巻き込まれたくない他人の生活習慣病
このコンテンツは2020年の年末から2021年の春先まで受講したライティングの講座の課題です。ブログには掲載していましたが、現在そのブログは閉じてしまったのでこちらに再掲いたします。
バルブを開くと腕に巻かれたマンシェットから空気が抜け、水銀が勢いよく下がってくる。血圧を測り終えると、かかりつけの医師はカルテをチラッとみた。それからおもむろに口をひらいた。
「いまの血圧、上が190ですよ。目が回った時には、おそらく200超えていたと思いますよ。この間の検査結果も出ています。ほらここ。中性脂肪の数値。前回より上がっていますよね。BMIも35超えているし…… なかなか痩せないというより、最近また太ったでしょ? 煙草は? えっ、やめていないの!? つねづね言いますけど、このまま放っておくと大変なことになりますよ!」
診察室で厳しいことを矢継ぎ早にいわれる。それも仕方がないと私は、医師の言葉が頭の上を通りすぎるまで、うつむいて静かに待った。
高血圧、脂質異常そして肥満。さらにやめられない酒と煙草。定期健診のたびにダメな中年親父の見本のような数値を弾き出している。そんな私にまず煙草をやめましょうと、医師はいう。それから運動と食事。肥満を解消すると血圧も下がる。最後に脂質異常を治療という方針だ。
これがなかなか思うようにいかない。日々、営業目標に追われストレスフルな生活は、どうしても乱れる。深夜までの飲酒と食事。遅い帰宅時間。昨日もシャッターが降りた駅の入り口を眺め、タクシーを拾っての帰宅だ。
医師の話も一通り終わると、申し訳なさげな表情で顔を上げた。そして先程のことをあらためて思い返してみた。
「それじゃ、よろしくね」
「ありがとうございました」
深々と一礼をして私はクライアントの社屋を出た。
毎月のことだが、およそ5時間を要するデータ整理と打ち合わせを終えるとクタクタだ。早く社に戻って整理したデータを現場に送らなければならない。ボロ雑巾のように疲れ果てているが興奮状態だ。
「休憩が必要だな」
ひとり言をいいながら、スーツの内ポケットに手を入れてみる。ライターはある。しかし煙草がない。昼休みに最後の一本を吸い終わってから買うのを忘れていたのだ。クライアントに通りの向かいにあるコンビニでメンソールの煙草を買った。
路上での喫煙が違反であることは百も承知している。どうしても煙草を吸って疲れをおちつかせたい気持ちが勝っていた。
ガードレールに寄りかかり、煙草に火をつける。メンソールに包まれたニコチンとタールで肺が満たされると、垂直落下するアトラクションに乗ったように、高ぶる気分は落ち着いてきた。
「あれ? このアトラクションは回転したっけ?」
目の前の光景が一回転、二回転となんども回る。落下するアトラクションには乗った気分になったが、回転木馬に私は乗っていない。いやそもそも私はアトラクションに乗ってもいないし、遊園地にもいない。そして頭のなかでキーンと高い金属音がする。
「やばい。目が回っている」
以前、父の血圧が急に高くなり天井がグルグル回ったという話を母から聞いた。同じことが起きたのだ。持っていた煙草の火をかろうじて消すと、寄りかかっていたガードレールに腰をおろす。さらに襲ってくる気分の悪さにとうとううずくまってしまった。
目を閉じていると気分の悪さはじょじょに引いてきた。目を開けてみる。ダメだ! また気分が悪くなってくる。もうしばら休むと悪い気分はようやく去っていった。なんとか駐車場までもどり、会社へ電話をした。
「データを渡すのは明日でもいいかな?」
「えっ、またですか…… 先月も遅れましたけど……」
「ごめんね…… これから医者に行きたいんだ」
「大丈夫ですか? どこか悪いんですか?」
「大したことはないよ。申し訳ないけどよろしく頼むよ」
「わかりました。お大事にしてください」
そんな会話のあと、普段より慎重に車を運転してなんとか会社に辿り着いた。すぐに総務部の女性に残りの仕事を処理してもらうようにお願いをした。
「悪いけど、気分がすぐれないから早退させてもらうね」
「えー。大丈夫ですか?」
「まぁ、なんとか……」
「顔色、悪いですもんね」
「それで、申し訳ないけどこの資料を今日中にまとめてくれる?」
「えっ、私……ですか?」
「そう、それと部長が帰ってきたら早退したことも伝えてください。後で電話はしておきます」
「わかりました……」
彼女はいつものように明るい返事ではない。話をしていても腰が引けている。それでもこちらは体調がひどく悪い。ムリにお願いをして会社を後に病院へ急いだ。
あとで聞いた話だが、彼女はその日デートだった。定時に退社する気でいたのだが、私のムリなお願いで遅くなるのが嫌だったらしい。言葉の端々に醸し出してくる雰囲気はそのためだ。私の自己管理が怠っていたのでその女性には大変迷惑をかけた。
かかりつけの医者には常日頃から、健康維持と体調管理は自分のためであることに間違いはない。そして人のためであることも忘れてはいけないと注意されていた。これはキチンと守らなけばならないことをあらためて思い知らされた。