芸術的思索を呼び起こす実験的耽美映画『ざくろの色』
セルゲイ・パラジャーノフ『ざくろの色』
総合評価:4.7/5.0
作品詳細
監督、脚本はセルゲイ・パラジャーノフ。この映画は、18世紀のアルメニア人の詩人とトルバドゥールの人生を詩的に描いたものです。ーwikiー
本作は暗喩、比喩、儀式の積み重ねで物語が進行してゆく。
殆ど台詞が無く、人間に表情が無い。感情表現はモチーフを操る事で示し、モチーフを操る事でそれを受け取る。
登場する人々は“表現の媒体”でしかなく、そこには人間性が皆無であった。
構図は平面的で、役者は動きをこちら側(画面越しの私達)に見せしめる。その光景は、絵画と演劇を折衷させた表現に映った。
シーンは断片的な絵画のように連続してゆき、中には目を見張る美しさを纏ったショットも少なくはない。しかし、僕は映画においてそのような美的感覚には賛同しかねる。美しければそれで良いという耽美的な表現は、映画というメディアにとって、あまりに贅沢過ぎるというか、十分でないというか、言葉に起こすには難しいが、とにかく、そうじゃない!と強く拒絶してしまう自分がいた。パラジャーノフ監督が奇才だと称される所以はこの特異性にあるのだろう。
映画は演劇かドキュメンタリーかと問われれば、確実にドキュメンタリーの側にあるべきだと考える。映画の真価は、人生の,生活の,営みの傍らに潜む美を視覚的ないし聴覚的に起こし、物語という儚い瞬間によって更に高みへと昇華される芸術表現だと考える。
この作品はその意識のもと鑑賞すると不充分に思えてならない。監督のパラジャーノフは本作を制作するにあたり、「これは詩人サヤト=ノヴァを描いたものではない。映画という手法を使った、彼の詩作品の想像的世界の表現である」と作中冒頭で述べている。
しかし、芸術表現の最上位を詩であると考える身からすれば、この行為は芸術の下位置換でしかないように思えた。
詩が纏う芸術性というのは、人間の五感では知覚できないイメージを、現実の情事から関連させて想像させる美的快楽であると考えるが、これを映像へと落とし込んでしまうことは、詩が纏う無限のイメージを幽閉してしまう行為に等しい。
この事から、本作の映画的価値を高く評価できないと感じた。
しかし、それでも僕はこの作品に上記のような評価をつけた。これは意見と矛盾しているように見えるが、実は映画的価値と異なる点に価値を感じたからだ。ここまで長々と感じた事を述べてきたが、振り返ると、映画とは何か、詩とは何かといった芸術に対する考え方を露わにさせられていたことに気づいた。本作はその意味で、思索的価値があると認めざるを得ない。
勿論、断片的ではあるものの、美しいと直感させる張りのあるショットの数々も評価しなければならない。それらのショットは、それぞれが独立した価値を孕んでいた。正に絵画である。
成る程、奇才であると称したくなる気持ちがわかった。僕の感じているこの感覚は、我儘で独りよがりな個人的見解かもしれない。しかし、それでもこの作品を特異な形であれ堪能できたことは、全くもって驚きであり、喜びである。
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