今回は、中島歌子について書いてみたいと思います。前回の和田重雄と併せて『春琴抄』との関連が見えてきます。
和田重雄が病床から樋口則義となつ宛に出した手紙が引用されており、その最後は、
和田重雄拝
樋口様
お夏様
となっています。
和田重雄から中島歌子へ
和田重雄から中島歌子への流れについて、一葉日記から次のような引用があります。
「我が歌子と呼ぶは下田の事ならず、中島とて家は小石川なり、和歌は景樹がおもかげをしたひ、書は千蔭が流れをくめり、おなじ歌子といふめれど、下田は小川のながれにして、中島は泉のもとなるべし、」というところが印象に残ります。
確かに当時「歌子」といえばそれは「下田では」(下田歌子のこと)と言われますよね。
小石川ということで徳川慶喜家との繋がりも考えられます。
また、一葉が中島歌子の「萩乃舎」に入塾したのが明治十九年八月二十日。谷崎が生まれた1か月後ということがわかります。
中島歌子の来歴と旅宿池田屋
ここから中島歌子の「萩乃舎」についてかなりの頁数が割かれます。
中島歌子は弘化元年十二月十四日に、亡父の故郷、武州入間郡森戸村で出生し、少女期までの歌子の経歴は、鈴木孝次郎口述の「歌子伝」(明治二十五年四月二十五日読売新聞掲載)から次のように引用されています。
また、その後のことについて小石川牛天神境内の歌子碑撰文(撰文ならびに書は三宅花圃の父田辺太一)から次のように引用されています(原文は漢文)。
一方、馬場胡蝶は「樋口一葉女史について」で次のように書いています。
さらに、これも風聞だろうがと、次のように続きます。
見事なまでにこれまでに見てきた谷崎家周辺の人脈です。
さらに実家の池田屋についても資料を基に詳しく書かれ、こうした状態で、池田屋は歌子の兄の加藤利右衛門が家を再建築し(池田屋という名目のみで実際は廃業したかもしれぬ)、妹の歌子はそのわきにささやかな手跡指南の家塾を開いたのが萩乃舎の出発だったと考えられ、この時分の事情を旧小石川区役所の除籍簿で求めると、と次のように記載されていると書かれます。
さらに、明治十一年に出版された区分町鑑「東京地主案内」の「小石川水道町」の部から次のように引用され、池田屋の利右衛門の地所よりも中島トセの地所の方が三十三坪大きいことから、庇を貸して母屋を取られたというべきか、池田屋が衰える半面に歌子の塾が勢いに乗り始めていたのであろう。初めは手跡指南の塾として開業したが、世情が落ちついて、和歌が上流婦女の教養として流行するにつれ、歌子も書塾から歌塾へと看板を換えていったのである。と続いています。
師匠加藤千浪(号・萩園)の死の当日、名前を受け継ぎ手跡指南として萩乃舎開業
師匠の加藤千浪は陸奥の人で、江戸に出て村田春海の門人岸本由豆流について歌と書を学び、号を萩園と称しました。この師匠の死に際して名称を中島とせが相続して、師の雅号をそのまま歌塾の名「萩乃舎」にし、併せて「とせ」を「うた」と改名したものに違いないと著者は次のように推定しています。
加藤千浪は加藤千蔭の流れを汲む桂園派であり、その歌風は宮中和歌の主流ともなったから、それにより中島歌子の萩乃舎も御歌所歌人の後援をうけるに至ったことに続き、『小中村清矩日記』に登場する人物の名前がずらりと並んでいくことになります。山本秋広著『維新前夜の水戸藩』には林忠左衛門と中島歌子が取り上げられており、若き日の佐佐木信綱も紺絣姿で教わりに来たことが書かれています。これで完全に繋がりました。興味深いことに、著者は新宮市生まれなのですね! そして萩乃舎は上流婦人たちのサロン的空気を醸し、逐次的に舎屋を建て増していった模様に続き、歌子の人となりにかんばしからぬ噂もささやかれて、門人の中にも不信が生まれた様子が『一葉日記』から引用されています。
萩乃舎の繁盛とともに兄との仲も怪しくなった様子が『一葉日記』に書かれます。
春琴も魚鳥を好み、とはいえ独身であればいくら贅沢といっても限度があり美衣美食を恣にしてもたかが知れているがと書かれていますね。
この後歌子は後継者を得るために次々に養子を迎えますがうまくいかず、ついに亡くなるまでに後継者が決まることはありませんでした。