き生きとしてみんな嬉しそうでした。

特にパンジーは気持ちを込めて植えたのでキラキラして、そしてパワフルに並んでいました。
一つ一つが胸をはって誇らしげに咲いてくれました。

強迫神経症(潔癖症)の為に無理をして建ってくれた2軒目の家は、幸せを予感するスタートでした。


そうして、その後生命の実相(生長の家)へと導かれていったのです。 

生命の実相は、前夫と二人で読むようにと義理姉が送ってくれて、
全く無関心だった彼は、ほんまもんの中身を感じて本気で魂の底から読みはじめました。
生命の実相の本は、私よりも彼に必要だったみたいでした。
彼は、生命の実相しか読まなかったけど、たぶん全巻を読んだと思います。
魂の底から読んでいる感じだと言っていました。

ですが、
私は真っ直ぐ本質の道を自分と向き合い進むスピードは早く、元々夫婦としては横に並べる人ではなかったから、結果的に彼は、自分と向き合いきれず更に私の足を引っ張るような関わりが強くなっていき、最終的に子ども達から離婚の後押しが来たのです。 

生命の実相が届いて、ステキなおウチで一緒に光の道を歩いていくはずだった次のステージの扉は開いていたと思いますが、元々対等に並べない関係性だからさらに私とのギャップは多大になっていきました。
一緒には歩けない人であることだけは確かでした。

彼のアダルトチルドレン(潜在的幼児性)は強烈でしたから、私のエンパス気質と他人軸の部分に甘えこまれてしまうことが多く 母性に最も悪影響を及ぼす関わりになるので、彼の支配的な性質と幼児性のアンバランスに当時のまだ若かった私はふりまわされてきたのです。

彼は4人きょうだいの末っ子で、私は二人姉妹の長女ですから、それだけでも極端に差がありました。

 
私にとって自分の本質への扉が開いたら、その状態から抜け出していくサポートも協力でした。

要するに土の時代(昭和)の日本人夫婦カルマを象徴するような関係性でしたから、集合意識の浄化シナリオだったのだと思います。

彼は、そのアホ役をやってくれた人だったと生長の家のソウルメイトが言っていました。


幸福の木が来てくれて、パンジーが咲き誇ってくれた家では、生命の実相に繋がったことで奇跡的に翌年二人目の赤ちゃん女の子が生まれました。

しばらくは長男&長女の幸せな日々が続きましたが、強迫神経症は後に転機が訪れるまでは良くならない状態でした。
むしろ表面的には悪化するばかりでしたが、水面下ではちゃんと良い方へ導かれていたのです。

前夫は、プロセスよりも結果しかみない物質主義3次元バリバリでしたから、生命の実相を読んでもそれを現実に繋げて自分と向き合うことも、
人と繫がって客観的に自分を見つめることも本当の意味であまりできなかったみたいでした。

生命の実相を読んだけど、それ以上は自ら求めて知ることも進むこともしなかったので、そういう具体的なところもあまりわからなかったのかもしれないし、わかろうともしなかったと思います。

生命の実相のような光にふれると、好転反応同様に一見惡くなるように見える事が起きたりするから、そういう目先にひっかからないでまだ現れていない実相(本質)を確信して進む、ということは、彼には全くできなかったし、現実としてわからなかったみたいでした。

わかったようなことを口では言ったりするけど、自分の問題と本気で向き合わないで結局は相手(私)ばかりを問題視し続けたのだと思います。

最悪は最高の扉が開いたチャンス、という現実的な基本を理解する能力がなかったのか、頭で文字の中でしか読めなかったのか、私には不思議なくらい疑問でした。

本は読んでも、彼は現実としては何もわからなかったのかもしれません。
コミュニケーションが不可能な人だったし、私には彼が何処まで理解したのかあまりわかりませんでした。
むしろ、言葉ではわかったようなことを言いながら、口先ばかりで問題をこちらのせいにしていましたから、何にもわかっていないのと同じでした。 

結局、ステキなおウチはわずか3年足らずで離婚と共にまた手放すことになりましたが、良いお客様に買っていただくことができて家も大切にしてくれて安心でした。

離婚の年はパンジーが庭には咲いてなかったように思います。

後から思ったのですが、ほとんど両親が建ってくれた家だから、離婚しても、幸せを運んでくれた家を本当は売らなくても良かったような気がします・・・

幸福の木やパンジーは今でも私の瞼に焼きついています。


この記事を書いていると、長男と一緒に嬉しそうにミニ花壇を作ってパンジーを植えていた彼の温かいハートの記憶を思い出しました。
  
長い間遠ざかっていた記憶です。

この時期のことはもっと先にならないと書けないような気がしていましたが、今、このエンジェルズゲートのタイミングでした。


彼は幼児性と封建的支配の両極が同居する人で話し合いができない為に、
離婚後、金と権力を用いて私達母子関係を切り裂きぶち壊すような過ちを犯した行為を後々まで(死んでも)許せない現状でしたが・・
(実際に数年前に他界しました)

この記事を書きながら、以前羽ばたいた頃以来、前夫のこんな愛と光の一コマを思い出せました。

今ようやく再び、穏やかな気持ちで振り返れるようになったのかもしれません。 
 

私も彼も子どもたちも、いつもどんなときも、みんな幸せになりたくてそれぞれに一生懸命生きたんです。
 


昨年、ライオンズゲート中に起きたある生活トラブルの出来事が解決してからは根本的トラウマに深い潜在意識の変化が起き始めていました。

現在、最も苦手で嫌で嫌でたまらなかった身近にいる人は亡き前夫にそっくりでしたが、その出来事の結果前夫とのトラウマ潜在意識の根っこ部分が開放されて、現状の関係性は距離をとれるようになり随分楽になっています。

大元に潜んでいたトラウマの原因(一部)がクリアになったのだと思います。

前夫は、人生で一番嫌な人でした。

語りつくせない地球シナリオですが、簡単に言えば母がものすごーくめちゃくちゃ気に入っただけの人で、その時だけは母の勧める勢いが半端なく、私は自己主張NOが言い切れずに仕方なく親の為に結婚した呪縛結婚でしたから、中身は私の夫ではなくて母の息子になっただけの関係性でした。

そういう昨年の出来事のしばらく後に、
「最も苦手な人は、最も良き協力者になる」というメッセージを誰かのブログ記事で目にしました。

知ってはいたし、過去にはクリアした体験もあったけど、この相手だけはなかなか手放せないから無理ー!、て感じで色々努力をするのも疲れてやめていました。

ですが、クリアできたのです。
やはり、その結果は良い協力者になっている現状です。

この現在身近な人が前夫にそっくりだった部分は基本的にほとんど無くなりました。
私の潜在意識から無くなったので、現実に現れなくなったということです。

ハサミで切り取ったようにはいかないし、タイプ的に苦手は苦手ですが、どんどん引っかかりが小さくなって自然体になりつつあります。

起きた問題の現実では、自分軸に戻る対応をしっかりと実行して、現実対処の必要なことを相手に伝えながら、意識は自分と向き合い自分軸です。
この出来事は、過去に解決できてなかった課題の一つでした。
昔は、強迫神経症の為に私に対する前夫や周りの超誤解やド偏見に対して、最も近い身内の第三者である長男&長女の声が証人として絶対に必要な状態でしたが、
まだ中途半端に子どもだった長男&長女の主張協力が全く得られていなかったという課題でした。
今回は長男&長女も大人としてすべきことをしっかりと実行し、出来事の対処は子ども達の必要な全面サポートを得て、過去に成し得なかったそのテーマの課題は根本的に全部クリアになりました。 

過去には自分一人で背負うしかなく本人の主張だけでは解決しなかった大きな私達(家族)の前夫トラウマでした。

現実に対処し主張しながら、マイナス意識を手放していく…それがいつも自分らしい方法で、結果的に反応していた原因が潜在意識から消えました。

現在は良き協力者と言えるくらいにまで変化しています。


前夫の記憶にふれたので、長男との命の本質プロセスからはまた話がそれてしまいました。

今回は、ここで一旦終わって次回へ続きます。
 
お読みいただき
ありがとうございました。

 

     つづく





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