篠原朋子さんの場合
「奪う・与える」
私の祖母“ばばちゃん”が他界したのはもう十年以上も前だ。パーキンソン症候群で寝たきりとなった祖母を埼玉の実家で母を中心に自宅介護をしていて、ちょうど私の規制のタイミングと祖母の最期が重なった。少しずつ衰えていることは目に見えてわかっていたので皆覚悟はしていたが夏の朝早くその時が来た。皆でかわるがわる大きな声で祖母に呼びかける中で大きく最後の一息をして逝ってしまった。その間、まだ幼かった私の子供たちが何もわからずぐるぐるとそのベッドの周りで走ったりおしゃべりをしたりと機嫌よく陽気にしていたので想像していたよりからりとした別れになった。
でも葬儀の後、実家から徳島へ帰る飛行機を降りて夫の車のライジオから流れてきた中島みゆきの『時代』を聞いた途端なぜか涙があふれて止まらなくなった。本当に悲しい時、感情はいつも遅れてやってくる。あとからあとからこみ上げる祖母に対する想いや後悔でその当時はずいぶんと心身ともにまいったが生活は待ったなし。心のバランスを保つのが難しかった。
それから時間が経過した現在、見送ったあとの後悔や喪失感は心の奥底に静かに沈んで祖母から無条件に愛されていた感覚的な温かみを実感するようになった。特に懐かしく思い出すのは食の思い出。食の細い私を心配して平たくて小さい塩むすびを作ってくれたり、時にはそれを焼きおにぎりにしてくれたこと、贈答品のタオルの空き箱いっぱいに天ぷらを作ってくれたこと、戦時中の食糧難を経験しているだけあって食材を最後まで使い切る始末の料理も忘れられない。
命を孕み生み出し自分の時間は自然に子供に奪われていく。実際子供が大きくなった今でさえも、何だか縛られているような窮屈さを感じることもある。ただ『奪う』という言葉だけを捉えると物騒で否定的に見えるが命の繋がりの自然な流れで奪うことと与えることを意識もせずに役割を変えながら続けているだけなのだ。その気づきで祖母をより身近に感じここに存在していなくても同志のような心強さで支えられるようになった。もういないのに、愛の塊はまだある。
歳を重ねて私の足の指は祖母に似てきた。気になる首のシミも鏡で見ていると祖母を思い出す。命の円環の中の一つの点に過ぎない私だけれど時々祖先の目や耳手足などを意識して丁寧に身体をうごかしてみようと思う。