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スイカ割りの話

3年前の夏に、子どもさんたちと鹿児島市の磯海水浴場に出かけまして、海水浴とスイカ割りをしました。

私はそれまで、スイカ割りなんて、楽しくも何ともないと思っていました。「みぎー」とか「ひだりー」とか、まわりの大人はからかっているのかのような言葉しか言わないし、なかなか割れんし、割れたとしても、飛び散ったりするから、せっかくのスイカが無駄になってしまう部分も出てくるし。

とっとと食べたい子どもの気持ちとしては、さっさと包丁で切って、配ってくれねーかな、としか思っていなかった。なかなか割れないと、スイカがぬるくなるじゃねえか。

今でも、スイカ割りというのは子どもさんのためのもの、というよりは、大人が楽しむものだと思っている。子どもたちが右往左往するのを、大人が見て、子どもの成長を楽しむもの。子どもは別にそんなに楽しくない。

3年前にスイカ割りをしようと思ったのも、単に私がやりたかっただけで、その意味では私が年を食ったということなのかもしれないけど、少しだけ心境が変わったこともある。

「できたけどやらなかった」「やったけどそんなに楽しくなかった」というのと、「できなかった」「する機会が無かった」というものの間に大きな隔たりがある、ということに気がついたからだ。

昔、伊集院静先生や椎名誠さんのエッセイで、「入学式の時に、親が、いいスーツが買えるお金をくれた。スーツなんて欲しくなかったけど、「買えるけど買わなかった」と「買えない」というのは、気持ちの部分で大きく違うから、金は持っとけと、親に言われた」という話を読んでいたのだけれど、その親の気持ちがようやくわかったのだと思う。

「買いたくないから買わない」というのと「買えないから買わない」というのでは、みじめさの度合いが違う、と。

相対的貧困と呼ばれる人たちは、「ゲーム機を買うことはできる」けど、「進学の、就労の、選択肢を増やすための塾に行くことができない」。

「スイカは食べれる」けど「スイカ割りをするだけの精神的な余裕が無い」。

スイカは無残に割れる、もったいない、でも、その心の余裕を、無駄に思える時間を、大人が提供できるかどうか。

スイカ割りなんて、つまんなくていい。
あんなもの別にやりたくもなかった。
やりたくない子はやらなくていい。
でも、「やろうと思えばできた(けどやらなかった)」と「そもそも、やることができなかった」は違う。

 やりたければやればいいし、やりたくなければやらなくていい、その選択肢を提供することも、私の仕事の1つだと思っている。

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