永原レキさんの場合
僕のおじいちゃんは3歳の時、韓国の済州島からお兄さんとお父さんと3人で小さな漁船に乗って日本に渡ってきたそうです。
大阪の韓国人街のあばら家で暮らし、お金もなく学校にも行けず、日本人から大変な迫害を受けながら戦後の街で育ち、当時はヒロポンの密売など悪いことにも手を出しながらどうにかこうにか韓国人コミュニティの中で生きてきたそうです。
大人になっても文字が書けないのでまともな職に就けず、西成という日本有数のスラム街で飲み屋や賭博場などを開き、自らは堅気でいながらも周りは極道、中国人韓国人マフィアばかりで、喧嘩は日常茶飯事、片目を失いいつもサングラスという、まるで映画の中のような世界に生きた人でした。
おじいちゃんが19の時、西成でおばあちゃんに出会ったのですが、呉服屋の娘に生まれた名家のお嬢様のばあちゃんも戦争ですべてを失い、当時の西成で必死に働いていたそうです。
そんな二人は完全に恋愛結婚で家族に反対されながらも一緒になり、4人の子供に恵まれ…その中の一人が僕の母でした。
母も韓国人のハーフということや、風呂もない長屋に家族6人ギュウギュウで暮らしそれなりに苦労してきたと思います。
大人になりプロサーファーの父と結婚し波のある宍喰に移住、僕と妹が生まれましたが間もなく離婚。
なぜかサーファーの父が関西に帰り、自然の中で子育てをしたい…というよりは西成で育てたくないためか母は宍喰を選び残りました。
それでも仕事などの都合で僕と妹は中学生に上がるまでは長い休みなどは必ず西成の実家の狭い家に預けられ、じいちゃんばあちゃんに世話になっていました。
自然豊かな徳島とは真逆の世界でしたし、よく都会の子供にもいじめられましたが、
西成の小便臭い街の匂い、道端に寝ている無数の乞食ホームレス、賭博場や飲み屋、遊郭の空気、覚せい剤中毒の危ない輩、女子供にも平気で覚せい剤を売りに来る売人、一日中鳴りやまないパトカーと救急車のサイレン、などなど、一見異様なその世界にどこか安心感を感じる自分もいました。
不思議な感覚でうまく説明もできないのですが、宍喰の川や海に共通する安心感みたいなものが確かに西成にもあったと思います。
ただの都会とは違う人の温かみのようなものなのかもしれません。
本当に色々いやなこともあったけど…今思えば大自然と人間カオス、この対極の世界を行き来できたことはすごく貴重な経験だったと思います。
逆にじいちゃんたちが年に何度か宍喰に来ることもありました。
娘や孫にあえるのも楽しみだったでしょうが、ずっと人のカオスの中で生きてきた二人にとって、自然に身を置く機会は本当に大事な時間だったのだと思います。
運動も釣りもしない二人でしたが、いまだに唯一心から離れないシーンがあります。
それは毎日夜明け前に起き出したじいちゃんが、家の庭に出て東の空から那佐湾に上る朝日に合掌し祈っている姿です。
人間カオスの中で戦って生き延びてきたじいちゃん。
自然との接点なんてほとんどなかったはずなのに、無意識に自然や命に感謝し太陽を拝むというその姿。
当時は何も考えずただただそのシーンを眺めていたのですが、今になって、ふとその爺ちゃんの姿を思い出しながら、世の中というのはそういうものなのだと思ったりします。
田舎も都会も上下左右もなく、生きとし生けるものには何か共通する心理が本来備わっているものだと。
大人になり改めて出会う海陽町の自然を熟知した農家さんや漁師さん山師さん、海山川、祭りから学ぶことと同じようなことをじいちゃんの姿から感じます。
僕は生粋の地の人間ではないかもしれないけど、じいちゃんばあちゃん、両親の人生を通してぼくだからこそ感じるこの土地の魅力をたくさん知っています。
じいちゃんばあちゃん、おとんおかんから与えられたこの環境から学んだ智慧や経験を、すこしでもこの町に還元できればいいなと思います。
逆にこの自然豊かな故郷から学んだ智慧や経験を、街で暮らす人たちの役に立てることができればそれもまたうれしいこと。
祖父母や先祖さんの人生をこの先の自分の人生や周りや子や孫に活かしていけるよう、日々ご先祖様、お天道様に感謝しながら生きていきたいと思います。
そして、
2017年4月じいちゃんの誕生日に旅立ったばあちゃん。
ほんまに素敵な夫婦でした。
天国で二人仲良く見守っていてください。
俺も素敵なじいちゃんになれるよう頑張ります。
ほんまおおきに、有難う。