「里神楽」 湖泊堂
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「里神楽」 湖泊堂
春の景色も暮れて行く片田舎は、穂たけに延ひたる麦畑に落下後もなく、見渡す限り野は緑を敷きて、道の邊の楓若葉そよぐ、風の音も心地よき夕暮の空は、宵ながら中天の満月薄く眞綿ひきたる雲に包まれて艶やかなり、すき返したる田面に鳴く蛙の声に、障子一枚明けて置く藁屋は、嫗一人留守もりの徒然なるに、背戸の方には里神楽の囃子賑はしく聞えて、鄙には珍しき木履の音踏鳴らして大勢引連れて行く野道の彼方の杜、人声どよみて、月夜ながら蒟鬱たる木蔭に、篝火の燃へ上がりたるが端近き水田に映して、さながら蓮華草を布きたる上に躑躅を散らしたるが如し
お駒ちゃん、疾うお出ヨ、もう御神楽が始まつてらァネ。三ちゃん浮雲ヨ、芳ヤ跌倒といけないよ。金ちゃんそうら草履が脱げたヨ。お母さん花簪買うんだヨ。勢坊やたんと意地悪をおし。此の子は騒々しいネ。真実に嬉しいのだヨなど、口々に喚子鳥、一群行き過ぐる後より若き男一人、又其のあとより一人、前なるを呼止め。こう吉ちゃん待なよ、お菊さんの顔見に行んだってそう急がずと宜はな。ヤ大将かおそいぢゃねえカ。家業が有らァな、少しは稼ぐ気も有ろうぢゃねえカ。違へねえ、急に世帯じみたナ。時に久さん、今植木屋の主婦が往ッたが。何か言ったか。言たが奢るかい、マア奢るかといふ事ヨ。あんネお白さんが半元服に成りて大変よく成ッたとヨ
斯くて杜頭に出づれば、道の片邊には大傘ひろげたる飴屋、渋紙の屋根したる玩具店、豆屋、吹矢売る店など、灯を連ねて並びたるに続きて、華表の中の敷石の片側にも簪屋、餅屋、すし店、其先は甘酒屋の角行燈紅くてり、正面の社殿は神燈奥ふかく輝きて、高欄人の山をなし、社殿より華表迄、群集揉みあいて、右手の神楽堂を取巻きてひしめくに、今しも吹立つる笛に連れて、狂ひ舞う神楽師の袖、軒に懸連ねたる紅燈にきらめけは、群集声々に囃したつる中にも、耳立ちて後の方より鬨を挙げたる、見れば甘酒屋の後の庚申堂の家根の小暗き樹下に、小供廿人許手を振り足踏してさわぐ、ここの石燈籠下の一組、あかき顔して覗き、彼処の唐獅子べの一連大口開きて見入りたり、禿頭をふつて笑う老人の後には姉の背に涎くる泣き児あり、鶴頭の銀杏返し前なる人の肩に顎を凭せ、丈低のチョン髷隣人の肘に額を打つ、興二坊やここだよと大声なる神さん歯をむいで噪鳴れば、裁衣着たる男つま立の足敷石を踏みはづし、前後二三人動揺けは、長さん人の足ふんで痛いヨとふりむくは島田なりか、かんこうの上襟、手拭かけたままの後家あれば、とうざんの羽織、尻まくりたる若い衆抜目なし、最前の二个も此中に押入りたるが梳付けた儘の香油ひとしほ光りたるは吉公の散髪いちじるし、此の雑踏を避けて社殿の左側寂しき木立の下にひそみて語らう一対の島田あり、二人共羽織はなくて小さっぱりと見苦しからぬ服装、灯影をよけても知るく、顔の色の白きは水田にやどる月の光に映りて、口元の愛嬌はいづれ躑躅山吹
お蝶さん、お前作さんの所へ嫁ぐのかえ、返事をおしな、私だって少量は智慧が有らァネ、お爺さんやお母さんは何とおいゝだえ。お爺さんは往けてっていふんだけれど、お母さんは勧めもしないの、どうでもおしッテ。其れならお帰きな、本統に作さんは好人だよ、誰れもあの人を悪くいふ人はないヨ、あゝいふ淡白した人は持たいッて滅多に有りはしないヨ、斯ふ言ふと私しゃもう何家へ帰ッたようだネ、お笑いでないヨ、私しゃお婆さんと謂はれてるんだから、本統にお前はどういふ気なの、一生お嫁に往かないッて、其んな事は出来やしないヨ、又作さん程の人を措いて、他に好きな人が有らう筈もなし、と言ひかゝる処に、今しも妖怪を斬りたる神楽の喝采の声どうと挙がれば、少し歩み寄りて群集の中を指さし、彼処に居るのはお嬢のお舅じゃないか、気の若い人だネ。アノお菊さんあのネ……。其れじゃ何かえ、作さんのお爺さんがお前を家のお嫁にもらひたいッて、其を見てもわかるヨ、本統に温柔しい人だヨ、早く了簡をお極めよ、今から奉公に出たいッて、お前は御屋敷へさへ往けば面白いものを見て計居られるように思ふだらうが、私ゃこりごり、御乳母さんに告口をされたり、抱えの車夫に戯弄られたり、私しの髪が好く出来たってお嬢さまにすねられたり、お茶のいれ様が悪いって御隠居様に叱られたり、通常一般の辛棒で、一年と勤まるものぢゃないよ、其れもたってとお前が奉公に出る積りなら、私や悪気で言ふのぢゃないヨ、マアとっくり考へてご覧、世間に男は幾人も有るけれど、作さんに不足とおいゝでは有まいけれど、アレお蝶さんいやな人だヨ、泣なくっても宜いヨ、御亭主さんの事を悪るく言った様にお聴かえ、何もお前の奉公に出たいといふのを浮気だなんて、其んな事何時言たえ、本統にお前は餘んまり処女過ぎるヨ、まあ一年許東京へ往ッてお出ナ、其迄延引てもらう様に頼でおもらひヨ、作さんだって辛棒するだらうから
且つ説き且つ慰むるほどに、折しも一番の神楽終わりしと見えて再び高く擧げたる喝采の声につゞきて東西に呼び合う声々耳聴えず成るはかりなるに、此方へ来るは四十路餘りの婦、其れと目敏く、オヤ伯母さん、お菊さんか、お蝶お前もここに居るの、お菊さん此間は、と是れにて互に挨拶有りて、暫時前面を眺めて三人佇立居るところに、以前の吉公イヨ材木屋の伯母さんと、呼びかけて、此方へ走り来るを、お菊見て急に腰を屈め、アのお伯母さん、今晩は是れから少し用がありますから、お蝶さん左様なら、明日なと御出ヨ、待ッて居るから。宜ぢゃないか、もうひとつ見てお往ナ。イゝえお嫗さんが一人ですから、又叱られると、左様なら、と双方会釈して裏のあぜ道をめぐりて野路に出づる、其のあとを追うて行きし人影、山吹の咲きこぼれたる柴垣の辺り過ぎんとする乙女が袂をひきて止むれば、ふりかへり見て。オヤ作さんか、と言へば、寄りそひて、耳に唇を押あて、私はお前を、との一言、あとは田に鳴く蛙音をそへて月は二重の雲の裡に曇りぬ。(終)
「里神樂」 湖泊堂(旧字体)
春の景色も暮れて行く片田舎は、穂たけに延ひたる麥畑に落下後もなく、見渡す限り野は緑を敷きて、道の邊の楓若葉そよぐ、風の音も心地よき夕暮の空は、宵ながら中天の滿月薄く眞綿ひきたる雲に包まれて艶やかなり、すき返したる田面に鳴く蛙の聲に、障子一枚明けて置く藁屋は、嫗一人留守もりの徒然なるに、背戸の方には里神樂の囃子賑はしく聞えて、鄙には珍しき木履の音踏鳴らして大勢引連れて行く野徑の彼方の杜、人聲どよみて、月夜ながら蒟鬱たる木蔭に、篝火の燃へ上がりたるが端近き水田に映して、宛然蓮華草を布きたる上に躑躅を散らしたるが如し
阿駒ちゃん、疾うお出ヨ、もうお神樂が始まつてらァ子。三ちゃん浮雲ヨ、芳ヤ跌倒といけないよ。金ちやんそうら草履が脱げたヨ。阿母さん花簪買うんだヨ。勢坊やたんと意地惡をおし。此の子は騒々しい子。眞實に嬉しいのだヨなど、口々に喚子鳥、一群行き過ぐる後より若き男一人、又其のあとより一人、前なるを呼止め。こう吉ちあん待なよ、阿菊さんの貌見に行んだつてそう急がずと宜はな。ヤ大將かおそいぢゃねえカ。家業が有らァな、少しは稼ぐ氣も有ろうぢやねえカ。違へねえ、急に世帯じみたナ。時に久さん、今植木屋の主婦が往ツたが。何か言つたか。言たが奢るかい、マア奢るかといふ事ヨ。あん子阿白さんが半元服に成りて大變よく成ッたとヨ
斯くて杜頭に出づれば、道の片邊には大傘ひろげたる飴屋、渋紙の屋根したる玩具店、豆屋、吹矢賣る店など、灯を連ねて並びたるに續きて、華表の中の敷石の片側にも簪屋、餅屋、すし店、其先は甘酒屋の角行燈紅くてり、正面の社殿は神燈奥ふかく輝きて、高欄人の山をなし、社殿より華表迄、群集揉みあひて、右手の神樂堂を取巻きてひしめくに、今しも吹立つる笛に連れて、狂ひ舞う神樂師の袖、軒に懸連ねたる紅燈にきらめけは、群集聲〻に囃したつる中にも、耳立ちて後の方より鬨を擧げたる、見れば甘酒屋の後の庚申堂の家根の小暗き樹下に、小供廿人許手を振り足踏してさわぐ、爰の石燈籠下の一組、あかき顔して覗き、彼處の唐獅子べの一連大口開きて見入りたり、兀頭をふつて咲ふ老人の後には姉の背に涎くる泣き兒あり、鶴頭の銀杏返し前なる人の肩に顋を凭せ、丈低のチョン髷隣人の肘に額を打つ、興二坊や爰だよと大聲なる神さん齒をむいで噪鳴れば、裁衣着たる男つま立の足敷石を踏みはづし、前後二三人動揺けは、長さん人の足ふんで痛いヨとふりむくは島田なりか、かんこうの上襟、手拭かけたまゝの後家あれば、とうざんの羽織、尻まくりたる若い衆抜目なし、最前の二个も此中に押入りたるが梳付けた儘の香油ひとしほ光りたるは吉公の散髪いちじるし、此の雑閙を避けて社殿の左側寂しき木立の下にひそみて語らう一對の島田あり、二人共羽織はなくて小さつぱりと見苦しからぬ服装、灯影をよけても知るく、顔の色の白きは水田にやどる月の光に映りて、口元の愛嬌はいづれ躑躅山吹
阿蝶さん、阿前作さんの處へ嫁ぐのかえ、返事をおしな、妾だつて少量は智慧が有らァ子、阿爺さんや阿母さんは何とおいゝだえ。阿爺さんは往けてつていふんだけれど、阿母さんは勸めもしないの、どうでもおしツテ。其れならお歸きな、本統に作さんは好人だよ、誰れもあの人を惡くいふ人はないヨ、あゝいふ淡白した人は持たいッて滅多に有りは志ないヨ、斯ふ言ふと妾しやもう何家へ歸ツたようだ子、お咲ひでないヨ、妾しや阿婆さんと謂はれてるんだから、本統に阿前はどういふ氣なの、一生阿嫁に往かないッて、其んな事は出來や志ないヨ、又作さん程の人を措いて、他に好きな人が有らう筈もなし、と言ひかゝる處に、今しも妖恠を斬りたる神樂の喝采の聲どうと擧がれば、少し歩み寄りて群集の中を指さし、彼處に居るのは阿嬢の阿舅じゃないか、氣の若い人だ子。アノ阿菊さんあの子……。其れじや何かえ、作さんの阿爺さんが阿前を家のお嫁にもらひたいッて、其を見てもわかるヨ、本統に温柔しい人だヨ、早く了簡をお極めよ、今から奉公に出たいッて、阿前は御屋敷へさへ往けば面白いものを見て計居られるように思ふだらうが、妾やこり〳〵、御乳母さんに告口をされたり、抱への車夫に戯弄られたり、妾しの髪が好く出來たって阿嬢さまにすねられたり、お茶のいれ様が惡いつて御隠居様に叱られたり、通常一般の辛棒で、一年と勤まるものぢやないよ、其れもたつてと阿前が奉公に出る積りなら、妾や惡氣で言ふのぢやないヨ、マアとつくり考へてご覧、世間に男は幾人も有るけれど、作さんに不足とおいゝでは有まいけれど、アレ阿蝶さんいやな人だヨ、泣なくつても宜いヨ、御亭主さんの事を惡るく言つた様にお聴かえ、何も阿前の奉公に出たいといふのを浮氣だなんて、其んな事何時言たえ、本統に阿前は餘んまり處女過ぎるヨ、まあ一年許東京へ往ッてお出ナ、其迄延引てもらう様に頼でおもらひヨ、作さんだつて辛棒するだらうから
且つ説き且つ慰むるほどに、折しも一番の神樂終わりしと見えて再び高く擧げたる喝采の聲につゞきて東西に呼び合う聲〻耳聴えず成るはかりなるに、此方へ來るは四十路餘りの婦、其れと目敏く、オヤ伯母さん、阿菊さんか、阿蝶お前も爰に居るの、阿菊さん此間は、と是れにて互に挨拶有りて、暫時前面を眺めて三人佇立居るところに、以前の吉公イヨ材木屋の伯母さんと、呼びかけて、此方へ走り來るを、阿菊見て急に腰を屈め、アの阿伯母さん、今晩は是れから少し用がありますから、阿蝶さん左様なら、明日なと御出ヨ、待ツて居るから。宜ぢやないか、もうひとつ見てお往ナ。イゝえ阿嫗さんが一人ですから、又叱られると、左様なら、と隻方会釈して裏のあぜ徑をめぐりて野路に出づる、其のあとを追うて行きし人影、山吹の咲きこぼれたる柴垣の邊り過ぎんとする乙女が袂をひきて止むれば、ふりかへり見て。オヤ作さんか、と言へば、寄りそひて、耳に唇を押あて、私は阿前を、との一言、あとは田に鳴く蛙音をそへて月は二重の雲の裡に曇りぬ。(終)
底本:「早稲田文学」第一次 第二期
発行:明治29年1月10日