ポテトサラダ
「俺のことは君にはわからないと思う」
一樹らしいくずれた字がテーブルのメモに残されていた。わざとらしくテーブルの真ん中に置いているのは彼の気障な演出だろう。朝まで一緒にいたし、私が出るときに直接言えばよかったのに。気取り屋なのかシャイなのか。あんたのことなんて私にはわからないよ。
秋も暮れてきて、気を抜くと風邪をひいてしまいそうな寂しさを感じる。冬が来るのはわかっているんだけれど、どうかこのまま停滞していたい。私の心は早すぎる時についていけずにいた。
年末には実家に帰らないといけない。一樹はどうするのだろう。年末の話を私たちはまだ交わしていない。まあ私が実家へ帰ったのをいいことに、この家へ友人を招いて騒いだりするのかもしれないな。私なんかと一緒にいるより楽しいだろうし。
日曜日、曇り空の昼下がりに一人で昨夜の夕飯の残りを食べる。ハヤシライスはルーを一箱使ったから、鍋にいっぱい残っている。一樹は深夜に帰ってきてそのまま寝入ってしまった。朝も彼は何も口にしなかった。私の淹れたコーヒーを飲むだけで、私の作ったハヤシライスには興味がないみたいだった。私が用事で出かけている間も手をつけていなかったらしく、鍋は私が最後に見た状態のまま12時間が経過していた。
今思えば独りの食事なんてこれまで経験してこなかった。家族仲はよかったし、この部屋に暮らし始めてからしばらくは一樹が向かいに座っていたから。郊外に借りた部屋は無駄に静かで、独りで食べているととても虚しくなる。食欲も湧かないし、食べたくもないのに料理をするのが馬鹿馬鹿しくなってくる。それでも、もし一樹がお腹を空かせて帰ってきたらと思うと、私は……。当たり前の生活の中でどうかしているのは私の方なんだろう。
一樹はいつまでも定職に就くことなく、音楽をやってみたり絵を描いてみたりしてはすぐに投げ出してイライラしていた。芸術感性が皆無な私は、彼がなぜ苦しんでいるのか、そもそもどうしてそれらに執着するのか理解できなかった。だから、私と彼の間で衝突が起きるのは必然だった。
はじめは彼の打ち込むアートとやらに無関心なだけだったけれど、働いて家賃のだいたいを負担している私と比べて働かず遊び呆けているような一樹を見ていると、私はだんだん自分の存在意義がわからなくなってきた。一樹のためにお金を稼いでいるわけではない。二人の生活のためなのに、一樹は私のために何をしてくれているというのだろう。
日が落ちてどこからともなく冷気が入り込んでくる。私は今朝の一樹のことを考えていた。無理に流し込んだアルコールのせいでむくんだ顔、不機嫌そうに隅へ逃げる視線、最後にいつ切ったのかわからない無精な髪。私くらいだろうな、こんな男と一緒にいられるの。愛しさの欠けらもなかったけれど、少し嬉しくなった。彼は私が淹れたコーヒーを啜って、寒そうにスウェットで身体を抱くようにして肩を摩る。既によそ行きの格好をしている私に気づいているはずなのに、「どこへいくの」とも訊かない。もし私がこのまま他の男と消えてしまったら、一樹はどうするのだろう、どう思うかな。
加虐妄想に耽る私は、頭の片隅に別の可能性が存在することを理解している。一樹には誰か女がいるかもしれない。もしかしたら、どこかに彼にとっての暖かい安息の地があるのかもしれない。冷めた私が待っている凍える郊外の家より居心地の良い場所が。私の淹れる、自他とも認める美味しいドリップコーヒーを啜りながら、私と目を合わせない一樹には、罪の意識が見え隠れしていた。私は傷つきたくないからなるべく考えないようにしているけれど、可能性は無に帰すまでいつまでも深層意識の中で癌となり不安観念をただただ増殖させていく。一樹が何も話してくれないのはずっと変わらない。それでも、苦しむガールフレンドのことを少しは救ってほしい。
成長せず変わらない一樹と揺れ続ける私との溝は朝と夜を繰り返すたび深まっていった。
芽吹き始めたじゃがいもをシンクの下から引っ張り出した。禍々しい芽を取り除き、ボイルする。その間に玉ねぎと人参を薄く切ってレンジに押し込む。厚切りのベーコンをサイコロ型にして卵焼き用のフライパンで油を敷かずに転がし焼く。カリカリにしたベーコンを一樹はとても喜んでいた。もうあれからどれぐらい経った?
ボウルに移して熱いじゃがいもを剥く。賃貸の古いエアコンの暖房は全然部屋を暖めてくれない。火傷しそうなくらい熱いじゃがいもから吹き出た湯気がじんわりと私の顔を包み込む。フォークで優しく、手早く崩す。食感を残すためだ。強く潰してペースト状になってしまわないように。
そのとき、生活音とは異色の振動がする。こつこつこつ。一樹の足音だ。通りを走るトラックや強く吹く風、雨のそれとは違う、はっきりとした彼の音。いつも待っているばかりの私しか知らない彼の聲。
一樹は何も言わずドアを開けて玄関を上がる。私も何も言わない。期待と安堵と微笑を隠してボウルへ目を伏せる。すると、一樹が覗いてきて小さな声で「よかった」と囁いた。
「あまりお腹空いてなかったんだ。佳菜子のポテトサラダなら食べられる」
ポテトサラダじゃなかったら食わないのかお前は。余ってるハヤシライスも食えよ。
褒められているのか、いつもの無神経な一樹の小言なのか計れなかったけれど、とりあえずこのポテトサラダは救われた。二人の蟠りは解れるようにと、優しくフォークを入れる。新鮮な湯気が漏れる。私は明るく調子を上げて訊いた。
「キューピーハーフじゃ嫌でしょ?味薄いもんね」
見なくても一樹が首を振るのがわかる。
「それとブラックペッパーをたくさん振ってほしい」
わかっているのよ、それくらい。レンジから玉ねぎと人参を取り出して、じゃがいものボウルに混ぜる。マヨネーズを両手で思い切り絞り出して胡椒を振り、和える。満遍なくマヨネーズが絡まったらベーコンを偏りのないように乗せる。最後にこれでもかってほど、ブラックペッパーを振る。これはいつか一樹が買ってきた瓶だから、遠慮なく使う。無くなったら彼は勝手に買ってくるはずだし。
「どう?」
「うん、普通に美味しいよ」
ありきたりすぎて作った甲斐がしないのだけれど、この言葉すら久しい。
「あんた今日何してきたの」
「何も」
「こんな寒い中、何もせずにふらふらしてたの?」
「まあ、そんなもん」
「そう」
相変わらず私に目を合わせない一樹。でも、なんとなく私が危惧しているようなことにはなっていないと思った。こういう男なんだろう。たぶん、何も考えていないのだ。アートなんてことを際限なく続けて、そうやって生きていく。そして、そこに永遠に私がいてくれると思ってやがる。憎らしいまでに能天気な男なのだ、この男は。
結局、余ったハヤシライスは冷蔵庫から出さなかった。ポテトサラダを数口食べて一樹は皿をシンクへ運んだ。そして、小さくため息をつく私の背に向かってぼそっと「あとは俺が洗うから」と言った。
あんたが洗うとヌルヌルするんだよなあ、と止めかけたけれど、シンクに立つ一樹の後ろ姿を見て、何も言わないことにした。一樹が珍しく楽しそうだったからだ。
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お読みいただきありがとうございました。この小説はシンガーソングライターとして活動なさる市森一盛氏の楽曲「ポテトサラダ」をオマージュして書いた作品です。
世の創造作品には解釈云々したがる方々がございますが、私が彼の曲に対して感じたことをまま文字に起こしただけです。そこに意味も思想もありません。作者の気持ちは答えなくていいです。
彼(先輩です)とは一時期同じ釜の飯を食った仲であり、離れてしまった今でも良くしていただいております。私にとってとても偉大かつ、頼れる兄貴です。
そして、本日、2020年12月12日に彼は上京後初のワンマンライブを成し遂げました。
コ○ナの関係で東京へ出向くのが難しく、恐縮ながら配信で拝見いたしましたが、昨今世知辛いアーティストの現状を打破するかの如く非常にパワフルなパフォーマンスで大変感動しました。
配信なのをいいことに、ライブを観ながらワープロを立ち上げてしまって今に至ります。
こういう形で広められるならライブの前に書けよ、という話ですがどうか許してください。もちろんやれることはやります。
本日ワンマンライブに合わせてリリースされたアルバムですが、これが飛び上がるほどカッコいい。彼のポップなサウンドや切ないリリックが研ぎ澄まされていて、痺れます。
先述の「ポテトサラダ」ももちろん収録されています。もっとも彼の代表曲の一つなので、ライブでいつも演奏されますので、ぜひライブハウスに足をお運びください。
余談ですが、収録曲の一部に私(谷野陽太郎)の声も入っています。月岡さん、長利さん、先日は本当にありがとうございました!
私の身勝手な暴走にお付き合いいただき恐縮です。これからも応援しています。