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突然ですがエッセイ書きたいねん

あけましておめでとうございます。昨年のnote見ていると、相変わらず死にそうな目に何回かあっていますが、とにかく生きて年こせてよかったです。今年も、きっと死にそうな目に合うのかもしれませんが、今年もよろしくお願いします。
2年連続で死にそうな目にあっていると「二度あることは三度ある」というかなんというか、慣れてきますな。

死にかけ2020↓

死にかけ2021↓

法科大学院の同じクラスの学生に、大手新聞社を辞めてきた記者がいた。百戦錬磨のご年齢で、かのオウム真理教による地下鉄サリン事件の折には、上九一色村でねばった経験もあるという。(ところで、この「上九一色村」、一発変換しなかったんだけど、そのあたりに時代を感じるなぁ。)
その彼から、私の法科大学院ブログを評して、「君の文章は商品になる!」と絶賛されたことがある。ついこの間まで現役の記者をしていた人からそう言われると、「なになに?書いたら売れるの?」と調子にのってしまう。
調子に乗って、「なんかしらんけど、とにかく本を書いてみたい」
その気持ちを持ち続けて10年以上、昨年ようやく処女作を出版することができた。


宣伝しつこい。
しつこいけど、ちょいちょい挟んでいって、どっかのタイミングで「あ、買い忘れていた」という人を丁寧に拾っていかないと本って売れないらしいので。
これを書いていて思ったのは、
これは専門書か?
いや、私が仕事をする中で感じたことを言語化しただけの「エッセイ」に近くない?
そこから、専門書へ昇華させるために途中からがんばったのだけど、どうにもエッセイ感が最後まで残っている気がして仕方がない。つまり、私はたぶん、専門書を作るのに向いていない。法律実務書など、なおさら向いていない。これがはっきりしただけでもいい経験だった。私はどうも、「書くこと」が好きなだけで、調べて考えて、緻密な議論を展開することが好きなわけではなさそうだ。
なお、本を書くのは予想を超える勢いでめちゃくちゃ楽しかった。昔、法科大学院の同級生が言ってくれたように、「商品化できる文章」であるなら、ニーズがあるなら、できたらまた書いてみたいと思う。でも、専門書は責任が重いから一人でやるのはだいぶしんどい。いや、ニーズあったらがんばるけど、しばらくはいいかな…

まぁ、出版物を書くかどうかは別にして。
そういえば、星野源さんが、エッセイの連載を始めるにあたり、「自分の思考を言語化する必要を感じたものの、任意に任せていたらサボるので、強制の契機としてまずなんでもいいから連載させてもらうようお願いして回った。」みたなことをどこかで書いていた(気がする)。私が何かを「書きたい」のも、たぶん思考を言語化するところが好きなのに加え、最近、考えたことは言語化していかないとすぐ忘れて流れていってしまうことにちょっこし焦っているからかなぁ。

あと、私が何かを書きたいと思い、実際書くところまでたどり着いている、ということは、私が現在、健康である証拠だ。「書きたい」と「書く」の間には、気力・体力的に結構な溝がある。もっと言うと、「書きたい」という欲が出てくる手前にも、深くて暗い川がある。あのねぇ、心身ともにしんどい時って、言語化して他人にわざわざ伝えたくなるほどの好奇心とか関心ってわいてこないのよ・・・
なので、私が何かを書き散らしているということは、私が「書きたい」と思う余裕があるということ、そしてその気持ちを言語化する余裕もあるということ。そう考えると、自分の健康観察のために、定期的に書くことは必要かもしれない。趣味、note、みたいな。

しかし、エッセイを書くとなるといったい何を書いたらいいんや。と思って自分の日々の思考とか生活を振り返ると、びっくりするほど仕事しかしていなくてそれはそれでへこむ。めちゃくちゃへこむ。仕事して、ご飯食べて寝る、くらいのキャパシティしかないからなぁ。放っておいたら、「こんだけしんどいけど何とか生きてます」みたいな話にしかならぬ。そんな話、誰が好きやねーん。
ていうか、それって今までと一緒やん??
どうやったら、岸田奈美さんみたいに、「なんかしんどそうだけど読んでる人を幸せにできる話」を量産できるんだ?

ていうか、それってこれまでとまったく同じじゃね?

・・・と、とりあえず、エッセイってなにを書いているのか、いろいろ読んでみるところから始めるか。

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