【読書メモ】HIV/AIDSソーシャルワーク
こんな社会情勢なので、「感染症つながり」でこんな本を読んでみた。
そもそも、「権利擁護」と名の付く本を漁っていた中で、本書の編著者である小西加保留先生の「ソーシャルワークとアドボカシー」を手にしたことがきっかけで本書を知った。法学で「権利擁護」というと、必ず成年後見制度を通してしか扱われないところ、「ソーシャルワークとアドボカシー」は、HIV/AIDS支援を端緒とした考察となっていた点に非常に興味があったから。
こちらは、アドボカシーを正面から取り上げたものではないものの、HIV/AIDS当事者の背景にある、極めて多様な生活課題を丁寧にアセスメントし、さらには感染症プロパーの視点もふんだんに盛り込まれており、私の関心事である難病、ひきこもり、そして今後必要となる新型コロナウイルス感染症患者への支援を考えるにあたり、非常に参考となる1冊だった。
HIV/AIDSの今
まず、HIV/AIDSにつき、鉄板で発生している誤解(私も根本的に誤解していた…)の話をする。
HIV感染症とは、ヒト免疫不全ウイルス(Human Immunodeficiency Virus)に感染している状態を指す。HIVに感染しているだけでは自覚症状はない。ただ、HIVにより免疫力が低下し、通常なら症状を引き起こさないような感染症(日和見感染症)など、指標となる疾患を発症すると、AIDSと診断される。
HIV陽性者の体液の中で、HIVが存在するのは、血液、精液、膣分泌液、母乳であり、HIVが体内に侵入するのは粘膜(正規・直腸・口腔内)や傷口である。感染経路は性交渉、血液媒介(注射器の共有、かつての非加熱血液凝固製剤、輸血など)に限られる。よく目にする「食器を共有しても大丈夫ですか」「一緒にお風呂に入っても大丈夫ですか」といった懸念はまったくないということになる。
不治の病のイメージがあるが、いや、「完治はない」という意味では不治の病だが、現在多くの難病と同様、そう簡単に亡くなることはない病気になっている。HIV感染症の治療は多剤併用療法(Anti-Retroviral Therapy:ART)が行われるようになり、生命予後は飛躍的に伸びた。HIVを体内から完全に排除することができないため一生継続して服薬、しかも怠薬は耐性を生むので毎日確実に服薬しなければならない。基本的に自覚症状がそれほどない中で徹底的に毎日服薬しなければならないのはけっこうしんどいだろう。かつては飲むべき薬剤の量が多く、また1日に飲む回数も多かったが、現在の標準的な薬だと、1日1回、1錠でいいようだ。これは、私の薬の種類と服薬回数の多さを考えるとうらやましいところである。
これらを総合すると、HIV感染症患者が社会生活を営む上で、物理的に必要となる配慮は、2~3か月に1回の通院機会の確保くらいで大丈夫のようだ。
HIV/AIDSの生活上の課題
HIV/AIDSにおける生活上の課題は、HIV陽性者のライフスタイルや生活背景を反映して、非常に多岐にわたる。HIV/AIDSを通じて、今の日本における、福祉的支援課題に整理しきれない社会問題(「制度の谷間」の縮図のようなもの)に多く触れることができる。本書では、下記の13の課題について、大半の紙幅を割いて詳細に解説がなされている。
① スピリチュアリティ(差別を含む)
② 性の多様性
③ メンタルヘルス
④ 薬物依存
⑤ パートナー・家族への支援
⑥ 就労支援
⑦ 外国人支援
⑧ 薬害エイズ訴訟
⑨ 要介護状態
⑩ 社会福祉施設におけるマネジメント
⑪ 医療連携と組織マネジメント
⑫ 地域生活支援とネットワーキング
⑬ 市民主体のHIV/AIDS啓発活動
いずれも、一般的な地域福祉の課題と重なるところが多いことがわかる。現在の総合相談の体制構築の取組の中で、HIV/AIDSや性の多様性など、それほど正面から検討された形跡はあまり見たことがない。しかし、「感染症」という意味では、これからそれなりの人数のCOVID-19の元患者を地域で迎える必要があり、その際には同じ「感染症」というくくりの中で参考になる点も多い。また、制度の谷間にあって、具体的な出口支援策の乏しい中、どのようにソーシャルワークを展開するか、という意味では、難病患者やひきこもり支援にも通じるところがある。
スピリチュアリティへの支援
はじめ、この言葉を聞いた時にはなにやら宗教的な話かと思ったが、もっと内面の多様な課題のことを指す。法律の世界ではほとんど聞いたことがない単語だが、医療、看護、心理臨床、社会福祉、教育などの分野では広がりつつある概念らしい。人が生きていく中で考えたり感じたりする、「人生の意味」「苦しみの意味」「死とは」など、答えを見つけることが非常に困難な実存的な自問自答、そういったものがスピリチュアリティの一つの側面である。HIV陽性者は、純粋に医学的には医療の発展により病気と共存していけるようになった。しかし、ライフサイクルで直面する様々な課題と向き合うことを余儀なくされる。また、後述する通り、HIV陽性者は、HIV陽性である以前にさらに根深い課題を抱えていることが多く、それらが複合的に本人を精神的にいきぐるしくさせている。そうした背景事情が、恋愛、結婚、性行為、セクシュアリティ、仕事、家族関係、友人関係、老い、こうした人生のすべての段階でHIV陽性者でなければ直面しなくてもよかったはずの課題が荒波のように襲ってくる。スピリチュアリティとは、人生の危機に直面して、「人間らしく」「自分らしく」生きるための「存在の枠組み」「自己同一性」が失われた時、それらのものを自分の外の超越的なものに求めたりあるいは自分の内面の究極的なものに求める機能のことである。
ソーシャルワークの中でスピリチュアリティへのかかわりとしては、①個人の内にたまった苦悩を解放し、②その人生の語りができるコミュニティをつくり、③本人の苦しみを生み出す社会の変革を促すということが考えられる。HIV陽性者は、陽性が判明した時には「不治の病」というイメージの病気にかかった、というショックから始まり、自らの「生」と「死」といやおうなく向き合うことになる。その後、疾患理解が進むと、今度は家族や職場、学校などの社会との関係で、スティグマをどのように克服するかが非常に大きな課題となる。そうしたものを克服する経験は、一人で抱えるには非常にしんどいものであるところ、そうした思いや経験を吐露し、シェアし、社会変革へとつなげられるような支援が必要とのことであった。
法律の世界では、このような当事者のシビアな経験とそこから生まれる苦しみをどう解消するか、といった視点はほとんど出てこない。このため、私はこうしたしんどさは自分で解消する「個人的なトピック」であり、そこに専門性があるとは思いもしなかった。客観的には「取るに足らないこと」のように思っていたのである。しかし、本書は、HIV/AIDSソーシャルワークで検討すべき課題の一番初めにこの「スピリチュアリティ」を持ってきている。このことから、このテーマは、対人援助において優先度の高いテーマだったということに少し驚いた。当事者としては、病気によって要らん苦労をしてきた自覚はあるし、そのことが私自身の「人」や「社会」に対する認知を少なからずゆがめている(それがまたしんどい)自覚があるので、早期にスピリチュアリティ支援に入ることは、HIV陽性者だけではなく、大きな病から生還した者にとってその後の社会生活的な意味の予後を良好にするためには必要なことだろう。
そういえば、である。最近、テレビでCOVID-19の元患者が、その療養生活についてテレビ電話を通じて語っているのを見る機会も増えてきた。よく考えたら、いつもの風邪と思っていたら高熱と平熱の間を行ったり来たりしつつ、38℃を超えるような熱が1週間以上も続くなどそれだけでかなりの恐怖である。PCR検査で陽性になると、その瞬間は「ああやっぱりか」と納得できるかもしれないが、次の瞬間、宇宙服みたいなのを着た人がやってきて、行ったこともない病院へ連れていかれて入院することになる。周りは毎日やっぱり防護服を着た人でいっぱいだし、当然親族と面会などできないし、籍はひどくなるし、苦しいし…という経験は、それだけでひとりでは咀嚼できないだろう。想像するだけで、心身ともにめちゃくちゃしんどそうである。おまけに確たる治療法はない、謎のウイルスである。
加えて「難儀なことだなぁ」と思うのは、「三密回避」だの「外出自粛」だのとみんなで必死にやっているおかげで、感染するとどこか「みんなでがんばっているこれらのどこかをサボったと思われるんじゃないか」という無用の罪悪感が生まれる状況がしっかりでき上ってしまっていることである。「あなたの気づかないうちに、あなたの大切な人にうつしてしまうかもしれません」という注意喚起は、無症状病原体保有者がいる以上そう言わざるをえないのだけど、いざ感染すると「わ、私のせいか」という気分に思いっきりなってしまうだろう。病気なんて、生物兵器を撒かれるくらいの尋常じゃない事態でも起きない限り、人為的になるものではない(要らん事つけくわえると、時の為政者のせいでかかるものでもない。そういう言い方をしている人は、明らかに事実誤認の言い過ぎである)。
すこし考えただけで元患者たちはロクな経験をしていないことが想像される。この経験を、この恐怖を、それぞれの中から「解放する」ような、スピリチュアリティに対応するような支援が必要な気がする。
感染者のプライバシー
HIV/AIDSが、上記のように予後良好で感染も非常にしづらい疾患であるとはいえ、これまでの歴史的経緯であったり、当初薬害エイズ事件から認知されたインパクトもあり、非常に強いスティグマを伴うことは想像に難くない。実際に自分以外の者へのリスクがあるか否かと、社会や家庭から排除の理由になるかどうかとは関係がないのが悲しいところだ。この点、難病一般でも「まったく周囲に迷惑かけないのに病名を言っただけで排除される」という事象は生じるものの、やはり感染症というだけでその強度は数段強くなる。そこで、HIV/AIDS支援で極めて重要になってくるのが、プライバシーへの配慮と、地域や職場等への正しい疾患理解の啓発だ。
本書に登場するHIV/AIDSを支援するNPO法人は、当事者の就労の際に人事担当者への疾患の情報提供を行っている。提供する情報は、以下の4点である。
①職場で他の職員への感染は起こらない。
②HIV陽性者は治療により長く働けるようになった。
③HIV陽性者という個人情報を全員で共有する必要はない。他の疾患と同様の対応で、個人情報の保護の対象とする必要がある。
④職員への情報開示の範囲を広げる場合は、HIV陽性者本人の同意が不可欠である。同僚がHIV陽性だと知る側の社員にも、情報提供や支援が必要である。
特に③と④は参考になるだろう。相談支援に関する各種のマニュアルや書籍には、「個人情報を適切に管理することに注意」程度しか書かれていないが、具体的にどのようにすることが「適切に管理」と言えるのか、よくわからないことが多い。この点、③と④は、患者のプライバシーを守るための具体的行動を教示するものであり、参考になる。
本来、「感染者である」という情報は、HIV/AIDSに限らず、秘匿性が最も高い情報の1つだ。現在、COVID-19の感染者が出るたびに、おおよその住所と年齢と性別と、場合によっては職業、行動歴まで公表されてしまっている。当然氏名まで明らかになることはないが、公表する情報が増えれば増えるほど、当該感染者の周辺者は個人を特定することができてしまう。それでもある程度の情報を公表せざるを得ないのは、公衆衛生上の必要性があるからなのだが、今度はその「公衆衛生上の必要性」とは具体的にどのような必要性なのか、落ち着いて考えなければならない。一般市民としては、感染者の情報が多ければ多いほど、なんとなく安心してしまう部分はある。その「安心」によって、感染回避の行動変容に具体的に結びつくのであればいい。しかし多くの場合、その情報を聞いた私の行動に具体的に影響するようなケースなどほとんどないように思う。つい昨日も、東京から地方へ帰省している際に、COVID-19を発症したという女性のニュースがネット上で結構なボリュームで流れていた。もう気の毒すぎるのでいちいちURLを上げてさらすようなことはしないが、その情報、公衆衛生上何の必要性があって公表されるのか、と思わずにはおれない。
感染者が出ると、その関係者(児童生徒であれば学校、障害者・高齢者であれば福祉施設等)が必死に感染者や濃厚接触者の情報を求める。ただ、その理由を聞くと、感染者や濃厚接触者の利用、登校を停止し、出勤を停止するなど、要するに排除の効果を伴うことをしたくなってしまうのである。それが公衆衛生上正しい「隔離」なのか、漠然とした不安感による「排除」なのか、毎回落ち着いて考えなければならない。HIV/AIDSとCOVID-19とで大きく異なるのは、感染回避のための確実な方法が確立していない、という点であり、そこがHIV/AIDSよりも感染者のプライバシー保護を一段困難にしているように思う。支援にあたっては、最新の感染症情報を常に吸収するとともに、個人情報管理のありかたも考える必要がある。
他にもいろいろ
HIV/AIDSの背景から、HIV/AIDSソーシャルワークには、「LGBT/SOGI」と「薬物依存」についての深い造詣が必要となる。ここで恥ずかしながら、特に「LGBT/SOGI」について初めて体系だった説明に接した気がする。必要に迫られないと勉強しないのは本当に悪いクセや…
また、HIV陽性者という、少なからず医療依存度の高い人を支援するための地域福祉、多職種連携の在り方まで考察されており、これはHIV以外の疾患にも共通する部分が多いように思われた。この点は、私の知識も経験もまだ浅い部分なので、何度か読み返さないと咀嚼できないように思う。