河上利治論② 年表からみる足跡
はじめに
今回は河上利治氏の生涯を年表形式で見ていく。
現段階で分かっている範囲で作成しているので、不明な部分も多い。
また今後の研究次第で内容は変わっていくものと考えている。
作成にあたっては、
①河上利治「龍洞雑記」(『民族公論』各号)
②木俣秋水「河上利治論」(『現代人』第3巻1号 現代人協会 1950)
③河上利治『龍洞歌集』(風日社 1965)
④『アサヒグラフ』(朝日新聞社 1954.10.14号)
⑤堀幸雄『右翼辞典』(三嶺書房 1991)
⑥『大衆人事録 第十八版(西日本編)』(帝国秘密探偵社 1955)
以上を参考にした。
適宜引用箇所に番号を記載している。
河上利治氏の年譜
明治40年(1907)
1月29日
父河上彦太郎、母おなじの長男として ※③
熊本県熊本市新屋敷町傘四番町にて誕生 ※②
大正9年(1920)
尋常小学校卒業後、京都へ
同年、旧制京都中学へ入学 ※②
大正14年(1925)
立命館大学専門部入学 ※②
その後中退(年月日不明)※③
大正14年(1925)〜昭和5年(1930)ごろ
東満、北満地域を流浪 ※③
このころ陽明学者の高瀬武次郎、キリスト教伝道者の海老名弾正、金森通倫、経済学者の河上肇といった人物のもとに足を運ぶ (23歳ごろまで)※①
昭和5年(1930)
内田良平の門下となる ※③
昭和7年(1932)
大日本生産党に参加 ※⑤
昭和8年(1933)ごろか
木俣秋水の斡旋により京華日報社に勤める ※②
(年月日不明)
昭和12年(1937)
大日本生産党本部総務、全国青年隊長 ※⑥
昭和14年(1939)ごろ
ある新聞社の軍事記者として中支を中心に活動
後、特務機関にて働く ※③
〈戦時中〉
伏見に大道塾、深草義塾などを開き、生産党の中堅青年の育成を行う ※②⑤
京都九条に朝鮮語教育の塾を設置し3年に渡り運営
朝鮮人子女に対し語学教育を行う ※①
融和愛国連盟を組織し、融和運動に取り組む ※⑤
昭和17年(1942)
軍機保護法違反に問われ、国事犯として巣鴨に投獄 ※③
昭和20年(1945)
応召 海軍二等衛生兵として佐世保海軍病院に配属
同年、肺炎のため諫早海軍病院に転送
当地で終戦を迎える ※①
昭和21年(1946)
1月4日、C級戦犯にて追放
同月10日、京都伏見において米CICにより捕らわれる(門下であり義弟藤岡次郎とともに)
拘禁中、発疹チブスを発症したため釈放 ※③
〈追放解除までの活動〉
桃山乃木神社において副宮司を務める ※①
京都市内において柔道、拳闘、空手の各道場を設け青年を育成 ※②
京都南座を借り切り、柔道対拳闘の異種試合を行う
戦後武道禁止時代に公に柔道の試合を行った嚆矢となる ※①
昭和27年(1952)
追放解除
5月2日、対共産党闘争宣言を行う(円山公園音楽堂において)
河上利治追放解除記念大会 ※①
同月、赤化防止団を結成
井上日召、大川周明、本間憲一郎、三上卓、佐郷屋嘉昭各氏を招き集会を行う ※④
昭和28年(1953)
12月、大山郁夫歓迎反対闘争を行う ※⑥
この前後、赤化防止団として京都府下全域で対共産党闘争を行う
例)綾部における、対朝鮮人デモ闘争
丹波中上林村における、米供出反対運動に対する闘争などが挙げられる ※①
昭和29年(1954)
6月、大日本生産党再建 第3代党首となる ※③
7月、鈴木善一氏とともに台湾に渡る
蒋介石、閻錫山、何応欽、雷辰、張群各氏と会談 ※①
(民の立場よりアジア諸問題の解決を図るため)
昭和36年(1961)
吉田益三氏、影山正治氏と黒龍倶楽部を結成 ※⑤
昭和40年(1965)
『龍洞歌集』出版 ※③
昭和41年(1966)
11月13日、死去 ※⑤