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創造の瞬間 ー 不測の事態を己の好機にしてしまう

創造的自我と分析的自我

創造の瞬間。
それは蝶の舞立つ瞬間のように捕まえがたい。
「あ!」と思ったときには次の角度の美しさに移り変わってしまう。

何かに没頭しているその瞬間、創造のその最中で「想像している自分」を見つめられればいいのに、なんて思う。
でも、そうやって外から観察している自分という意識層は、創造よりも分析ーつまり振り返って見て創造の残滓から何かを導き出そうとする行為ーする事をより自然に行うから、それはすでに「どうやって〇〇しよう」と思考してしまう者であって「夢中で楽しい事に取り組んでいる者」ではなくなってしまっている。

これをあとから振り返って「あれが創造だったのか」などと納得するのは、それはそれで楽しいのだが、あまり創造的になれない分野に活かすという目的においては分析的振り返りはあまり役に立たない。

抽象水彩画における創造の瞬間

私は水彩をつかって抽象的なものを形づくるのが好きなのだが、どんなかたちになっていくのか分かっているようでよく分からない。筆や乗せていく色をコントロールしているその実、予期せぬものの発生を楽しんで、そこに

「それならこれでどうだ。」

とニヤリと不敵に挑んで予期せぬものを自分の「波」にしてしまうような姿勢で未来が決まっていく。
「どうやって〇〇しよう」ではなく、起きてくる事態の相手をしていたらそれが自然に必然を生んで一定の運筆を繰り返す事になっていたり、「こうやったらどうなるかな?」という小さな子供のような好奇心と失敗への恐れを知らない短絡的な感覚で新しい色を打ち込んでみたり、、そういった失敗の概念の存在しない遊びの領域で好きなようにする。

「どうやって思考」を捨てる

遊びの領域の蝶のような軽やかさを観測するとつい、『どうすれば』これを他の分野に活かせるか、『どうすれば』もっとこの軽やかさを保てるか、、などと効率的思考がむくむく顔を出すのだが、その『どうやって〇〇するか』と言う思考そのものが既に創造的自我から分離している事に気付こう。

創造的自我の軽やかさを活かしていきたい他の分野とは例えば「〇〇出来ない自分」とか「どうしたらいいか分からない自分」が力を持っている領域など。
ここでは不測の事態をニヤリと不敵に迎え受けて自分に好都合な波に変えてしまうなんて芸当はとてもできないと感じてしまう。それを変えていきたい。

でも「どうやって変えるか」と考えたら既に負け戦なので、周りから攻めていこう。

ただ全てを『遊びの領域』に変換する方法

まず以下に創造的自我の性質をまとめてみた。

  • 不測の事態、予期せぬものの発生を楽しむ心構え

  • 失敗の概念の存在しない遊びの領域に存在する

  • 「それならこれでどうだ」と迎え受ける

「〇〇出来ない、どうしたらいいかわからない自分」が表層に出ている時は、これら創造的自我の性質が発揮されにくくなっている。

それはつまり「遊びの領域に起こる不測の事態を楽しむ」以前に、不測の事態そのものが常態化してにっちもさっちも分からず右往左往している状態なのだ。

少々力技ではあるが、これを「どうやって」と考えずに打開する方法は一つしかない。右往左往する霧の中の現状をまるごと『遊びの領域』にしてしまうのだ。そうすることで失敗の概念をノイズキャンセリングしてしまう。

この時に「どうやって」と考えてはいけない。「無理」「ありえない」「そんなのできるわけ無い」という内なる抗議の声が聴こえてきたらそれがまさに『チャンス』。
それらの声に理性的に立ち向かう必要は無い。むしろちょっと挑発的な態度で「あはーん?なんかうじゃうじゃ出てきたねぇ?」とはたき落としてしまう。

こうする事にどんな意味があるのか、このあとどうなっていくのか、などの思考も同じように、楽しみながら無視する『チャンス』として捉える。


この無理矢理全てを『遊びの領域』に持っていく手法は、絶望のドン底でも使える。唯一かかるコストは視点を180度転換させる勇気のようなもの。懐疑的な内なる声をただのノイズだと言い聞かせるのにかかる少しのエネルギー。

絶望のドン底で他に取れる手段がないときのほうがむしろうまくいくかもしれない。お試しあれ。

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