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【小説】狐神シラハは日常を愛でる #4

下記小説の続き、シリーズ化します。(不定期更新)
#1【小説】狐神シラハはChatGPTを使う【短編】
#2【小説】狐神シラハは新年の安寧を願う【短編】
#3-1【小説】狐神シラハはVtuberになる【前編】
#3-2【小説】狐神シラハはVtuberになる【後編】

  年が明け、ひと月ほどが過ぎた頃。暦の上ではもうすぐ節分——とはいえ、空気はまだ冬の香りを色濃く残している。
 神社の境内には、かすかな雪の名残が地面に薄く広がり、踏みしめるとザクザクと小さな音を立てて砕ける。日中は陽が差せば溶けかけるが、夜になると冷えこみが厳しく、再び凍ってしまう。そんな日がここしばらく繰り返されていた。

 ——1月の終わり。朝と呼ぶには少し日が高くなった頃、木々の梢(こずえ)に冷たい風が吹きわたる。神社の石段を、どこからか来た猫が一匹、ちょこんと駆け上がっていった。猫の足跡が雪にうっすら刻まれるが、それもすぐ風にさらわれ、跡形もなくなる。

 そんな静かな境内の奥、薄い雲の切れ間から微かな陽光が射しこむ社務所の戸が、キィ、と音を立てて開いた。
「おはようございまーす……」
 声を出したのは、高坂楓。この神社でバイトのような形で手伝っている二十代半ばの女性だ。SNSやAIを使った情報発信が得意で、いまどきの若者らしい行動力を持っている。

 雪を踏みつつやって来たせいで、ブーツの底には白い粉雪がうっすらとついていた。戸を開けると同時に、ふっと暖かな空気が流れ出てくる。「あれ……暖房つけっぱなし? それとも誰か来てるのかな」と楓は思わず首をかしげる。
 不審に思いながらも、「失礼します」と声をかけつつ中へ入る。普段なら、朝はまだ人がいないか、あるいは宮下さんが一人で雑務をしている程度のはずだ。

 ところが、そこには意外な人物が座っていた。巫女装束風の衣装に猫耳を揺らし、けれどどこか派手さを感じさせる華やかな姿。ネット上では“神系VTuber”として名の知れた、コマヒメである。
「ニャ? ああ、楓か。おはよー」
 こたつにすっぽり入ったまま、コマヒメが片手を挙げて挨拶する。足元には暖かな電気こたつの布団が広がり、その上にはポットや湯呑み、そして何やら大きな段ボール箱が見える。

「コマヒメさん……どうしてここに? ていうか、シラハさんは……?」
 楓は少し戸惑いつつ辺りを見回すが、白銀の狐耳を持つ“狐神シラハ”の姿は見当たらない。
「シラハは朝からどこかへ出かけてるみたいだニャ。社務所の戸、鍵が開いてたから先に入らせてもらっただけ。ま、警備がザルな神社ってことだニャ」
 コマヒメが指先でこたつ布団をちょんちょんと叩く。楓は思わず苦笑いして首を傾げる。
「留守中に勝手に上がりこんで……大丈夫ですか? あとで怒られません?」
「ふふん、わたしは神様だから問題ないのニャ。それに、奉納品を持ってきたから、ちゃんとした用事があるのよ」

 言われてみれば、こたつの脇に箱が置かれている。そこからみかんが溢れんばかりに入っているのが見えた。鮮やかなオレンジ色で、見るからに美味しそうだ。
「……すごい量のみかんですね。冬らしいといえば冬らしい……」
「でしょ? これはわたしへの奉納品として届いたんだけど、こっちだけじゃ食べきれないからシラハに分けようと思ってさ。ここに持ってきたんだニャ」
「なるほど。コマヒメさん、やっぱり人気なんですねー。みかんをこんなに送ってくれる信者さんとかいるなんて」

 楓はコートを脱ぎ、鞄を棚に置く。寒さをしのいでこたつに潜りこむと、思わずほっと息をついた。朝は雪がちらついていたが、今は雲が薄くなって微かに日差しがある。それでも気温は低く、指先がかじかんでいる。
 こたつの上には既に何個か皮を剥いたみかんが並んでおり、コマヒメがパクパクと房を食べていた。湯気の立つポットから湯を注ぎ、湯呑みを二つほど用意してあるのも、彼女なりの気づかいなのだろう。

 「うちに届けられたからちゃんと味見したけど、当たりだニャ。甘みが強いし、ほどよい酸味もあってなかなかイケる。冬のこたつといえばみかん、ってやつ?」
 コマヒメがそう言いながら、みかんの皮を器用にむいて、ティッシュの上へ並べていく。その仕草がどこか器用で、見ているだけで微笑ましい。楓はそのみかんを一房もらい、嬉しそうに口に運んだ。
 「あ、宮下さんが出してくれたこたつですよね? 最近すっかり私も入り浸ってます。もう寒くて寒くて……」
 楓は思わず肩をすくめて、こたつ布団の中に足を突っ込む。暖かい空気にほっと息を漏らしつつ、ふと布団の端へ視線をやった。
 長く使い込まれた布団の縁は、少し毛羽立っているようだ。楓は何気なく手を伸ばして、軽く撫でてみる。すると、白っぽい繊維と何かが絡まり合っているのに気づいた。
 「……ん? これ、なんだろう……」
 よく見ると、そこには銀色の毛が何本かまとわりついていた。薄い光が当たってキラキラと光り、まるで金属糸のようにも見える。楓は不思議そうに指先でつまむと、そっと持ち上げる。
 「……うわ、銀色の毛……?」

「ニャ? 見せてみ……あー、シラハの尻尾の抜け毛じゃない?」
「尻尾、そんなに抜けるんですか。シラハさん、すごく綺麗な毛並みしてるのに」
「雑な狐だからね、結構抜け毛も多いのニャ」

 コマヒメがケタケタと笑うのを見て、楓も思わず吹き出しかける。とはいえ神様に対して「雑」呼ばわりするのも妙な光景だ。楓はこたつの木製天板の縁あたりにも何本か銀色の毛が絡んでいるのを見つける。天板の端が毛羽立っており、そこに引っ掛けて抜けたようだ。指先でそれらを集めると、ふわふわとした毛玉の塊ができあがった。

「わぁ……意外と綺麗。猫のおもちゃみたいな毛玉ボールになりました」
「ニャっ!? そんなもんじゃよろこばないニャ!」
「す、すみません」

 コマヒメはまた、みかんの箱から一つ取り出して皮を剥き始めた。皮を器用に剥いては、一房ずつこたつの上に並べる姿は、見ていて飽きない愛らしさがある。
「そういえば、猫って柑橘系の香りを嫌がりますよね」
「猫“なら”の、わたしは神様だからニャ」

 楓はそれをききつつも、心配なので少し調べてみた。

「ふーん、まあ、神様ですし、大丈夫でしょう。シラハさんも危なそうな食品、よく食べていますし……」
「なんの話ニャ」

「ところで、聞きましたよ。コマヒメさんって狛犬なんですよね。初めは猫神かと思ってましたけど」
 それを聞いたコマヒメは、ちょっとバツが悪そうに耳を伏せる。
「な、なんで知ってるニャ。シラハが喋ったのか?」
「いえ、ちょっと小耳に挟んだだけです。私としては、コマヒメさん=猫耳の神様だと思ってました。でも実際は狛犬だったんですね。犬と猫、全然違うような……」
「犬じゃなく狛犬。そこ間違えるなニャ。姿はこう見えて、由緒ある狛犬の血統よ」

 得意げに胸を張るコマヒメ。楓は心の中で吹き出しそうになりながらも、必死に真面目な表情を保っていた。
 それを察したのか、コマヒメがみかんの箱をトンと叩いて話題を変える。
「そうだ楓、みかんもっと食べる? 甘いよ」
「いただきます。……寒い日にこたつでみかんって、最高ですね」

 そう言いながらみかんを受け取った楓は、嬉しそうに皮を剥きはじめた。キュッと爪を入れると、柑橘の香りがほんのり漂う。目にしみるほどではないが、そのかすかな酸味に冬の風情を感じる。
 こたつの脚元では、やはり天板と布団のあいだで抜け毛がちょこちょこと絡まっているのが見える。楓はさっき作った毛玉ボールを指先でコロコロと転がし、「猫じゃなくて犬……じゃなく狛犬だけど、やっぱり反応するかな」とイタズラ心を起こす。そして指で軽く弾いて、コマヒメのほうへ投げてみた。銀色の毛玉ボールはゆっくりと、光を反射しながらコマヒメの並べるみかんの上に着地する。

「わっ、何ニャ!?」
「ご、ごめんなさい。つい……。毛玉ボール、好きかなと思って」
「好きなわけないでしょ! だいたい、みかんの上に毛がのったら食べられなくなるニャ!」

 コマヒメがむっとした表情を浮かべるところへ、廊下から足音が近づいてきた。軽やかな衣擦れの音、そして白銀の狐耳がちらりと見える。そう、“狐神シラハ”の帰還である。
「おお、コマヒメに楓……そこにあるのはわしの毛か? 何やら楽しそうにいじくっておるようだな」
「ち、違うニャ! こいつが投げてきただけで……」
「すみません、シラハさん。面白がって毛玉ボールを……決して悪意はないんです」

 楓がばつの悪そうな顔をして苦笑いしていると、シラハは少し呆れたようにため息をつく。
「まあよいが、あまり粗末に扱うのはやめてくれよ。そんなに抜け落ちていたか、わし……」
「うん、こたつの天板がささくれてて、そこに絡まってたみたいです。明日やすりをかけるので、それまで気を付けてくださいね」
「ふむ、手間をかけるのう。すまぬ」

 そう言いつつ、シラハはコマヒメの後ろからみかんをひと房拝借して、パクリと口にする。甘酸っぱい果汁が口中に広がり、唇の端から少しだけ滴るのを指で拭いながら、ほうっと息をついた。
「これはうまいな。コマヒメへの奉納品とはいえ、わしもありがたくいただこう」
「好きなだけ食べればいいニャ。神といえど、冬は寒いし、みかんでビタミン補給しないとね」
「まったく、狛犬のくせに“こたつとみかん”とは……」

 シラハがクスクス笑うと、コマヒメは「うるさいニャ」とばかりに目をそらす。楓はそのやりとりを見て、思わず微笑ましい気持ちになる。
 そういえば、つい最近までシラハとコマヒメは、長らく険悪な関係だったらしい。神としての流儀の違いや、ささいないざこざが積み重なり、一触即発の事態に陥ったこともある。だが先日、VTuberコラボ配信をめぐって激しく衝突しながらも、結局はうまい具合に和解した形だ。
(案外、長いあいだ対立していたわりに、こうやってすっと元に戻るものなんだな……)
 楓は内心うらやましく思いながら、ふたたびみかんを口に運ぶ。あの時の大騒動を思えば嘘のように見えるが、きっとこの二人にしか分からない“絆”があるのかもしれない。

「それにしてもシラハのこの毛、何か活用できそうニャ。お金になりそうなアイデアはないかニャ、楓よ」
 コマヒメは、こたつの縁に置かれたふわふわの銀色の毛玉をつまみ上げ、不敵な笑みを浮かべる。まるで商売の種でも見つけたかのようだ。
「確かに、神様の毛って考えると、ありがたみがあるような……。お守りに混ぜるとか?」
 楓は真剣そうな口調で提案しつつも、どこか楽しそうに頬を緩める。実際、レアアイテム扱いになりそうだという想像が膨らんでいた。
「わしの毛を売り物にしたいなどと言い出すとは……」
 シラハは半ば呆れつつ、みかんをもう一房つまむ。

「冗談よ冗談。……でも、“神の抜け毛お守り”は案外ウケるかもニャ。レアだし」
 コマヒメは肩をすくめ、口を尖らせながらも、その瞳にはどこか興味が見え隠れしている。
「ほんとにそう思いますよ。SNSで宣伝すればまた話題になりそうですし」
 楓はスマホを取り出しかけ、どう発信すれば一番バズるかを考えるような顔をする。ふとシラハの視線に気づき、苦笑交じりにスマホを引っ込めた。

 それを見たシラハは、苦笑しながら首を振ると、こたつ布団に手のひらを広げる。
「……あまりそうやって話題になるのは本意ではないが、この前みたいにゴタゴタになるのは勘弁してほしいのう」
 そう言うと、彼女の眉間に一瞬しわが寄る。
「以前のコラボ配信、いろいろ大変でしたからね。ネットでも変に騒ぎになったし。でもすぐ収まったのは奇跡的でしたよ……」
 楓は思い出すように息をつき、茶をすすりながらシラハの表情をうかがう。

「まあ、そういう面ではコマヒメもいざこざの後始末をがんばってくれたんじゃ。意外と根は優しいところがある」
 シラハがちらりとコマヒメを見ると、彼女はみかんの房をぽいっと口に放り込んで視線を逸らす。
「誰が意外だってニャ……」
 そう呟くコマヒメは、少し拗ねたように口元を尖らせている。しかしその顔は、憎めない雰囲気がにじんでいた。

 コマヒメが口を尖らせるのを見て、三人は何とも言えない微笑を交わし合う。こたつの上で小さく湯気を立てるポットから、お茶を注いで湯呑みに口をつける。それだけで身体が芯から温まるような気がした。外はまた雪が舞い始めているかもしれない。それでも、こうして和気あいあいと過ごせる時間は、寒さを忘れるほどに心地よい。

「ところで、シラハさんって最近、VTuber配信してないですよね?」
 楓がふと思い出したように問いかけると、シラハは鼻先をひくりと動かして苦笑した。
「うむ……あまりやっておらん。コマヒメのように定期的に配信するのは性に合わぬ」
 そう言って視線を逸らすシラハに、コマヒメがあきれ顔で横やりを入れる。

「にゃっはっは、せっかくモデルもあるのに、もったいないニャ。わたしとコラボしてればもっと盛り上がるのに」
「ほら、やっぱりコマヒメさんも思いますよね。もったいないって」
 楓はうなずきながら、スマホを手に「配信スケジュール組んでみたら?」と言いたげに微笑む。
「わしだって、あのVTuber姿にまったく愛着がないわけではないが……どうにも落ち着かんのじゃ。わしは神社で人と直接会うほうが性に合っているのう」
 シラハは居心地悪そうに肩をすくめて、こたつ布団の上に置かれたみかんをつまむ。

「確かに、シラハさんはじっと画面に向かうより、参拝客を見守ってるほうが似合ってる気もしますね。でも不定期でもいいから、たまにやってほしいなぁ……」
 楓が残念そうに言うと、コマヒメが茶化すように笑った。
「そうニャ、わたしばっかり配信してると、また不仲説が主流になるニャ。ちょっとは顔出してくれないと」
「……まぁ、不定期にはやるつもりじゃ。先日も少しだけ配信してみたのだが、すぐに視聴者が減っていってのう……」
 シラハは少し気にしているらしく、しょんぼりと首を垂れる。すると楓がすかさずフォローを入れた。
「それはアーカイブの残し方とか、告知のタイミングとか色々要因があるんですよ。気が向いたらまた私が手伝いますから、また試してみましょう?」
「うむ。……ま、気が向いたらの話じゃがな」
 そう言いながらも、シラハの耳がわずかに揺れているのを、楓は見逃さなかった。コマヒメも「素直じゃない狐め」と言いたげに目を細めるが、そこに悪意はなさそうだ。

「まぁ、シラハの好きにすればいいニャ。でも“もったいない”ってのは本当よ? あんたの配信、結構評判いいんだから」
「ふふ、そう言ってもらえるのはありがたいが……わしはやっぱり、神社の空気を感じながらのほうが落ち着くのう」
 シラハはそう呟いて、軽く首を左右に回す。そこへ楓が「その分リアルの行事を充実させましょう!」と発破をかけ、コマヒメが「たまにはまた、わたしともコラボしてニャ」と肩を叩く。
 そんなほほ笑ましいやりとりがひと段落すると、三人の間には再びこたつの温かな空気が満ちる。楓が改めて湯を注ぎ、湯呑みから立ちのぼる湯気がほんのりと視界を霞ませる。

 * * *

「そういえばシラハさん、今後の神社イベントの案、読んでくれましたか? “コラボ企画”ってやつ」
 楓は思い出したようにノートを取り出し、めくり始める。そこには手書きでいくつかの催し案が記されている。
「お主が考えてくれたというやつか? まだ全部は目を通しておらんが、わしも手伝えるところは協力するぞ。具体的にどんなプランじゃ?」
「えっと、いくつか案はあるんですけど……。最近SNSで“神社カフェ”みたいに、拝殿の一角でお茶を楽しむサービスが人気らしくて。そこにシラハさんを模したAIのチャット相談コーナーも合わせれば面白いかな、と……」

 楓が提案の概要を語ると、シラハは真顔で頷き、コマヒメも一応興味を示している。
「神社でカフェか……わしらみたいな神を前面に出すなら、“狐神ラテ”とか“狛犬……いや、猫神クッキー”とか、そんな路線もありかもしれぬな」
「ニャ、猫神クッキー? わたしがモデルになるならロイヤリティもらうニャ」
「コマヒメさん……また商売っ気が出てますよ」

 三人で冗談を言い合いながら、いつの間にかこたつの上のみかんはすっかり減っていく。
 ——そうこうしているうちに日は早くも傾き始めた。冬の夕暮れは足が速く、空の色は淡い灰色から薄紫に変わり、境内の木々は長い影を落としている。
 楓はあまりの心地よさに「今日はこのままここに泊まりたい……」などと半分冗談めかして言いかけるが、仕事や家の用事もあってそうはいかない。

「そろそろ帰らなきゃ。みかん、ごちそうさまでした。あ、こたつのささくれは明日やすりをかけるので、気を付けて使っててくださいね」
「了解じゃ。わしが削ってもよいが、どうせならお主がやってくれるんだろ? 助かるよ」
「うん、任せてください。じゃあまた来ますね」

 こたつから抜け出した楓がコートを羽織ると、コマヒメがみかんをひとつ差し出してきた。
「持って帰れニャ。袋に詰めといたから、家で食べて」
「わ、ありがとうございます。助かります。冬はビタミン大事ですよね」

 楓は頭を下げ、荷物にみかんを入れていく。神社の戸を開けると、外の冷気が一気に流れこんだ。背筋が伸びるような澄んだ空気だが、手先がかじかむ。
「夜は冷えるから気をつけるニャ。転ばないようにな」
「はい。コマヒメさん、シラハさん、また! お疲れさまでした」

 楓は石段を下りながら何度か振り返り、神社の社務所の灯りを見上げる。雪解けと再凍結を繰り返す道は凹凸が多いので、念のため足元を気にしながら歩いた。帰り道の寒さも、どこか心が温かいからか、少しだけ和らいで感じられる。

 そんな楓の姿が境内から消えたあと、社務所に残ったのはシラハとコマヒメ。こたつの熱が心地よく、外は日が暮れて風が強まっているようだ。ポットからはシューという湯の沸騰音が微かに聞こえる。
「ふう……わしも少し疲れたのう。朝から外を歩き回ったし。やはりこの時期は足元が冷える」
 シラハがこたつに戻り、布団にくるまろうとする姿が妙に人間くさい。寒さは感じない、と振る舞いつつも、じつは少し痩せ我慢をしている。コマヒメはみかん箱をコンコンと叩き、使い終えた湯呑みをまとめながら、少し気まぐれな口調で問いかけた。

「ところで、楓って何者なんだろうニャ? SNSの仕事だけなの? この神社にもよく来てくれるし、私生活が見えないんだけど」
「……わしも詳しくは知らん。聞く機会を逸しての。今度聞いておくわ」
 そう言いながら、シラハは話題を打ち切るようにこたつ布団を整える。抜け毛の絡まっていた場所を眺め、「ほんと、ここは気をつけねば」とぼやく姿に、コマヒメはニヤリと口元をゆるめた。
「でもシラハ、あんた気づいてるでしょ? 楓の家系のことは」わずかな沈黙があたりを包む。
「……ああ。楓がわしに触れた時、ただの他人ではないことは気づいたのじゃ——因果なのか、業なのか……」

 シラハは言葉を飲み込み、少しのあいだ黙り込む。社務所の隙間風がひゅう、と鳴ってこたつ布団をわずかに揺らした。
「まぁ、あんたも複雑だろうニャ。けど、用心しといた方がいいかもしれないよ。何が起こるかわからないし」
「わしは特別用心などせん。楓は楓じゃ。それ以上でも以下でもない」

 シラハは小さく息を吐き、こたつ布団を引き寄せる。コマヒメはみかんの房を一つ摘んで口に放り込み、少し渋い顔をした。甘さにムラがあったのだろうか。
「しかしお主も、わしと長いこといがみ合っておったが、こうして戻ってくるあたり……何だかんだ言って情に厚いのだろう?」
「べ、別に情とかじゃないニャ。……ただ、わたしもあんたもこの辺で神様やっててさ、この程度の小競り合いで疎遠になるのも馬鹿馬鹿しいってだけ」
「ふふ、素直じゃないのう」

 そう言われてコマヒメは少し目をそらし、「うるさいニャ」とつぶやく。けれどその顔は、どこか安心しているようにも見えた。
 外からは相変わらず風の音が聞こえる。古い社務所なので、隙間風が入り込み、時折ひゅうっと冷たい空気が足元をかすめる。シラハが小さく身震いしていると、コマヒメがささくれ立った天板を指先でつつきながら声をかけた。

「そうだ、わたしはそろそろ戻るニャ。この山の神社は夜が冷えるし、泊まるほど図々しくないんでね」
「泊まっていけばいいではないか。寒い夜に外を出歩くのはお主も嫌じゃろう?」
「いや、わたしは狛犬だから平気ニャ」

 立ち上がったコマヒメが、衣装の裾をさっと払う。こたつの布団についた銀色の毛や細かなゴミを見て「ちゃんと楓がやすりかけるって言ってたし、彼女が掃除してくれるでしょう」とでも言うように、気にした様子はない。
「わしとしては、お主が時々来てくれるのも悪くない。何かあったら、また力を貸してくれよ」
「ま、気が向いたらニャ」

 コマヒメは振り返らずに障子戸を開ける。一瞬だけ冷たい風が吹き込んで社務所の照明を揺らした。
「それじゃね、シラハ。また食べられる奉納品だったら持って来るニャ」
「うむ、じゃあの」

 パタン、と戸が閉まり、ほどなくして足音も遠ざかっていく。シラハは少し寂しげに戸の方を見つめたあと、ふうっとこたつに深く身を沈めた。
 こたつの中はポカポカしているが、夜が近づくにつれ、室内の空気はじわじわと冷え始める。蛍光灯の明かりが辺りを照らしているが、窓の外はもう夕闇が迫っていた。灰色の雲が厚く広がり、夜半には雪か雨が降りそうな気配だ。

「しかし、こうして日常を過ごすのも悪くないものよ。昔のわしなら、神が人間のこたつに浸かるなど思いもしなかったが……」
 思い返すのは、過去に抱えた苦い経験。しかし今となっては遠い昔のこと。あの頃は何もできなかった悔しさもあったが、今はこうして神として暮らし、人々と関わり合っている。AIやSNS、VTuberといった新しい技術に囲まれる世の中になっても、人の願いは絶えずこの地に届き、シラハは土着の神としてそれを見守り続けてきた。
 最近はコマヒメとのいざこざも落ち着き、さらに楓という現代的な存在の力もあって、この神社に少しずつ賑わいが戻りつつある。もしかすると、それが昔抱えた後悔を乗り越える手がかりになるかもしれない。そんな期待を胸に、シラハはこたつの温もりを感じながら小さく息をついた。

 窓の外には木々が暗いシルエットを作り、その向こうには小さな社殿が鎮座している。賽銭箱の前には誰もいないが、いつかまた参拝客が足を運んでくれるだろう。今は閑散としていても、春になれば雪が溶け、境内には新芽が顔を出すはず。
 こたつのコードを抜いて、ストーブも消そうと腰を上げたそのとき、シラハはふと天井を見上げる。山の神社とはいえ、梁(はり)にはうっすら電気の光が反射し、冬の午後とはまた違う夜の静謐(せいひつ)な気配をまとっていた。

「神と狛犬と人間が、こたつを囲んでみかんを食べる日常……。なかなか面白い世の中になったものよ」
 少しだけ笑みを浮かべて、こたつの布団を整える。明日になれば楓が来て、やすりをかけてくれるだろう。コマヒメも、あるいはまたフラリと立ち寄るかもしれない。すっかり元の鞘に納まったような関係だが、これからも時々いがみ合い、そしてまた笑いあうのだろう。

 * * *

 いつの間にか日が落ちて、窓の外はほとんど真っ暗だ。ちらほらと雪が舞っているのか、ガラス越しに白いものが横切るのが見える。こうして過ぎていく穏やかな一日が、シラハにとってはかけがえのない“日常”だ。古い記憶はそのまま残っていても、今を生きる人々と繋がることで、心が少しずつほどけていくような気がする。

「さて、今日はもう閉めるかの……。夜が深くなるほど寒くなるし、明日はまた忙しいやもしれぬ」
 そう呟きながら、シラハは社務所の鍵を手に取る。電気を落とすと、一気に部屋が薄暗くなり、ストーブの安全装置が放つ赤いランプだけが控えめに光を放つ。
 戸を開ければ、外には月明かりをさえぎる雲が垂れこめている。雪がまだ積もりそうな気配があり、じきに境内も白く覆われるかもしれない。

 ひゅう、と木枯らしが吹きつけ、社殿の周辺に舞い落ちた枯れ葉がかさかさと音を立てる。シラハは寒そうに肩をすくめながらも、わずかに微笑んだ。
「今年の冬も、もうひと踏ん張りといったところか……」

 そうして静かに社務所の戸を閉める。鍵をかけると、カシャンと金属の鳴る音が澄んだ空気に溶けこんだ。まるで、神社の日常を守る結界が完成したかのような感覚を、シラハは覚える。
 やがて、境内にはすっかり夜の帳が降りてくる。拝殿の灯籠(とうろう)には淡い電灯が灯り、足元をかすかに照らす。シラハは凍った地面に足を取られないように気をつけながら、社殿の回廊へ向かって歩を進めた。
「わしは雑な狐か……。まあ、そうかもしれんな」

 口元に小さな笑みを浮かべながら、彼女は闇へと溶けこんでいく。神社を守り、人々を見守り、そして時々はこたつの中でみかんを味わう——そんな何気ない日常こそが、いまのシラハにとっては大切な宝物なのだ。
 遠くから、町の方角で車の音がかすかに聞こえる。楓もいまごろ、バスか電車を乗り継いで家へ帰る最中だろうか。あるいはコンビニへ寄り道しているかもしれない。

 神と狛犬と人間が、同じこたつを囲む奇妙な光景。昔の神話からすれば信じられないことかもしれないが、時代が進み、SNSやAIが発達した現代では、そういう“あいまいな境界”がむしろ自然なのだろう。
 ——夜空には雲が立ち込め、星の姿はほとんど見えない。けれど、その雲の上には月が浮かび、星々が瞬いている。やがて冬が過ぎ、厳しい寒さを乗り越えれば、春の光が境内を照らすだろう。

 狐耳を持つ神様は、こたつの残り香がまだ漂う社務所をあとにして、闇に包まれる境内の向こうへとゆっくり歩を進めた。視線の先には拝殿があり、その奥には神としての居場所がある。日常を愛でながら、いつかまた困難や騒動が訪れても——きっと、こうして笑って迎え撃つのだろう。

 冬の風が吹き抜けるなか、シラハの抜け毛が一筋、宙を舞った。それは月の見えぬ夜空へすっと溶け込んで消え、まるでどこか遠い昔の記憶を運んでいくようにも見える。
 1月の終わり、長い冬の終盤。神と人と狛犬がゆるやかに共存する神社には、小さな笑い声と、こたつのぬくもりと、みかんの香りがまだ仄かに残っている。


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