『パルプフィクション』 再鑑賞の感じ方の違い
クェンティン・タランティーノ監督・脚本の1994年公開の映画「パルプフィクション」を再鑑賞した
パルプフィクション(Pulp Fiction)
監督:クエンティン・タランティーノ
公開:1994年
何十年ぶりかの再鑑賞。以前に観たのは十代だったと思う
改めて見ると内容もかなり忘れており、再鑑賞は多くの発見に満ちていた。通常のバイオレンス映画と言えば、暗さだったり、陰湿さなどあるけど毎回ながらタランティーノの作品は終始ポップでスタイリッシュと言う言葉が似合う。
見終えてすぐの感想は
「こんなに最高でクールな映画だったんだ!」
であった。
とにかくスタイリッシュだ。もちろんあの有名なシーン、日本流に言うとヤクザの親分の女将さんユマ・サーマンと、親分の手下であるトラボルタがカフェで食事するシーン。公開当時はどんな事を感じたか全く覚えてないのだけど、お肉の注文の時、肉の加減について「生焼けでお願い」と依頼する下りにクスッとして、その後のツイストダンスも最初は遠慮がちだったトラボルタ が結局はノリノリで踊ってしまう姿に笑いが溢れ、サタデーナイトフィーバーを思い出したりした。なんて豪華なんだろう。楽しいレストランの食事シーンはほんの少しの淡い恋心なんか目論んでそうな良いシーンなのに、結局はクスリのやり過ぎて死にかけたユマ・サーマンの鼻血顔で幕を閉じてしまうところが計算されたユーモアだと感心してしまう。
だがそんなトラボルタとユマ・サーマンの登場シーンが鮮烈で印象深いと思っていたけど、何十年ぶりに見たら私の心に残ったのはサミュエル・ジャクソンの存在感、演技力、イケメンぶりだった。ピカイチじゃないかと思った。実力派の俳優だけど他の映画で今までかっこいいと思ったことはなかった。しかし本作中ではとにかく表情の演技が素晴らしい。
殺人なんて朝飯前だったサミュエル演じるマフィアが、神に命を救われたと思い込んだ自己流の奇跡の様な出来事から、急に正義に目覚める。そしてたまたま居合わせたカフェで強盗の人質になった際、説得して人質全員を血を流さずに助ける場面、散々人を殺したサミュエルが心からの説得をするシーンは人物像と矛盾しているのに迫力があった、そして何故だか殺し屋と正義のヒーローという対比の表現がツボにハマりジワる。
タランティーノが才能溢れるクリエイターなのは間違いないのだけど、久しぶりにタランティーノを観たら、冒頭のシーンからテンポや歯切れが良くて、ストーリー展開も活き活きとしていて、いつも観ている映画との違いを思い知らされた。やはり、タランティーノってすごいのだ、天才なのだ。並外れた天才なのだと思う。
ストーリーの進行は繋がらないようで、どこかで重なり、絡み合う人間関係や、オムニバス形式で描かれるので、出来事が前後したりして、一瞬分かりづらくなる箇所もあるが(未来の物語が先に展開したり)登場人物の末路が分かっているから面白い流れになっている、その部分に感心したしワクワクした。(特に私はトラボルタ のトイレシーンの伏線的なのがめっちゃ好きだ。トラボルタ の行く末の鍵を握っているのは「トイレだ!」と内心思い嬉しくなった。)全てのセンスが光ってる、素晴らしい映画だと思う。
それから私の中の大発見。実はトラボルタ とユマ・サーマンのカフェの店員がスティーヴブシェミだった事を知り、思いがけぬサプライズを感じた。『パルプフィクション』の再鑑賞には映画の多くの発見があった。
因みに以前鑑賞したのは中学生の頃、家族でお茶の間で鑑賞したのだ。その時の会話はあまり覚えてないが、楽しかった事は覚えている。時々母と喧嘩するけど、映画をチョイスするのはいつも母だったので、良い映画を選んできてくれた事になんだか感謝したくなった。センス良いじゃんと言いたい。
名作は何度も観るべきだと思う。一度で満足していたらもったいない。複数回鑑賞してこそ自分の記憶の財産となって行く気がする。
(MacBook)