【読書メモ】法律家の責任・患者の期待ーハンセン病検証会議の記録ー
以前、こんな本を読んだ関係で、ハンセン病の歴史にきちんと触れてみたいと思った。
そこで、↑の本の参考書籍をあたりながら見つけたのが
ハンセン病検証会議副座長でもある内田博文先生が、検証会議の経験をもとに記された本なのでたぶん間違いはないと思う・・・けど、思いっきり絶版になっていて、確実に入手するには古本屋からプレミア価格で買うしかない、という。。 本に諭吉をささげたことは今までなかったので、まず入手するところで勇気が要る。いきなり買うのもだいぶためらわれたので、まず図書館をあたった。幸い、近所の図書館に所蔵されていたのでとりあえず借りてみる。
・・・うん、これ、買わなあかんやつ。
借りたその日に観念し、震える手でぽちった。でも、昨日夫婦で食事した金額(いや、予想外に高かったんだ・・・)とだいたい同じくらいだったけど、間違いなくこの本の方が価値があるよ。検証会議最終報告書の経験を伝えてくれるし、手元に残るし、何度も繰り返し読めるし。そう考えると安い。
法律家の責任
検証会議最終報告書の頁数に比べればだいぶ短いものの、サムネイルにもあるように読みきるにはそれなりのボリュームがある本だ。そういえば、直近で見た「読書法」のWeb記事で、「本は読みたいところから読めばいい」と書いてあった。そこで、目次を見て、第9章「司法や法律家の責任」から呼んでみることにした。
すると、冒頭からすごいことになる。
らい予防法の廃止がここまで遅れたのは、司法や法律家が社会から付託された責任を果たさず、なすべき行動を怠ってきたのが原因のひとつではないか。
日本国憲法のもとにおける最大の人権侵害だと言っても過言ではない、予防法下の甚大な人権侵害が看過され続けた責任の多くも、司法や法律家が負うべきではないか。
行政の担当者が、らい予防法の改廃について弁護士会から何も言われたことがない点をもって法廃止が遅れた弁解材料に使っていることからすれば、法律家、なかでも、弁護士、弁護士会の果たすべき役割は重大なものがあったといえよう。
本当に冒頭からこう書かれている。そして、この章全体で弁護士や法律家に対して痛烈な批判が繰り広げられている。この章だけではない。この本全体において、日常化し、遷延化して人権侵害の状況が「あたりまえ」になってしまったところから救済するため、弁護士が果たすべき役割は大きかったはずだし、もっと早く介入できただろう、という強い想いが繰り返し述べられている。
これに対し、日弁連も、1996年1月に「らい予防法制の改廃に関する会長声明」を、同年2月には「らい予防法性の改廃に関する意見書」を発出し、その中で以下のように言及している。
人権を蹂躙し、憲法違反の疑いが強く、かつ、ハンセン病患者に対する差別や偏見を助長してきたらい予防法及び関連法規の改正・廃止問題について、弁護士・弁護士会が関心をもって廃止を訴えることもなく、なんらの有効な助言、対策、対応を打ちだすことができなかったことを、われわれは真摯に受け止め、今後の教訓とすべきである。
そう言われても、人権課題だけ取り扱っていたら営業に支障を来たして生活できないよ、と思う「弁護士の私」がいる一方で、超高額医療に押しつぶされながら、一生医療費と闘う人生しか与えられない”病気を持つ人”たちの状況が特段問題視されていないことに危機感を覚えて弁護士になった、「病気を持つ人としての私」は、ようやく同じことを言ってくれる人がここにいたことに驚いた。
思えば、私の弁護士になってから最初の5年間は、どうにか難病と医療費の問題を人権課題として捉えてほしくて、自分の視界に入るすべての関係ありそうな人に問題提起をする5年間だった。継続的に症状があらわれる難病は「障害」を構成する機能障害のひとつであり、この病苦と社会との間に障壁画あって社会参加が難しければ、それは障害者として考えるべき問題だと言われればそれに飛びついた。障害者権利条約のなかにも、「障害者に対して他の者に提供されるものと同一の範囲、質及び水準の無償の又は負担しやすい費用の保健及び保健計画(性及び生殖に係る健康並びに住民のための公衆衛生計画の分野のものを含む。)を提供すること。(25条(a))」とあるにもかかわらず、どうして我々は一生医療費と追いかけっこする人生しか用意されていないのか・・・
ところが、5年間自分なりにいろいろとやってみたものの、思ったほど手ごたえは感じられなかった。弁護士との間で感じる壁は、結局彼らは質実剛健で経済的にも困窮していない、ということと、そんな弁護士の腑に落ちる問題提起は、訴訟以外にあり得ないということだった。とにかく、誰を相手にしてもいいので、①請求の趣旨が立つ程度まで紛争を具体化し、かつ、②訴訟の負担に耐えうる原告を見つけなければならない、ということだった。難病の問題についても、結局訴訟になるような当事者が自然発生的に存在するはずもなく、そのような状態で弁護士や、障害者権利条約を取扱う法学者たちに強い問題意識を喚起するには限界があったと言わざるを得ない。
ハンセン病も、この2つの条件が整うまでに気が遠くなるような時間を要したのだろう。現在進行中の案件である、旧優生保護法による被害者(これもハンセン病被害者とかなりの部分で重なるような気がする)についても、被害から提訴まで、(請求権が消滅する)除斥期間である20年を超える時間がかかってしまったのは同じ理由ではないかと思われる。おそらく、②が整えば、①は弁護士の努力で訴訟として整うのだと思われる。問題は、こうした類型の人権課題の場合、②が難しい。本当に、難しい。難しい理由の一つは、当事者に人権侵害の感覚があったとしても、その救済手段の選択肢に「訴訟」は通常含まれていない。弁護士からすれば「なんでやねん」と思うところだが、それほど裁判だの司法だのは人々のくらしから遠い。また、仮に当事者の中に選択肢としてあったとしても、病者は社会から同情されてナンボの存在、それが権利主張をするとなれば、どこから何を言われるかわからない。ただでさえ日常生活で自分が病気であることを言わないことで社会に包摂されているというのに。目立つことは、病者の生存戦略に反する行動だ。ていうか、そもそも病人は、病人なので、訴訟にまつわる負担に相当の合理的配慮の提供が必要だ。債務整理だの離婚だのといった一般事件でさえ、お金云々以前に法律事務所へ打合せに行く行為自体が体調的に負担で、いろいろ諦める人がいるくらいだ。人権侵害への訴訟など、体力との関係でアクセスするのが困難である。
人権侵害は、最初から請求の趣旨が固まった状態、つまり訴訟に適合する形でなど存在しない。そこは弁護士が人権感覚をもって社会課題に相対し、場合によっては人権侵害されている当事者に対し、「法」という選択肢があることを積極的に示す、くらいの丁寧さが求められているのではないか。弁護士が提供できるアウトリーチは、事務所を出て法律相談を聞くことだけではなく、こうした問題意識から活動することも期待されているように思う。少なくとも、ハンセン病検証会議最終報告書は、ここまで期待していると考えられる。その期待が、現実的に受け止められるものかどうかは別として。
患者の権利
1953年に制定されたらい予防法が、遅くとも1960年以降は違憲状態に陥っていたにもかかわらず、1996年まで30年以上も存続し続けた理由の大きな一つとして、強制隔離と処遇改善との表裏一体論があげられている。つまり、らい予防法による強制隔離を法的な根拠として国立ハンセン病療養所における入所者らの処遇改善が図られたため、厚生省は予防法廃止を言い出すことができないまま時間が経過した。入所者にとっても、予防法廃止は、それまでに勝ち取った処遇改善の実績を台無しにするものと映り、法廃止に取り組むことを躊躇してしまった、というものだ。
この理屈に既視感をおぼえる難病患者がいるのではないだろうか。難病法が、これに近いデッドロック状態を作り出しているように思えてならない。つまり、治療法研究に必要な患者データの収集を根拠として医療費の公費負担をするという、「研究・負担軽減表裏一体論」のもと、医療費助成制度が成り立っているからだ。医療費の助成を受けるためには、患者はみずからのセンシティブ情報である患者情報のすべての提供を期待される地位に置かれる。物理的に隔離されていない分、ハンセン病よりも権利侵害の大きさがわかりにくいが、人権状況はそれほど芳しくない。
ハンセン病の場合、上記の強制隔離・処遇改善表裏一体論のドグマから患者が勇気をもって脱却するためには、法律家の支えが早期に必要だった、と内田先生は言う。憲法論、人権論の見地から、強制隔離と処遇改善の表裏一体論を打破することが不可欠だった。しかし、法律家がこの論点に手を入れるまで何十年もの時間を要したことにつき内田先生は言う。「怠慢の誹りは免れがたい」と。
ハンセン病であれ、難病であれ、患者を複数の価値の板挟みにして身動きを取れなくする状況になってしまうのは、患者を権利の主体とする法的根拠がないからだ。最後の提言部分においては、感染症に限らず、病を理由とする差別を禁止し、すべての病もつ者の人権主体として位置づける、患者の権利法が必要とされている。そういえば、このコロナ禍、医療従事者やエッセンシャルワーカーへの差別が問題となった。そして、医療従事者への感謝の言葉を贈ることがはやったこともある。ただ、それ以前に、新型コロナウイルス感染者への差別が先に問題になるはずなのに、妙なことだなぁ、と思っていた。いや、医療従事者も差別したらアカンのだけどね。でも、「感染者を差別するな」とは、あまり言わない。これも、「感染者は感染してるんだから排除するのはある程度しかたない」と無意識のうち思ってしまっていないか。これも、「患者ファースト」の考え方に法的根拠があれば、もう少し違っていたかもしれないと思わなくもない。
ところでなぜハンセン病なんだっけ?
ここまで書いてきて、「ところで私、なぜハンセン病に興味を持ったんだっけ?」というそもそもの部分に帰ってくる。もともと、新型コロナウイルスと隔離とか、差別についてもやっていたので、「ハンセン病の教訓」をきちんと知るために興味を持ったのでした。
この点については、ハンセン病と新型コロナウイルスとで、「感染症」という以外どこまで共通点を見出せるか、慎重に考えた方がいい、という感想になる。ハンセン病の人権侵害がここまで深刻化した本質は、国際的にも確立した医学的知見をあえて無視し、不正確な疾患知識が広まることを阻止せず、隔離の必要のない患者を隔離し続けたことにある。一方、新型コロナウイルスは、なぜか発症前の身体が元気な時期から思いっきり感染力を発揮する、という、文系脳では理解できないタチの悪すぎるウイルスだ。つまり、病気としての治療をそれほど必要としない、比較的元気な感染者も、隔離しておかなければガンガン感染拡大するという点で、すでにハンセン病と全然違う疾患だ。さらに、それなりの割合で亡くなるし、治療には医療資源を大量に必要とするし、急性期症状がなくなっても確実な治療法がいまだ確立しない後遺症が長期間続くケースが少なくない。人々の健康に、深刻な影響を与える疾患だ。
これまでは、そうだった。
問題は今後だと思う。今後は、ワクチンが行きわたった状態で、この感染症がどのような病気になっていくのか。これまでより後遺症が少なく、亡くなる方も減り、感染しても「タチの悪い風邪」程度に落ち着いていく、かもしれない。そこまで悪性が低下した段階に至ったとき、そこでいよいよハンセン病の教訓が生きてくるような予感がする。第5波までの「恐ろしい感染症」のイメージを引きずって苛烈な差別が起こらないように。そこまで厳しく隔離しなくても、それなりに治るのであれば全件隔離までは不要になるかもしれない。その時期その時期のCOVID-19の正確な像をマメに丁寧に確認しながら、かつてのイメージに引きずられて、必要以上の人権制約が起こらないように注視したい。