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敷島祐子さんの場合

【ばあちゃんが死んだときに書いた日記】
2006/01/04
■ばあちゃん死んだ
ばあちゃんは長男の嫁と昔もめて、それを今でも憎んでいる。
それで、ばあちゃんの娘の長女(私の母は三女)は
「T子さんは今、ばあちゃんのアパートで料理したり、墓掃除をしているからここ(病院)には来れないの。ばあちゃんも、看病は娘のほうがいいでしょう」
といって、ばあちゃんは
「そりゃそうだ」
と、またT子さんへの恨み辛みをしゃべれる状態じゃないのにぜいぜい言いながら言う。
だから長女は
「ばあちゃん、もう許してあげなって思い出すと心臓に悪いよ。今は私たちの料理作ったり、墓も掃除してくれてるんだから」
と言うと
「そりゃありがてえな、T子さんも変わったなあ」
といった。
だけど、ばあちゃんのアパートにT子さんはいない。
3人の娘が交代でつきっきりで病院で看病して、私が帰ってきた娘たちのために布団を敷いたり、お茶を入れたり部屋を掃除したり、料理をしたり、墓掃除をしていた。
台所は寒くて、ほぼ外と同じ気温で、私の吐く息は白く、もどしておいた干し椎茸は氷のようだった。
かつおと椎茸でだしをとった雑煮はうまくできて、お椀に入れてサランラップして、大晦日~元旦病院で泊まりきりでばあちゃんを看病していた母に届けた。
墓掃除も、頑張った。
100円ショップでぞうきん、スポンジ、ほうきを買って一生懸命ごしごし石をこすった。空は快晴で、水は冷たくて手が石でこすれて血が出てきた。
ご先祖、ばあちゃんを助けてやってくれ、
と鼻水すすりながら墓掃除して、それが全部T子さんの手柄ということになった。
ばあちゃんはいつも一人でくそ寒い台所にたち、あのばか寒い墓場にでかけ花をやっている。
だから、同じことをしてくれているT子を許したのだ。
私は、ばあちゃんの孤独に泣けてきた。
部屋にはヘルパーがくる時間帯と子供達の連絡先が大きな文字で書いてあり、粗末な台所とトイレと風呂がある。
前の竹やぶにまみれた家は区画整理され道路になった。
台所、トイレ、風呂は外と気温が変わらず、寒さで行くのに勇気がいる。
血圧もあがるので、高血圧の人は危ないだろう。
ばあちゃんは今回もくそ寒いトイレで倒れ、これで2~3回目だという。
トイレの便座のすぐ近くの壁にコンセントがあって、私は、それを発見したとき、ぐわーとこみ上げてくるものがあった。
暖かい便座でも小さなヒーターでも一つ買ってつけてあげる人はいなかったのか、そして気づいて買ってあげられる人の中に、絶対に私は含まれていた。
小さな頃からばあちゃんが大好きで、
その気持ちのまま、去年だって一昨年だって遊びにいってれば良かった。
孤独が嫌だ一人が嫌だと泣き喚く前に、ばあちゃんに会いにいってればよかった。
雑魚寝していたコタツから這い上がり、元旦の朝早くから私は白い息を吐き、寒い台所で料理する。しばらくは温水もでない。
「母」というものを想う。
女がふっくらと丸いのは、毎朝毎朝寒い台所に耐えなければいけないからだったのだと気づく。
母は親から愛されていないと思って生きてきた。
私からばあちゃんをみるとエキセントリックな人で魅力的だったが、母からしたら、あまり良い親ではなかった。
ずっと前に倒れたときも、母は見舞いに行かなかった。
父に責められ母は泣いたが、今回は頑張って看病をしている。
これは希望の光だ。
私は父が死ぬ時に、母の様に気持ちを整理できているかもしれない。
私は親戚の中で一番綺麗な子として通っていて、父方の祖母は近所で有名な美人双子で、目をつけた女学院の教師であったじいさんが手をつけて見事私のばあさんとなったわけで、小さな頃から綺麗綺麗と言われてきた私は、この父方のばあさんに似たからだと思っていた。
それで小さい頃、母にそういう話をしていた時、母は言ったのだ。
「昔の(父方の)ばあちゃんの写真みたことあるけど全然たいしたことないよ。うちのばあちゃんの足元にも及ばない」
母はばあちゃんを恨んでいながらも、ばあちゃんの美しさに誇りに思っていたのだ。
母は不細工な容姿だったので「メンパ」(詳しくは忘れたが顔の悪さを嘲笑う言葉)と人々に罵られていた。
弟は死んだ叔父に似ている。
それで、私と弟をばあちゃんがみた時、それぞれ男っぷりがいい、女っぷりがいいと大喜びして、私に「彼氏は何人いるんだ?」と聞いた。
「(父方のばあちゃん)に似たんだな」というので、皆が 「違うよ、きっとばあちゃんに似たんだよ」と笑った。
「(死んだ叔父)がこっちこいって呼んでる」という言葉も弟がきたらいわなくなった。
ひ孫がみたいというんだが、もうちょっと待ってくれなとしかいえない。
弟の成人のお祝いもあげたいけど、今病院だからお金がない。退院したらお祝いするからもう少し待ってな、びっくりするほどはあげられないけど、と言われて、弟は「いつでもいいよ」と言ったらばあちゃんは「ありがとう」という。
部屋を出たら弟がぽたぽた涙を垂らした。
ばあちゃんは酷い肺炎で、酸素マスクのレベルを一番強くしている。それなのに、普通の人の半分しか酸素が回っていない。だからぜいぜいして、とても苦しそうだ。しゃべれる状態じゃないってのに、ぺらぺらしゃべる。それであとで苦しくなるのだ。
土曜日また弟とばあちゃんとこ行く約束して、仕事のために東京に帰る。
悪夢ばかりみる。
目が覚めると部屋に私が一人だけで、ばあちゃんのアパートじゃない。
誰もいない。孤独と寒さで涙が出る。
ばあちゃんのアパートには叔母や母や従姉妹たちが行き来して、少しにぎやかで楽しかった。
病室にはいろんな親族が来て、ばあちゃんは「おら、こんな幸せなことはねえ」と言った。
敷島祐子

ばあちゃんが死んだ時に姉と弟と撮った100円プリクラ

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