男性の性犯罪者は鞭打ち。
私は男性。
恋愛対象は女性。
いわゆる普通の男の人。
だからこそ、男の性犯罪の意識の低さを実感している。
学生時代から社会人に至るまでの期間、何度か友達から「彼女の裸の写真があるけど見る?」と言われた。
私はそれらの誘いを拒否していた。
何かに巻き込まれたくないというのがひとつ。
もうひとつは、共犯者になりたくないから。
しかし、これはあくまでも私の姿勢の話。
男性に対する啓発みたいなことはしてこなかった。
いや、したくなかった。
何故なら、男性特有の「本当は興味ある癖に~」といったノリが発生して私の意見など単なる舞台装置になってしまうから。
私はそういう雰囲気にのまれるたびに歯噛みした。
だが、いつかはきっとわかってくれるとも思っていた。
が、結局は、これに対する対抗策を見つけられなかった。
どれほど考えても、どれほど書籍を読んでも。
そこまでして、言葉による対話を望んだのは「話せばわかる」と思っていたから。
これは、私の理念でもあった。
確かに、もっと直接的な方法はいくらでもある気がする。
「暴力=罰による教育」とかね。
でも、そんなことをしなくても良いはず。
話せばいつかはきっとわかる。
しかし、結果はもちろんのこと実行にすら移せていない事実。
そうして今日に至った。
そんな今日、私の理念が揺らいだ。
お昼休み、特に用事もないのにSNSをサーフィンしていた。
価値観の似ていると勝手に思っているフォロワーさんがこんな記事を共有していた。
私はこの記事を見たときに、日本人男性の女性に対するモノ扱いは変わらないんだなと思った。
それが残念だったが、鞭打ちの刑という言葉がそれ以上に頭の中に残った。
クリスチャンである私はどうしてもイエスのことを思い出してしまうが、これは現代の犯罪者に対する罰なのだ。
そして、不思議と、非常に効果的だろうと思った。
鞭打ちって刑の重さによって回数が決められるらしいけど、ほとんど意味がないらしい。
それに達する前に死んでしまうそうだ。
バキでマスター国松が言ってた。
まぁ、罰の内容は置いて置いて。
私は全人類には理性があると思っている、それによって対話が可能であるという理念を持ってるぐらいだ。
でも、この理念はあくまでもスローガン的なものであると言わざるを得ない。
現に、男友達の女性に対するモノ扱いを止められずにいるのだから。
つまり実態が伴ってないきれいな言葉。
それでもあきらめずに身の回りの連中に言っていたが、ここ最近の反フェミの言動の影響を受けている友達がたくさんいるという現実が私ののしかかる。
であれば、私の嫌いな暴力を使って言い聞かせるほかないのか?
私は暴力を使うことを拒否する。
しかし、暴力でしか分からない連中もいる。
この相克に対するアンサーとして例の記事が生まれた気がする。
そして、それに対するモノ扱いされてきたであろう女性たちの反応を見る限りアンサーは私が認めたくない「暴力=罰による教育」が正しいのかもしれない。
昼休みが終わったと同時に、私の理念が薄くなって消えかかっていた。