立ち止まらない、自分に正直であることをやめない、ありふれた地方に住む陶芸家の話
地方に暮らす人達は、ありふれた生活を送っている。
朝、車でありふれた職場に行く。
お昼には、ありふれたうどん屋さんで、ありふれた定食を食べる。
夕方になれば、車に乗り、ありふれた風景を眺めながら帰宅する。
しかし、それぞれに目を向ければ、決してありふれていない、特別な人生が見えてくる。
ある人は、生まれたばかりの赤ん坊に会うために帰宅するかもしれない。また、ある人は、家に帰ってもなかなか家の中に入れず、アパートの前の駐車場でスマホを眺めながら、次の日の朝を迎えるかもしれない。
ありふれた地方には、特別な人生がある。ありふれた地方に暮らす全ての人達には、特別な人生がある。
ありふれた地方で、陶芸にたどり着くまで
ろくに学校に行かず、田川の街をウロウロしていた不良の高校生は、どうにか高校を卒業し、建設会社に就職した。しかし、会社に馴染めず、農機具販売店に転職したのだが、その会社は倒産してしまった。
倒産してしまったものの、販売した農機具の不具合や操作方法の問い合わせが続いていたので、無給でそれらに対応していると、ある陶芸家から「窯元で働かないか」と誘いを受けた。
そこで陶芸を学び、数年後独立し、現在、田川郡糸田町にある窯元「無双窯」を営んでいる、長末修次さんは、ありふれた地方で、特別な人生を歩んでいる一人だ。
窯元「無双窯」は小さな山の麓にある。工房は自然に囲まれたとても美しい自然の中に建てられている。工房の中は、シンプルで洗練された印象を受けた。
しかし、床に目をやると畑で採れた野菜が新聞紙に包まれていたり、白いテーブルの上に回覧板みたいなファイルがあったり、椅子の上に旅行のチラシがあったり、雑多で生活感が溢れていた。
長末さんは、年に数回、陶芸作品を展覧会に出展している。かつて展覧会を観に行った時、美術館の中にいる長末さんは、陶芸家の先生の顔をしていた。
しかし、話しかけると、その辺にいる、おもしろいおいちゃんだった。「おお、来てくれたん?」と急においちゃんの笑顔になった。
長末さんは、掴みどころのない、おもしろい人だ。
無双窯の工房にお邪魔し、ありふれた地方に暮らす、長末さんの特別な人生について、お話を伺った。
じっとしていられなかった少年時代
ー 長末さんの少年時代からお聞きします。地元はここですか?
「うん、糸田。俺で四代目。長末家の四代目やね。糸田小学校、糸田中学校で、高校は飯塚。飯塚高校。」
ー どんな子供だったんですか?
「真面目ではなかったね。小学校、中学校は普通かな…小学校4年生くらいまではテレビとかないやん。家が兼業農家やって、豚も飼っちょったき、残飯取りとか、手伝ったりしよったかな。
小学校5年生くらいの時は『豆腐売り』とかしよったね。朝、4時くらいに起きて天ぷらさんに(売り物の)天ぷらを取りに行くわけ。あとは豆腐を三十丁くらい自転車に積んで『とうふー』とか言って売りよったね。
俺のテリトリーは松原やったんよ。炭住があった所。集合住宅やけ、すぐ売れるやん。その時に初めて働いたね。周りの友達も仕事しよったよ。何十円かしか利益はないんやけどね。
貧しいとかじゃなかったけど、なんでやろうね。
しなきゃいけなかった、じっとしておれんやったんか…土方にアルバイトとかにも行きよった。夏休みとか。小学六年生やったけど、中学生っち嘘ついてね。炭坑が終わった後の公害復旧とかで、土方の仕事がいっぱいあったき。炭坑時代は小学生低学年の頃やったきね。」
ー それじゃあ、炭坑時代も知ってるんですか?
「うん、知っとう知っとう。この家のすぐ裏に籾井炭坑があったし、炭坑はよく知っとうよ。事故もあったし。親が炭坑で働きよったら、風呂(共同浴場)の入浴券をもらえるんよ。
だき、よく風呂に行きよったけど、今考えたら、よくあんな所に入りよったっち思うよ。最初入る浴槽と仕上げに入る浴槽があって、最初に入る所で汚れを落として。
だから、お湯は真っ黒やったね。大きい小さいはあるけど、田川にはいっぱい炭坑があったやん。その炭住がある所には風呂(共同浴場)があったんよ。松原温泉の所もそうやね。自分たちは知らんやろうねー。」
おそろしいほどの縦社会だった高校生活の非行と善行
ー 長末さんは、噂でとても悪かったと聴いたのですが、いつの話なんですか?
「あのね、高校。高校が悪かったね。1年ダブって飯塚高校に行ったんよね。当時の飯塚高校ってね、まだ出来て十年も経ってなくて、一番悪い時。とにかくね…筑豊で一番悪かったかもしれん。
なんかね…とにかく一年生は奴隷、二年生は天皇陛下、三年生は神様っちいうような関係で、下の者は上に絶対に逆らえない。どこかのお店に入っとっても、後輩が通って来たら『失礼します!』とか言ってから通らないけないくらいの関係。
そんな学校やけん、当然悪いやつばっかりやん。それで1年ダブって学校に行くっちいうのは、プライドがあるわけなんよね。周りはみんな一つ下やろ。そこで言うこと聞くの絶対嫌やん。だき、いっぱい喧嘩せないけんやん。
でもね、その辺、悪知恵が働くきね、一番上と喧嘩すれば一回で済むわけ。一番下からやったら、何十回もせないけんやん。一番上と喧嘩すれば、負けても二番目やん。勝ったら一番目やん。」
ー じゃあ、永末さんは、一番上の番長みたいな感じだったんですか?
「いやいや、上には仲の良い人が沢山おったけんね。お陰様で、素晴らしい学校生活が送れましたよ。」
ー なんか、話を逸らされた気がする…笑
「いやいや、だけど、おかげで、色々グズグズいう人がおらんくなった訳やん。でもね、俺はね、あんまり悪いことはしきらんやったから、でも格好(見た目)は悪いけどね。
だけど、飯塚から糸田に帰って来たら、ボタンも全部とめて、普通の格好で帰って来よった。だから、近所ではメッチャクチャ良い子!でも、学校行くと悪い奴。オカシイよね。大体普通、逆やけどね。」
高校は飯塚だけど、田川で遊ぶ、何故?(飯塚は田川より2倍くらい都会なのに)
ー 高校卒業した後はどうしたのですか?
「高校卒業した後はね、モジュールハウスっちゅう箱型の家を作る建設会社に就職した。糸田にあったから近いけんっちことで就職したわけ。高校が建築科やったけんね。
最初、ライン作業やったんよ。床が流れてくるやつ。壁のビス留め。壁に穴を開けて、ビスで留めて。それで思ったんよ、高校まで行ったのに、俺はなんしよんやかっち。
全然行ってないけど、一応建築科やん。穴開けてビスで止めるのが、建築科?ちがうやん。ものすごく嫌やったんよ。
目にゴミが入ったとか言って、いっつも医務室ばっかり行って、医務室のお姉ちゃんとものすごく仲良くなった。そんなんで上司から怒られて、結構真面目にしよったら、今度は他の人がサボるんよ。遅刻したりとか。それでいつもサボる奴がおって、全体責任で怒られるわけ。
何で、俺も怒られなん、サボりようのはあいつやんっち言ったら物凄く怒られるわけよ。要は、全体責任やけ、一人だけがサボりようとか言ったらいけんっち。
自分は一生懸命頑張りよって、サボりよう奴のせいで迷惑がかかっちょうのに、会社の上の人は「そいつだけのせいにするな」っち言うんよね。『それが社会』っち、『それが会社』っち。そんなんなら、もう辞めるっち。」
ー それで辞めたんですか?
「いや、今度は現場に異動になってね、全国各地でモデルルームを作ってまわったんよ。福岡、広島、岡山。『次は滋賀県に半年行ってくれ』っち『次は沖縄に行ってくれ』っち。地元で働きたいっち理由で入ったんに、そんなんやったら辞めるっち。
その時から、一人で出来る仕事が良いねっち思いよった。それで辞めてね、東京に行ったんよ。友達と三人で行ったんよね。その時、三人合わせてお金が5〜60万あったんよ。六本木で使ってしもた。
二度と東京とか来ることないねっち、六本木のクラブとか二度と行けんよねっち、友達と話しよってね。それで三日間通ったんちゃ。クラブに。」
ー それがいくつくらいですか?
「二十歳。それで、それから十ヶ月くらい配達屋でバイトしてこっちに帰ってきてね、昼間コンクリート会社で行きながら、夜はスナックでアルバイトしよったね。それが半年くらいあったね。
それで『あの子真面目やき』っち農機具屋さんに引き抜いてもらったんよ。クボタの代理店。高校時代のバイトは車の修理工と洋服屋やったき、農機具の修理とかは出来たんよ。
でも、すぐ倒産したちゃ…でも親父には二十歳になって就いた仕事は辞めんき、それまでは色々と自由にさせてくれっち約束しちょったし、倒産してから二ヶ月くらいはそこにおったね。
責任があるなっち思って自分が売った農機の修理とか、試運転とかしよった。
そして、会社の債権者の一人に焼き物屋さんがおって『お前真面目やき、うちで働かんか』っち声かけてくれて、それから焼き物屋になったんよ。そこで育ててもらった。だき、俺は二十歳になってから就いた職を辞めてないんよ。親父との約束は守ったんよね。
アメリカでの個展で焼き物屋から、陶芸家の先生に
ー それから独立したんですか?
「最初は川崎町でね、お店を出して、上野焼のようなことをずっとしよって、全く売れんでからね。友達とか後輩とかに飲みに誘われても、お金がないから、自分で焼いたお茶碗を持って飲みに行きよった。この茶碗をやるので飲ませて下さいっち。それで、三、四年してからようやく売れ出してね。
寝る暇が無いくらい売れよった。それでも飲みに行きよったね。
それで、四十歳で厄年の時にアメリカに住んでた同級生が帰ってきとって、『焼き物を教えて』っち言われたき、教えたんやけど、その時に、アメリカで一回個展がしたいねっち話をしたら『本当に?』っち聞いてきて。
お互い厄年やけど、それは日本の話で、アメリカに行ったら厄も関係ないやろっち。そんな話をして、その同級生がアメリカに帰ってすぐに連絡があって、『こないだの個展の話は本当よね?』っち電話してきて、出来ればねっち答えたら『もう決まったよ』っち。日にちまで全部決まっとって。
それからバタバタ作って、ロサンゼルスのリトル東京(日本人街)で個展をしたんよ。それから十年間、毎年アメリカで個展をしたね。大体、二日間くらいで完売してね。売物がないき向こうの陶芸教室とかで、作らせてもらったりしたね。そしたら、いつの間にか、焼き物の先生になっちょった。」
ー 長末さん英語も出来るんですか?
「いや、俺は一切英語は喋れん。あんまり知らん人と喋らんやん。東京に行っても友達としか喋らんやろ?アメリカで買い物しても、レジで数字で表示が出るき、その分を払えばいいやん。そんなこんなで、今の場所に窯を持って現在に至るやね」
ー ありがとうございました。では、これで最後なんですが、筑豊は山に囲まれています。炭坑時代にはボタ山が沢山ありました。なので、取材した方に必ず聞く質問を決めています。あなたにとって山とはなんですか?
「俺にとっての山ですか?なんやろう…絶対に越えられない山はないし、なんでかって言ったら壁じゃないやん。壁は登れんけどね。」
(2013年9月に発行「ネゴトヤ新聞vol.1」より)
取材:炭坑夫の寝言
写真:長野聡史
編集/デザイン:佐土嶋 洋佳
イラスト:マルヤマ モモコ