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虐待サバイバーから【ただの人】にジョブチェンジ_辛い事を辛いと認める辛さの話

noteを始めて【教育虐待サバイバー】と名乗って記事を書き出して以来ずっとモヤモヤしていた事を先日の記事で書きながら思考することで少し解消しました。

書きながら思考していて自然と出てきたフレーズがありました。

『辛い事を辛いと認める事の辛さ』

こういう、自分でも予期していなかったフレーズが「スルッ」とでてくる時は、内側から溢れ出た言葉に注目した方がいい気がします。
ハァーー(*´Д`)
「辛い」って言葉が3回も入ってるし、よっぽど自覚していない辛さが自己主張しようと必死なんだな、と受け止めて、考えながら書いていきます。

個々の痛みの記憶の奥にある『根源的な痛み』

【虐待サバイバー】と自称しないほうがいい理由でたどり着いた結論は、自分の中に無意識の【サバイバーであることへの誇り】があって、それにしがみつく事で『辛さ』を知覚しないように自己防御している、ということでした。

この構造は、『辛すぎる痛み』を感じることから自分をまもっています。

痛みには「〇〇だから辛かった」と様々な記憶に紐付けられた個々の痛みがあり、それを掘り下げていくともっと普遍的で根源的な苦しみが存在している、と私は思っています。

自分の場合は結局一番辛いのは「母親からは普通に抱きしめて愛される事を期待できない」というもの。
その『一番欲しいけれど絶対に手に入らないもの』を自覚したときの辛さの正体は【救いのなさ】でもあります。

どんなに自己理解や癒やしが進んでも、その為に努力しても、親を許したり感謝する事に取り組んでも結局『自分の中の幼い自我が欲しがっているのは〇〇でそれは絶対に与えられないのか…』と自覚してしまったときの呆然・愕然とした気持ち。

実際はその『根源的な痛み』に気付く事も解放と癒やしに繋がっていくものではあるのですが、結構辛い。(笑)

「なんで?どうして?」
「私が悪いから愛されないの?」
そんな潜在意識下の幼い自我の声が浮上してきます。

そんな『本音』の辛さを感じ続けるのは日常生活を送ったり、親として機能する事を考えても不都合。
単純に痛すぎるしね。

というわけで、それを「サバイバーである事への誇り」を潜在意識下で作り上げて覆い隠していたようです。


微妙にフォーカスをずらして自己防御する

散々理不尽な目に合わされてきたのに
・「叩かれたのは自分が悪かったから」
・「親の躾のおかげで今の自分がある」
などの理由付けて「虐待ではなかった」「愛されていなかったわけではない」と信じようとする自己防衛機構が働くことがあります。


誇りという言葉に昇華されてはいますが、「愛されなかった」という根源的な痛みからフォーカスをずらして自己防衛するという意味では同じことになっているな、と感じました。

自分は【教育虐待サバイバー】、そう言う事で「生き延びた」事実や、その為に頑張って来たこと、ある意味鍛えられて強く・賢くなってきた事、などの『サバイブしてきた自分』をポジティブにとらえられるキャッチコピーをつける。それ自体は、強さを自家発電して生き延びる為にとても必要な事だと思っています。

例え「言葉による精神的虐待」だけだったとしても、「質の高い教育を与えられた」のだとしても、「あれは虐待だった、そして自分は生き延びた(過去の出来事である)」と言えるようになる事で残酷な行為の責任を親に帰属させて一定の『罪悪感からの解放』が達成されます。

ただ、私はそのキャッチコピーを使って目を向けないようにしている『すごく辛い』部分からも自分を解放したい、と感じているのだと思います。


『何から』解放されると真の癒やしになるのか


未成年者だったり、親の支配から抜けられない状況にあると、長期間継続的なストレスにさらされます。
身体からしてみたらそれは非常事態。
その状態で身体に「生き延びるために生きている自己感」が刻まれながら成長していくと、将来生き延びなくても良くなったときにも『生き延び続けよう』とし続けてしまう。
非常事態は去った筈なのに、身体がサバイバルモードで稼働し続けてしまって、意図的に切り替えが出来ない…。

大人になって、心理セラピーなどを通して癒やしへの道を歩んだり、親からは距離を取ったり、徐々に「生き延びなくてもいい世界」=継続的脅威は存在しない安全な世界にたどり着いていているのにも関わらず、まだ一生懸命に辛さを『終わった事』にしようとしてしまう。

自分の事を
・望まれていない存在
・愛されるに値しない存在
・どんなに努力しても結局欠陥品
・他者から忌み嫌われて当然
そんなふうに思い込まされた魂の傷があって、傷はふさがっても遺された傷跡がうずく夜がある。
そんなイメージですね。

そこで【虐待サバイバー】である自分にしがみつくと同時に私がしがみついていたですものがあります。
それが、親から得られるはずだった【理想的な愛】のまぼろし。
これは魂の傷跡がうずく理由でもあると思います。

子供は親から無条件の愛を得る権利がある。それが、この世に生を受けた全ての子供たちの産まれながらの権利。
それを得られなかった事に苦しむのは当然です。
本来は生得権である筈の『愛されている自己感』が傷ついたりかけている辛さ。それを満たしたいのも当然。

あの親からは決して期待できない『愛』であると同時に、どうしてもあの親から与えられたい『愛』

ここで握りしめている『愛』のイメージは『理想化された完全な愛』なのだと思います。
でも、悲しいかな。
それはまぼろしに過ぎない。

その『理想の愛』は私自身にだって与えられません。
諦めろ、とは言っていない。
自分にもそんな事は言いたくないです。ただ、一人の人間からそのような『理想の愛』を得ようとするのは無謀だ、ということ。

虐待サバイバーから、ただの人へ。
ジョブチェンジしても愛は得られるから大丈夫。
という答えにならない形で締めくくります。

お読み頂きありがとうございました。

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