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三浦鮎子さんの場合

「おっさん」のこと
「おっさん」とは、私の三番目の祖父。
父方でも母方でもない、祖母のいとこの旦那さん。
うちの実家から20mのところに住んでいて、おっさんには子供がいなかったので、私たち三姉妹を本当の孫のように可愛がってくれた。
何故だかうちの家族はみんな「おっさん」と呼ぶ。
末っ子の私は特に可愛がられ、生後何ヶ月の写真も、うちの家にいるよりもおっさんの家で撮られた写真のほうが多い。
小学校4年生でバレーボールのクラブに入るまでは、学校から帰るとおっさんの家に直行。母が帰ってくる夕方5時まで、おっさんの家にランドセルを置いて遊びに出た。
お腹が空いたら、さーちゃんばん(おばあちゃん)がワカメご飯でおにぎりを作ってくれた。
テレビ台の下には、私たちのお絵描用に、裏の白いチラシがいつも沢山あった。
小さい頃は、おっさんの自転車の後ろに乗って、いつも本屋さんに行っていっぱい本を買ってもらった。
今は駐車場になってしまったけど、昔近所に銭湯があって、おっさん達は毎日そこに行っていて、週に何回かは私も一緒に行っていた。
小さかった私が女風呂から「おっさーーーん!」と叫ぶと、「おーい!」と答えてくれた。
夏の夜、花火がしたくても誰も相手にしてくれないと、いつもおっさんのとこに行って一緒に花火をした。
郵便局で局長をしていたおっさんは頭が良くて、達筆で、いつも頼まれて沢山の年賀状を書いていた。
陸軍兵士として戦争に行ったおっさんは、いっぱい戦争の話をしてくれた。
昭和の南海大地震で津波にあったおっさんは、流された写真だけが惜しかったなーと言っていた。
いつも「津波が来ても、わしは逃げん。ここで死ぬ。」と言っていた。
2011年の震災のとき、私はまだ千葉に住んでいたので、すぐ父に電話して「おっさん連れて逃げてよ」とお願いした。
10代の難しい年頃で反抗期になっても、おっさんの言うことは聞いた。うちを出て、一人暮らしを始めてからも、帰るたびにおっさんの家にいりびたり、コタツに入って一緒に大相撲を見た。
社会人になって実家に帰る回数が減っても、帰ったら必ず一番に会いに行き、時間の限り話をする。
いつも帰る間際は泣きそうになる。
「あゆ(私)の顔見よったら、病院なんか行かんでええわ。」
「あゆが一番かわいらしい。怒ったところなんかみたことない。」
「あゆが何するとしても、おっさんは応援しよるけんな。」
といつもいつも言ってくれた。
「ほら、弁当代」といって、社会人になってもお小遣いをくれた。
2012年11月28日おっさんが死んだ。
私はまだ千葉にいた。
何かあったら、いつでも私は全てを投げ出してスグに駆けつけるつもりだった。けど母の体調が良くなかったこともあり、大勢が帰ると負担をかけるので帰れなかった。
91歳になり、おっさんもさーちゃんばんも足腰が弱くなり、2人で家のなかでこけたまま倒れていたこともあった。
うちの父と母が毎日、ご飯を作って様子を見に行った。
父と母は、おっさんとさーちゃんばんの子供ではない。けど、私たち姉妹がお世話になった分のお返しと思って、ずーっと毎月病院に連れていってあげたり面倒を見てきた。
それでも、うちの母の体調のこともあり、ひと月前に二人で施設に入ったところだった。
夕食のあと、痰がのどにつまり病院に運ばれ、そのまま逝った。
もう何処もかもが悪い状態だった。
おっさんの葬儀は、密葬だった。
あんなに可愛がってくれたおっさんの最期を見ることができず、寝ている時間以外は泣きつづけていた私の顔はスズメバチ20匹に刺されたかのように腫れ上がっていた。
生きていて欲しかった。
生きているうちに、徳島に帰りたかった。
そんな希望は、私の勝手なエゴだけど、ずーっとずーーっと生きていて欲しかった。
おっさんが死んでからちょうど1年後の2013年11月末。
おっさんの一周忌の日に私は徳島に帰ってきた。海部に住むために帰ってきた。
そして今、おっさんの家に住んでいる。
私が育った2つ目の実家のような家でおっさんの遺影と一緒に住んでいる。
私がこの家に住んで、おっさんは喜んでくれている。
素敵な友達がいっぱい遊びに来てくれて、私がおっさんの話をして、みんなとこの場所を共有していることを喜んでくれている。
幸せだ。
ありがとう。
三浦 鮎子

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