『自分を好きになりたい』と言う本を買いました。
今の私は自分を好きだし自分が自分であることに幸せを感じていますが
沢山の気づき(ついついそうしてしまってることや行動)がある漫画でした。
一般論的な言葉にもどれだけ自分を責めることに拍車をかけていたことか。
もちろんそう言った言葉をかけてくれたお気持ちが悪いと思ってはいません。
昨日もちらっとそんな話もかすりましたが、今言論の自由が危ぶまれてると感じてる。
表現する立場だけに限らず。
あらゆるところで一般論的な圧力で自分のことばや思いを素直に出せないことを目にします。
じゃあ逆に完璧な言葉、完璧な行動、完璧な作品ってあるのかな?
完璧に何も傷付けず生きてるイキモノってあるのかな?
それが駄目だとか正解だとかって線引きはどこにありますか?
と問いたい。
私は幼き頃随分そう言った曖昧な
"正しさ"に振り回されてきたと感じてる。
多数派が正しいとされる教育の場に。
そして今、テレビを見ていても
SNSを見ていても
正しさは、それぞれが思う中に微妙にズレたり時には相反したりしながらあるものでそんなに曖昧なものなのだから
そこに評価を求めていては自分の好きだとか嫌いだとか素直な感情を、見失うように思う。
表現に関しては一番
フォーカスするべきなのは
自分の内側から湧き出す思いで
それを他者に求めることは
アートではなくビジネスに近いのでは無いかな?と私は感じています。
そして
ビジネス化したアートと呼ばれるものは
アートのみならず
言論や表現の自由を統制しようとする危険性さえ感じています。
神様じゃないし、神様でも悪戯やミスをする。(試練かも知らんけど)
私は許すことこそ打ち勝つすべだと考えてる時期がありました。
冷静であること穏やかであることこそクールで望ましいと考えてる時期がありました。
今はイキモノだからこそ持つことができた
嬉しい、悲しい、腹が立つ、寂しい、好き、嫌い
は当たり前の表現なのにそれを押し殺したりする必要は無いと思います。
それを感じるものや出来事がそれぞれ違うという事が
イキモノそれぞれの『個性』であると私は思ってます。
今、
世界に起きていることで
考え方の違いが沢山起きてますが
自分の考えと
違うものと対立することを
良いとは思えません。
考え方が違う、知らなかったことを知るから新しい考えやアイデアが生まれるのだと私は思います。
すべてが
同じ考えで同じ思いを持つことの方が不可能に等しいし
考え方が違っても寄り添い仲間になることは出来ます。
今こそ
『違う』が大事な時代に来たんじゃないかな?と思います。
風の時代とかなんか聞きましたが、わたしはスピリチュアルとかあまりわかりませんが、
本当に風の時代なら
『違う』ことこそ
それぞれのパーソナリティだと考え
ねばならないのじゃないかな?と思います。
ずっと気付きから抱いてきたわたしの想いです。