玉川からパリ経由でニジェール へ
日本に帰ってきた多数冊のスケッチブック、このほかにもさらに大判のデッサン用紙もあり、静子さんのメモが書き込まれている。
最初のスケッチブックと思われる黄色と黒の表紙には、谷垣外科医が後に整理したと思われるラベルが貼られている。
《東京玉川に住んでいた時のスケッチ 1981年1月。このあと神楽坂に住む。1982年1月にはアフリカに向けて出発する。
アフリカに足をつけてうごき出すまで佐藤T氏にすべておせわになった。その時のスケッチあり。》
玉川の市場の様子から、、次のページは、
一挙に パリ空港に移り、雪のため飛行機は出ず、長時間待たされ様子のスケッチがある。
〈1982.1.11 パリ空港にて
雪のため飛行機は出ず長時間待たされる。〉
静子さんにとって、独りでいる女性は気になる。
パリには家族連れは似合わない、素敵なカップルもいいが、この空港のシチュエーションでは一人がぴったり。
疲れ切った後姿が何かを語り掛ける。
〈1982.1.11 パリ空港にて〉
1982年1月11日、パリでのトランジット、、、ところが雪で足止めになり、その間、目の前の様子をスケッチした模様。しっかりと前を見つめ、足を組む女性からは、一人で生きる女性の強さも感じられる。これから静子さん自身が、未知のアフリカでの生活を前に、共感を覚えたのではあるまいか。気持ちを引き締めている心境と常に絵と共に生きることの決意もうかがえる。
そして1982年1月20日にはニジェールの佐藤邸に身を寄せることになる。ニアメかな、、。
そしてこのすぐ次のページには、何とあの「トワレグキャンプ」のスケッチが、、明らかにこれは1986年4月に描かれたものと思われるが、読み解いてみたい、、。
パリ空港にての1982年から4年が過ぎている。
使用していないページを4年後に使用したと考えられる。
〈(1986年.4.2 ギンギミへの旅のすべてを記録)
永い苦しい旅だった。〉静子さんのメモで始まるギンギミ(Nguigmi)への旅は想像を絶するものがある。(Nguigmi:ンギグミ、ヌギグミとも表記)
ギンギミ(Nguigmi)は首都ニアメから東に1500km、国道1号線の終点でもある。当時、ニジェールに住んでいる日本人でここまで行った人を谷垣夫妻を除いて、私は知らない。
150㎞手前のデイファまで行って戻った青年海外協力隊員が「人間業では行けない所」と言っていたのを聞いたことがある。
静子さんが『長い』ではなく 『永い』苦しい旅と記したことに当時の様子を推し測るしかない。
「トワレグキャンプ」のスケッチがこの時の日記の中に描かれている。
えー、、、イケメントワレグの位置が違っているし、、、奥さんとは仲もよさそう、、ジャー右の人は誰なの手を顎に当てているポーズは同じだ、、
待てよ!中央に描かれて、消されたトワレグの跡がある、、何があったんだろう?? (続く)
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