花束みたいな恋をしたを鑑賞したが何一つ共感できなかったので、暇つぶしに感想と主人公の二人に勝手にコメントしてみた。
スマホ内を整理していると1月ごろに友人宅で鑑賞して見終わった後に書き殴っていたメモが目に入ったので、そのままnoteに載せてみる。
感想
共感も作品名全体を通して面白いと思う感情も一切沸かなかった。
強いてあげるのであれば、絹ちゃんのお母さんが
「社会ってのは風呂なの入ったら気持ちいいのよ。」
っと言っていた。
カメラの先輩は
「社会性だとか協調性だとかってのは、才能を潰すからな。負けるなよ」
っと言っていた先輩は風呂で溺死した。
つまり、社会性や協調性なき人間は社会に淘汰されることのメッセージ性を感じた。
この表現が面白かったぐらい。
あと、八谷絹役を演じる有村架純は終始可愛かった事は明記しておく。
勝手に登場人物にコメント
山音麦
絵が好きで、絵で生計を立てようとした。
ツテとはいえ、自らの絵でお金を稼ぐ事は凄い!!
だが、麦くんは自分の才能に溺れてた気がする。
値下げをされたことに落胆していたが、それは市場において自分の絵の値打ちが分かっただけに過ぎないのにだ。
あるのは現実であり事実のみ。
その現実と愚直に向き合い、絵の精度を上げたり自分の絵を評価してもらえる場をSNSなり自分の足なりで、向き合い探すことを怠ったわけだ。
「自分の絵はもっと価値があるのにどうして高値で取り引きされないんだ!」
そう思ったんだろうな。
麦くんにとっては確かに価値があるかもしれないが、社会的なモノの価値ってのは需要と供給によって市場が決めることだ思う。(無論、供給の調整もできるが。)
麦くんがあの時するべきことだったのは、諦める前に需要場所を増やすアクションだったの様に感じる。
需要があること自体に気づけてた事が素晴らしかったのになー。
あげく、自分が絵で好きなことで生計を立てることを諦めた矛先を、絹ちゃんが好きなことを仕事にすることに対して自分の諦めたことと同じ道に行かせようとするなど愚の骨頂。
自らが決めた選択だろ。
苛立ちながら、誰かの普通や生活を盾に絹ちゃんのやりたいことや好きなことを冒涜した罪は重いだろう。
次に前提として、絹ちゃんと一緒にいることが夢です。って言っていたなハードルは最初からそこなのに、麦くんが勝手に上げて下げてるだけなんじゃないのかなと。
一緒にいること+経済的豊かさを麦くんは求めていたわけだ。
それならば仕事も何故一社に固執しているんだ?
一緒にいる&経済的豊かさを求めるのならば、それを叶えるために対外活動をしたのだろうか?
就職が遅れ、勤務年数などを考えてすぐに転職は難しいって考えたのかな。
だとしたら、それは正しいのだろうか?
自分の労働市場における価値を調べる行動をしたのだろうか?
そもそも、大事な大切な前提を忘れてしまっていたような気がした。
麦くんは思いやりを持って絹ちゃんに、接することのできない自分と向き合うことが必要だったんじゃないのかな。
八谷絹
まずそもそも、自分の名前も覚えていない男と何故焼肉を食いに行くんだ?
最悪な1日にしたのは自分やないかーい!
冒頭から他己愛で自己愛を埋めようとしている行動が気になってしまった。
海で一緒に遊びに行った時に、
麦くんに
「勝手にいなくならないでよ!」
っと言っていた。
自分を肯定する存在が突如消えてしまう不安感?
過去の恋愛でそんな経験があったのかな?
それとも生い立ち?
それ以上の描写はないのでわからぬ。
麦くんが自分のことを肯定してくれなくなったから自分を肯定してくれるかもしれない、可能性があるイベント会社の社長と浮気したんだろうな。
結局、他己愛で自己愛を埋めている繰り返しの様にしか感じない。
極論すぎるが、自分に興味を持って肯定してくれれば誰でもいいんじゃないのかなと思ってしまう。
他己愛で自己愛を埋めても、一時的に埋まるかもしれないけど自己愛は結局埋まらないだよな。
自己を愛せない者が、本当に他者を愛すことが出来るのだろうか?
ありのままの自分と愚直に向き合い自己愛を形成することを怠っている絹ちゃんは、どこまでたってもいつまでたっても、あれじゃないこれじゃない。って言い続けるんだろうな。
絹ちゃんが求めてるものは他人は持ってない。
持ってるのは自分なのになー。
もしかして、絹ちゃんって幸せは誰かが届けてくれる物だと思ってるのかな?
誰かが渡してくれる幸せってのは最初は幸せに感じるけど、時間が経つと共に幸せじゃなくなる。
貰った幸せは、飽きるんだよ、見限るんだよ。つまらなくなるんだよ。
形が少し崩れたら愛せなくなるんだよ。
だから、また次の綺麗な新しい幸せを貰いにいくんだなと。
幸せって貰うのではなく自らが獲得して、それに気づく事だと僕は思うんだよな。
絹ちゃんはどう思ってるのかな?
ニ人にコメント
ニ人が楽しく過ごせていたのは、君たちがお互いの人生を形成していた10代の経験遺産なんだと思う。
20代30代も楽しく過ごしたいのなら、経験資産を増やし続けなければ楽しい時間をずっと過ごすなんて、そもそも無理だと思う。
そして、絶対という言葉に笑ってしまった。
絶対って言葉は僕は不誠実で、ずるい言葉だと思ってしまう。
僕にとって誠実とは、絶対なんて不確実なことを使うのではなく、今の楽しい時間をずっと過ごせるように目の前のことを向き合うことだと思う。
結局、10代の経験遺産を食い潰し、なくなっただけに過ぎない。
そうやって、楽しかった所だけ抽出して記憶を過度に美化して花束みたいな恋ってゴテゴテの装飾をしてラッピングしてるなら、また同じことを繰り返す気がする。
人生は酸いも甘いもあってこそだろう。
二人の甘いはホイップクリームを舐め続けてるのに過ぎない。
酸いと愚直に向き合い、食さなければ、質の高い生クリームなんて食せない。
そうやって、年齢が高くなって社会がとか、周りがとか、普通とか、適正年齢がとか、あれだけ嫌がっていた社会って言葉を都合の良いように使って、その時付き合ってる人と社会と周りの人間が作り出した幸せの形に自分を無理やり押し当てるのかな。
本当は幸せじゃないのに、幸せじゃないって思ったら自分を否定してまうことになるから、幸せって自分を言い聞かせて、虚構にまみれた本当は存在しない幸せを幸せだと言い張る。
その人生の幸せを、二人は心の底から幸せと思うことが出来るのだろうか。
思うことが出来るのであれば何も問題はないのだが。