『トイストーリー4』のなるべくしてなった答えと登場キャラの意味を考える
※形式上断定口調のような文章が続きますがあくまで個人の感想・解釈です。
※タイトルを当初から変更しました。
※2023/11/30加筆
はじめに
ウッディ、この古いカウボーイ人形のストーリーは今までどのように見られてきたのだろうか。
彼は勇敢で、皆に慕われるおもちゃのヒーローだろうか。
『トイ・ストーリー』シリーズと共に成長してきた私は漠然とした違和感を持っていた。
ウッディは、どうしてこんなにも ひとりぼっち なんだろうか
完璧な結末と評判高いトイストーリー3を観たときに、それは確信になった。
私は2歳の頃にトイストーリーに出会い、それから今でも人生で一番重要な作品だ。
3にはもちろん私も多くのファンに漏れず、上映中何度も号泣し、しばらく座席から立てないほどだった。
もうこれ以上泣く映画はないだろう。
その感動が冷めやらぬうちに、4が来た。
その時、私はこの映画が全シリーズの“忘れ物“を、綿密に拾い上げていることに気がついた。
それは何か?
3の後半で追い詰められたロッツォが悲痛に叫ぶ台詞がある。
「俺たちはみないつか捨てられるゴミだ!!それがおもちゃなんだ!!!」
2ではプロスペクターもまた、いつか捨てられるだけだぞと宣告する。
これは人間で言えば、「どうせみないつか死ぬのに、どうして生きるのか。何のために生きるのか、なぜ頑張るのか?」といった問いによく似ている。
このおもちゃにとって必ず来たる運命の影がずっと示唆されていながらも、
3ではこれに対する直接的な回答は特にされなかった。
おもちゃであること、ゴミになるということ。
この背中合わせの問題に真摯に向き合い、突き詰める時が来たのが4だ。
当記事はウッディのこれまでの人生を通して、「おもちゃの使命」とは果たして何だったのかを掘り下げ、
フォーキーがもたらした「癒し」と
ギャビーギャビーという存在の特殊性、
そして作中でやや謎めいているバズ・ライトイヤーの言動の意味や、
ボー・ピープのビジュアルはなぜ変化したかなどをキャラクターごとに考察していく。
1、ウッディ –孤独なカウボーイあるいは子供部屋の独裁者
●「決して仲間を見捨てない」という問題提起
ウッディは決して仲間を見捨てない。
3の最後でアンディから贈られたこの言葉は、ウッディの最終的な評価とするにはあまりにも多くの複雑な問題を含んでいた。
仲間とは誰のことなのか、持ち主を大事にすることと仲間を大事にすることは果たして両立可能なのか?
今までのウッディの歴史を振り返ると、
1ではアンディを取られる嫉妬のあまり起こした行動でおもちゃ殺し疑惑で仲間たちから不信感を抱かれていた。
2では今まで過ごしたアンディとアンディのおもちゃの仲間達か、それともいずれアンディに捨てられて傷つく恐怖から逃れるためにラウンドアップの仲間たちと遠くに行くかという板挟みになる。
3ではアンディの家から離れて保育園に行こうとする仲間たちに怒り散らし、喧嘩別れをしそうになる。
ウッディは持ち主のことに必死になりすぎるあまりに仲間たちを蔑ろにしてしまうことが度々あった。
“原因“は、持ち主へのあまりに強すぎる想い、自分にはこれしかないのだという依存心。
なぜ「これしかない」のだろう。
持ち主のために、本来支え合うはずの仲間たちを遠ざけてしまうから、持ち主の他に何も残らなくなってしまうのだ。
しかしその持ち主は、ずっとウッディの側にいて、ずっとウッディを選び続けるとは限らない。
“原因“が解決されない限り、ウッディは同じことを繰り返し、永遠に孤独だ。
すなわち「ウッディは決して仲間を見捨てない」は、“結論“ではなく、“これからの目標“でもある。
ウッディにひとりぼっちにならないでほしい……という、アンディの持ち主としての最後の願いが込められている。
今までは持ち主を第一に考えてきたウッディ、アンディによって集められたおもちゃ、アンディの遊び方によって形成されてきた関係が、アンディを介さない形での「仲間」とのストーリーはまだ始まったばかりだった。
しかし3で「仲間を決して見捨てない」テーマを挙げたものの、しかしそれは今までずっと繰り返し唱えてきた「持ち主の側にいることがおもちゃの役目」と両立困難であり、矛盾すらする。
仲間を大事にしようと思えば、アンディと離れることになる。
アンディを大事にしようと思えば、譲り渡されてゆく仲間、ボー・ピープと別れることになる。
この葛藤はウッディの苦しみの一つだった。
4ではこの複雑な矛盾の解決に挑むストーリーが繰り広げられていく。
この章では、4で解決されるべき問題の確認をしていきたい。
●おもちゃの使命
ウッディは、アンディという子供の一番のお気に入り。
それはおもちゃにとって最高の栄誉であり、誇らしく、喜ばしく、幸せなことなのだろう。
しかしそれゆえに、誰もウッディの気持ちを理解できる者はいなかった。
3で、手違いによりアンディに捨てられたと思ったおもちゃたちが保育園へ活路を見出した時、ウッディだけがそれを引き留めた。
しかしウッディだけがアンディと一緒に大学へ行くという特別扱いの立場がある。
ゴミ袋に入れられていなくとも、屋根裏部屋行きに不安を感じていた他のおもちゃたちとは気持ちを共有することがなかなかできないのである。
ウッディのアンディへの思い入れと信頼は、他のおもちゃとは一線を画しているのだ。
他のおもちゃはもう少しドライだ、バズですら。
本当に捨てられたのだとして、これがウッディだったらこうも切り替えることはできないだろう。
ここではウッディと他のおもちゃとの明らかな境界線、隔絶が突きつけられていた。
ウッディがこのように孤立したのは初めてのことではなく、1でおもちゃ殺しの疑惑がかけられた時も仲間たちから見放されてしまう。
ウッディはアンディのおもちゃたちのなかでかなり浮いた存在で、あまり人望があるとは言えないかもしれない。
ウッディは2で一度だけ靴の裏の名前を消し、アンディのおもちゃとして生きる以外の道を考えたこともあったが、それだけ同じ背景を共にする仲間と出会えたことに新鮮な喜びがあったのだろう。
子供と遊び、子供を幸せにすることがおもちゃの使命だと、ウッディは強く信じ、一生懸命になるが、でも大半のおもちゃにはそこまでの意識がないように見える。
3で登場するボニーの元々のおもちゃたちは、子供と遊んでいるというよりは、「演技をする」と捉えている。
子供とおもちゃの関係は、どうやらおもちゃそれぞれの解釈の仕方があるようだ。
そもそもおもちゃの使命が全てのおもちゃが共有しているべき絶対のルールならば、自分がおもちゃであるという自覚もなく、自分は子供のためではなくスターコマンドの使命のために生きていると自認するバズライトイヤーのような状態にはならないはずだ。
ウッディの信念は、おもちゃがおもちゃとして生まれた時からインストールされているデータのようなシステムではなく、ウッディがそれだけアンディの一番お気に入りのおもちゃとしてのつながりが強いがゆえの情熱と恩義、信頼と愛情からできている。
しかし、それは他の誰にも理解できない。
ふとアンディとの思い出話をしたくとも、それは他のおもちゃにとっては嫌味になってしまうだけだろう。
ウッディは一番のお気に入りであるがゆえに、孤独だった。
唯一の心の拠り所であったアンディとも離れた彼は、よりいっそう天涯孤独の身の上になってしまった。
しかしそもそも、おもちゃの使命とは、何か、一体どこから来たのか?
当記事ではウッディに対して、いくつかの厳しいことを指摘することになるが、決してウッディの名誉を意味もなく汚したいわけではない。
ファンとして辛くとも、ウッディの功罪の、罪の部分を、彼の未熟さと向き合うことが、4の意義を理解することに繋がるからだ。
おもちゃの使命、それは本当はアンディの子供部屋という、ほんの小さな世界でウッディだけが主張していただけにすぎないのではないか。
そしてそれこそが、おもちゃたちの間に断絶を呼んでしまってはいまいか?
まさに、ロッツォ(彼は元一番のお気に入りおもちゃである点がウッディとよく似ている)が保育園を支配していた時に敷いていた理不尽なルールのように、ウッディが自分自身と他のアンディのおもちゃたちに強いた、アンディを想うがゆえの“子供部屋のルール“だったのではないだろうか……
アンディのおもちゃたちが誰一人、ここから逃げ出したりしないように。
しかし子供部屋の外には、まだウッディの知らない空が広がっているのだ。
●おもちゃの自殺
4で私たちは、未だかつて見たことがないほど不安定な状態のウッディを目の当たりにする。
アンディから離れたウッディは、自身の存在意義を見失ってしまう。
もう子供の一番のお気に入りという立場もない、おもちゃたちのリーダーでもない。
まるで今まで何も顧みずに仕事一筋で一生懸命やってきたけど、世代交代が来て、引退後呆気なくやることがなくなり、家庭にも居心地の悪いお父さんようである。
自分が今まで頑張ってきたことは果たして何だったんだろうか。
今まではアンディがその努力に見合うだけ愛してくれたけど、ボニーはそうじゃない。
子供がどんなおもちゃを「お気に入り」とするかは分からない。
いつもウッディが選ばれるとは限らないのだ。
ウッディが尽くせば尽くすほど報いてくれるような保証はない。
彼はそのギャップに苦しむ。
それでもボニーのために行動を起こし続けようとし、フォーキーをゴミ箱から遠ざけ続けて疲弊していく様子は、育児ノイローゼを彷彿とさせる。
さらにアンティークショップでフォーキーの救出作戦を実行するシーンがあるが、ここでウッディは今までの慎重さからは考えられないくらい無謀な振る舞いをし、作戦は失敗することになる。
なぜそんなことになったのか?
無事に帰ろうと思っていないからだ。
「俺にはもうこれしかないんだ!!」
ウッディはそう叫ぶ。
フォーキーさえ戻せれば自分はもうどうなってもいい。
むしろこうすることでしか子供の役に立てない。
自分の存在価値を感じられず、心が無茶苦茶になっていて、もう死にに行こうとしてるかのような自暴自棄の自殺行為でしかない作戦だった。
ウッディはなぜそこまで追い込まれたのか。
その様子はあまりにも痛ましく、ファンとして胸が詰まるが、しかし今までのアンディとの関係を思えば、そう簡単に切り替えることができないのも無理はないとも感じる。
それと同時に、今までのアンディを支えてきた行動に、「自分を支えるため」の意味も含まれていたからではないか。
それは捨てられたくない、“用済み“になりたくないという切実な恐怖から逃れるためだ。
このようにして、仲間と子供の両立困難問題に対して浮上してくる、
「仲間を蔑ろにさせてしまうおもちゃの使命」と、「“子供のため“は自分のために過ぎない可能性はないか?」という“壊れた部分“に目を向け、4での様々なキャラクター描写を通して“修理“していこう。
2、フォーキー –ゴミ箱からやってきたおもちゃ
●俺たちはみないつか捨てられるゴミだ
もし私たちが明日の朝目覚めたら、突然一つの小さなおもちゃになっていたとしたらどうするだろう。
フォーキーの存在は、そのように考えてみることを観客に促す。
フォーキーがゴミ箱に入ろうとするのは、
生まれて来たくなかったから。
何故なら人生は苦しみや恐怖に満ちていて、そんな思いをするくらいなら生まれて来ない方がマシだと叫びたくなるような出来事がたくさん存在するからだ。
実際、彼がおもちゃになんて生まれたくなかったと叫ぶのも頷けるほど、おもちゃの人生は確かに過酷で恐ろしく、悲惨だ。
ピクサーの映画では度々子供のキャラクターが登場するが、その描き方は天使のような可愛い生き物とは程遠いことが多い。
『モンスターズインク』ではモンスターたちは子供に近づくことを恐れるし、『ファインディング・ニモ』では子供は魚たちを悪戯に掻き乱し、指先一つで死を感じさせるほど恐怖の存在だ。
好奇心旺盛でありながら力加減を知らず、気まぐれで凶暴な子供たちはどんなモンスターよりも最恐のモンスターであり、小さき者たちにとって脅威に他ならない。できるだけ近づかない方が得策だ。
にもかかわらず、『トイ・ストーリー』のおもちゃたちは、子供に対してその小さな身に余るほどの愛情を感じてしまうことがあり、愛されたいと焦がれてしまう。
けれども子供たちは、そんなおもちゃの健気な想いや献身に半分も、いや小指の甘皮ほども応えられない。
毎日大量に生産されるおもちゃの数に対して、子供の数はあまりに少なく、持ち主を得ることですら難しいことが4で描写される。
念願の持ち主を得られたとしても、子供たちはなんの悪気もなくいともあっさりおもちゃを失くしてしまう、壊してしまう、忘れてしまう。
3のヴィランであったロッツォがその経験を語ってくれるだろう。
持ち主のデイジーはロッツォを大切にしていた。
しかし、失くしたおもちゃの買い直しという、私たちの誰だって何気なくやるような些細な行為で、ロッツォはこの世の終わりのごとく深く傷つけられ、彼の心は壊れてもう元に戻らなかった。
「子供は毎日のようにおもちゃを失くす」
4のボーはそう繰り返す。
アンディはまるで他の子供とは一線を画すほど完全無欠な子供のように見えるが、しかしそれはお気に入りとして保全されてきたウッディの目から見ればだ。
アンディだっておもちゃを失くす。
4の冒頭では取り残されてしまったラジコンカーをウッディとボーが救出するシーンが描かれた。
2では部屋の片隅で忘れられていたペンギンのおもちゃウィージーもいた。
他の子供と同じように、おもちゃに飽きることも、おもちゃを捨てることもある。
何よりウッディ自身が何よりもそれを恐れてきた。
アンディのおもちゃであっても安心できるわけではない。
1でクリスマスにバズが来た時は、自分に飽きられてしまうこと焦りと不安を抱き、
2で腕が千切れてしまったウッディは、それに失望したアンディが自分をゴミ箱に放り込むと、ゴミ箱から無数の手が伸びてきてウッディを底へと引き摺り込む……という恐ろしい悪夢を見て強い恐怖心に駆られる。
このシーンは子供の頃に見ていてトラウマ級の描写だった。
例え比較的おもちゃを大事にしているように見えるアンディの一番のお気に入りであっても、ウッディは飽きられて捨てられてしまう、「ゴミになってしまう」可能性といつも隣り合わせで、常に怯えていたのだ。
それはボニーのところに限らず、ウッディはずっとそういう心配に苛まれ、それはどんな子供のところに行ったところで尽きることはない。
このように、今までのシリーズを通して、おもちゃにとってのゴミ箱は恐怖の象徴のようだったはずだ。
だからウッディがフォーキーを追いかけて自らゴミ箱のなかに入っていったシーンすら、私はゾッとしてしまった。
トイストーリーに慣れていればいるほどこのまま大人が気付かずゴミ袋をまとめてゴミ捨て場に持っていてしまうんじゃなかろうかとか……とにかく悪い予感ばかりよぎって不安になる自分に気がつく。
4では何も起こらない。
ゴミ箱はただのゴミが入った箱だった。
使い捨て先割れフォークにとっては、辛い人生と比べれば、ゴミ箱の方がずっと安住の地なのだ。
ところがウッディにしてみれば、自分をゴミだなんて“蔑む“なんてネガティブも甚だしい。
おもちゃという、子供を、ボニーを喜ばせる素晴らしい使命を持った存在として誇りを持ってもらわなければならない……
しかしウッディのそんな信念は、フォーキーの「なんで?」という素朴にして哲学的な疑問を投げかけられていくのである。
●“ゴミ“を恐れることなかれ
フォーキーはハイウェイでウッディに車へと連れ戻される道すがら、アンディのおもちゃとして楽しかった、素晴らしかった、幸せだった思い出を聴く。
この詳しい内容は作中では省かれているが、しかし今までのシリーズを見守ってきた我々にとっては描かれなくてもよく知っていることだ。
するとフォーキーは「ボクはボニーのゴミだ!」という形で納得したものの、ウッディをさらに困惑させる。
なぜ、フォーキーはゴミでいることがそんなに好きなのだろうか?
まずウッディにとって「ゴミになること」には二つの意味がある。
一つは、おもちゃにとっての死を感じる事象であること。
そしてむしろウッディが死よりも恐れている二つ目は、**誰にも必要とされず、役に立たない用済みになる**ということだ。
一方フォーキーは、ウッディに「なんでゴミ箱に行きたいんだ?」と聞かれて、
「あったかい、落ち着くし、こう囁かれている感じ、何もかもうまくいくって」と、あの恐ろしいゴミ箱とは全く真逆のイメージを答える。
見ていた私も戸惑いを覚えたほどの大どんでん返しである。
ゴミ箱からやってきたフォーキーは、ゴミであること、ゴミになることを恐れない。
誰にも必要とされなくてもいい、誰の役に立たなくてもいい。
それは全然怖いことではない。
フォーキーにとってむしろ心の平穏なのだ。
むしろウッディが陥っているように、「役に立つものでなければならない」という強迫観念に晒されるような生こそを忌避するのである。
フォーキーにはおそらく「全ての出生は不幸であり、生まれてこない方がよい」という反出生主義あるいは厭世主義や悲観主義と呼ばれる古くからの思想が意識されてと思われる。
これをフォーキー風に言い換えれば「子供のおもちゃなどになるべきではない、もしなってしまおうものなら速やかにゴミ箱に向かうべし」であろう。
トイストーリー4以降にピクサーが製作した『ソウルフル・ワールド』でも中心的なテーマとして改めて言及されていることから、昨今ピクサーはその克服が現代的問題をも切り開く鍵として高い関心を寄せていると伺える。
その内容は、フォーキーを理解するにも手がかりとなる。
何者かになること、人々に賞賛される優れた選ばれし者であることが絶対に正しく、唯一の幸福であるとする生は、幸運にもそうなることができれば喜びはひとしおだが、しかしそんなチャンスに恵まれなければ息苦しく、ただ重荷としてのしかかり、それが生の苦しみとなる。
自分がひどく情けなく、つまらない、生きてても意味のないダメな存在のように感じてしまう。
でもそうではなく、ただ単に歩く楽しさ、吹く風の心地よさを感じ、色づく葉の見事さ、空の美しさと出会えることを喜びのなかにも「生まれてきてよかった」と思えるような生もあるのではないのだろうか……
反出生思想については様々な意見がある中で、ピクサーはその克服に向けて以下のように解釈しているのではないかと提示できる。
この「生まれてこない方がよい」という強い悲しみは、何か意味あるものになろうとして、それが何においても重要であると思い詰めるあまりそれが叶わないこと、叶わないにも関わらず叶うこと以外には何も価値がないと人生自体を無意味に感じてしまうことへの無力感と絶望から訪れていると。
これは主にディズニーが長年「信じれば夢叶う」というテーマを展開してきたことを完全に否定するわけではないにしても、カウンターである。
夢は大事だが、しかし現実的に考えて、残念ながらすべてがうまくいくとは限らない。
失敗し、挫折することも、チャンスに恵まれないことも、努力と想いの強さだけではどうしようもないこともある。
それは、夢のあるストーリーに強く憧れてきたかつての子供だった大人だからこそ陥る可能性の高い失望となる。
そのような事態の責任を持つことなく、何か偉大な夢が叶うストーリーだけを素晴らしい幸福としてモデル化し続けるのは、そのような苦悩を抱える人間にとっての現実と大きく乖離し、残酷なものではないだろうか…
バイクスタントマンのおもちゃとしてのデューク・カブーンは、理想を描いたCMのようにジャンプすることができないことで持ち主の期待に叶わず、捨てられ、深い心の傷を負った。
しかし子供の見ていない、自由に動けるおもちゃだけの世界でなら、デュークは素晴らしいパフォーマンスをすることができる。
子供に認めてもらうことはできないが、しかしデュークは本来の力を発揮していくことで、失った自信を取り戻していく。
トイストーリー4には社会や立場や役割の枠に縛られず、他人(メタ的に、フィクション登場人物にとっては読者や観客も該当するかもしれない)から認められ評価されるような華々しい幸福だけではなく、ごく個人的な喜びや心のケアをも重視するストーリーへの試みがある。
「フォーキーは私がいないとだめなの!」
とボニーはフォーキーを見失った時にそう言う。
4の最後で迷子になった女の子が、ギャビーギャビーに「私が助けてあげる」と抱きしめる。
フォーキーはウッディの思い出話から、いかに子供に必要とされたかされなかったかという人生の結果評定ではなく、
おもちゃが一緒にいられるのは人間の人生にとってほんの短い期間だとしても、偉大な物事にとってみれば取るに足りない存在かもしれなくとも、
ほんの些細な折々に子供を安心させ、勇気を与え、子供が自分を用済みのように感じて自信を失っている時にも寄り添い、肯定してあげられること、そんなごく個人的な喜びを助けられること自体に感動を覚えたのだった。
そしてそれはもちろん、アンディもウッディの存在をそうやって心強く感じてきたのだということも。
トイストーリー4では一見、ゴミ箱に飛び込もうとするフォーキーの方が病んでいるように見えるかもしれないが、注目すべきは、道中でアンディや仲間との数々の思い出話をしているウッディもまた明るく穏やかな表情を少し取り戻す点だ。
フォーキーはウッディの話に耳を傾け、のちのシーンではギャビーギャビーにとっても良き理解者になることで、二人の人生や想いを肯定し、寄り添っているのである。
フォーキーはまるで優秀なカウンセラーだ。
おそらく、ボニーが幼稚園での孤独と不安を和らげるために彼を作ったからだろう。
フォーキーはゴミだからこそ、無意味で価値のないガラクタだからこそ、おもちゃを持っていけない幼稚園でボニーのそばにいられる。
そしていつかボニーが成長し、フォーキーを必要としなくても「もう大丈夫」になる日が来たとしても、彼にとってそれは故郷に帰るようなものだろう。
フォーキーを見ていて、私も幼い頃、消しゴムにセロテープやビーズで手足を作り、マジックペンで目と口を書いて作った“人形“を筆箱に忍ばせていたことがあることを思い出した。
本来おもちゃとして生まれたわけではないものが、子供部屋で暮らすようになる。
ということは逆に、おもちゃとして生まれたものが、子供部屋にいるのとは別の道もありうるということだ。
特定の持ち主を持たずに保育園で活躍してもいい、2で登場したプロスペクターのように、展示に活路を見出すのならそれでもいい。
フォーキーはおもちゃの在り方について幅広い視点をトイストーリーに挿入してくれる。
そして人生は生まれてきたくないくらい辛く、苦しく、悲しいことがあるということを、一旦受け留めてくれる。
そしてこの作品を通して、今まで数多のおもちゃをゴミにしながら成長してきたかつての子供たちである我々が、大人になり、今度は自分が役に立たない無価値なゴミのように感じられて、不安になり、生きていたくなくなってしまっている可能性を考慮してくれているように、私は感じるのだ。
3、バズ –スペースレンジャーを取り戻せ
●原作のあるおもちゃ
4でのバズの振る舞いは特に難解で、困惑した人も多いと思う。
私もその一人で、バズについては一番長く考え込んだ。
しかしバズの原作であるスペースレンジャを描く『バズ・ライトイヤー』が上映されることになった時、一つの確信が芽生えた。(当記事執筆時は未鑑賞)
おもちゃにとって、子供部屋だけが全てでないとするならば。
子供のための“おもちゃらしい“おもちゃであらねばならないわけじゃないなら?
1でバズから、バズのルーツである“スペースレンジャーらしさ“を丸ごと捨てさせる描写をしてしまったことは、間違いだったのではないか。
バズは3でロッツォにリセットされてしまったことにより再び宇宙野郎に逆戻りしてしまう。
このように、バズに宇宙野郎の要素が出てくることは、「悪い兆候」として描かれてきたし、これもハラハラとするシーンである。
しかし、やはりスペースレンジャーのバズは活き活きとしており、能力を存分に発揮し、自信に満ちているのである。
逆に自分のルーツを、原作を知らなかったウッディが2で自分がカウボーイ人形劇の人気ヒーローであることを知ってどれほど興奮したかを思い出してほしい。
ルーツは大切なものだ。誇りの源になる。
それを1でバズに強いショックを与え、まるでそうあることが間違いで滑稽なものにすぎないように否定してしまったのは、本当に正しいことだったんだろうか?
スペースレンジャーであることもバズの大切な一部であるはずだ。
だってスペースレンジャーだから、アンディはバズを欲しがったのだから。
1以来、スペースレンジャーとして振る舞うことをバズは愚かで馬鹿馬鹿しいことだと思うようになってしまったが、しかしアンディは光るレーザービームを、シュッと飛び出す空飛ぶ翼を、スターコマンドの任務に燃える姿を愛していた。
バズ・ライトイヤーには、それだけ素晴らしいストーリーがあるはずだ。
すなわち4で言う“声“とは、バズにとっては1では自分そのものでもあったはずが生き別れてしまった原作バズ・ライトイヤーの声であり、ルーツであり、アイデンティティである。
他方ウッディにとっての“声“とは、同じく原作カウボーイ人形の声と混ざり合っている。
しかし、私はその声とウッディ自身はかなり性格が乖離していると感じることがあった。
ウッディは慎重で神経質、繊細で心配性なところがあり、シドの家でも即座にバズの影に隠れたほど臆病で、最終的には見捨てないとはいえ仲間を見捨てようかと魔が刺しているような時はある。
ところが“声“のカウボーイはどこか気取っていて陽気、大胆不敵で勇敢なヒーローである。
原作のキャラ設定と“この“ウッディは違う存在なのだ。
しかしアンディは、この“声“に基づいてウッディを見ているだろう。
だからウッディはこの声の通りに、アンディにとって理想通りのかっこいいカウボーイであろうと、期待に応えるためにいつも努力してきたのだ。
しかしそれゆえに、この“声“はウッディのプレッシャーにもなっていたと言える。
それゆえアンディのおもちゃとしての役目を終えたウッディは“声(ボイスボックス)“を手放し、バズは逆に取り戻すのである。
●ウッディとバズの友情の彼方
となると、1で育まれたはずのウッディとバズの友情が果たして健全なものだったかに疑問が生じる。
「お前はただのおもちゃだ!」とバズを強く否定し、殴り合いにまで発展していた二人の関係は、どういったものだったのだろうか。
ウッディはどうしてここまでバズのことにきつく当たり、嫌悪し、攻撃したのか。
それはアンディを巡るライバルだからというだけではない。
自分はこんなにもアンディのことを想っているのに、それがこんなおもちゃとしての自覚もない宇宙野郎に一番の座を奪われるかもしれないということが許せなかったのだ。
自分が一番の座を譲るとしたら、それは宇宙の任務とやらにではなく、自分に負け劣らずアンディに忠誠を尽くすおもちゃでなければ納得がいかない。
ウッディはバズをアンディのお気に入りとして認める代わりに、バズのスペースレンジャーとしてのアイデンティティを強く否定してしまったのだ。
二人の仲違いは円満に解決したかに見えたが、ウッディの過ちはまだ残っていた。
ウッディは1と同じことを、フォーキーに繰り返そうとした。
どんなにゴミでありたくたって、お前はおもちゃなんだ、おもちゃらしくあれ!と。
ちなみに、4で拐われた後でフォーキーが、取れた腕を腹話術人形のベンソンに直してもらうシーンがあるが、これは1でバズの取れた腕をシドのおもちゃたち(彼らもホラー的な表現で描かれた)が直すシーンの再現であると思われ、フォーキーとバズの共通点を強調している。
ボニーのハリネズミのおもちゃミスタープリックルパンツは子供との遊びを演劇とし、自分を俳優として表現するのだが、それもまた自分をスペースレンジャーだと考えるバズの状態とよく似ている。
そのような生き方も、決してあってはならないわけではないのだ。
おもちゃの在り方はおもちゃの数だけあっていい。
人もそうであるように、多様性のなかで生きている。
フォーキーがボニーのゴミとしてのおもちゃであるのと同様に、
バズはアンディの、そしてボニーのスペースレンジャーとしてのおもちゃだ。
これはバズがウッディから災難しか被らなかった、二人の間には友情なんてなかった、というわけではない。
フォーキーは強要されたりショックを与えられることによってではなく、ウッディの思い出話を聞いて子供を喜ばせる素晴らしさを理解できた。
バズもまたウッディから教えてもらったアンディを喜ばせる素晴らしさ、そのために試練を共に乗り越えた思い出は、ウッディと出会えたからこそのかけがえのない宝物だ。
それに、4で車を引き止めるために音声機能を利用して人間に自分のメッセージを発する方法は1でウッディがシドに話しかけていた方法とよく似ている。
そうしてウッディから学んだ方法と、スペースレンジャーとしての自信は、ウッディがいなくなった後もきっとバズの力になってくれることだろう。
バズが自分らしさを取り戻せたことでウッディの過ちは精算され、改めて真の友情と信頼を結び直すことができたのではないかと私は思う。
今回バズはキャンピングカーの運転作戦を実施していたが、彼らは以前にも車を運転したことがある。
それはトイストーリー2で、その時もバズが攫われたウッディを助けに行く時だった。
私はバズにリーダーシップのヒーローからケアのヒーローへのバトンタッチをも眩く感じる。
バズは優しく思いやりがあり、一人で背負い込みがちなウッディのことを気遣っている。
大丈夫かカウボーイ?と声をかけ、フォーキーの見張りを代わろうとしてくれたり、仲間と喧嘩しがちなウッディを宥め、仲裁しようとする。
そして最後で、ボーとの別れに迷うウッディの気持ちを察し、
「ボニーならもう大丈夫だ」
と、彼に最も必要な言葉で背中を押すことができるのも、相棒であるバズだけだ。
4、ギャビーギャビー–歩み出すプリンセス
●おもちゃのヴィラン
生まれてきたくなかったのがフォーキーなら、
生まれたくてたまらなかったのにそれが叶わなかったのがギャビーギャビーだ。
しかし正反対な二人の間に不思議と友情が芽生えていくところが注目すべきところだ。
ギャビーギャビーは、いつか王子様が……という風に、いつか理想の持ち主を得ることを夢見るトイストーリー流のディズニープリンセスと言える。
彼女にとってボイスボックスは、『シンデレラ』が舞踏会に向かうためのガラスの靴だ。
それが無ければ、待ち人の目に留まるというチャンスを得る舞台に立つことができない。
だから彼女は是が非でもボイスボックスを手に入れなければならなかった。
音声機能を持つおもちゃにとって、“声“は子供とおもちゃを結びつける絆だ。
フォーキーの章で、おもちゃにとって子供部屋にいることだけが全てではないと述べたが、しかし子供に選ばれる選ばれない以前に、彼女に責任のない不幸のために子供の目に触れるスタートラインにすら立つこともできなかった彼女の場合でそう言うのは、ただ強引に諦めさせるだけで残酷である。
彼女は今作のヴィランとして登場するが、ヴィランはいつも特定の持ち主のいないおもちゃだ。
2のプロスペクターや、3のロッツォら保育園のおもちゃたち。
シリーズを通して持ち主のいないおもちゃは、ウッディのように持ち主あるおもちゃに比べて「正しい状態ではない」かのように表現されることがあった。
つまり持ち主のいないことは自分勝手で持ち主のために努力しておらず、愛情に欠け、不完全でおもちゃの使命を果たせていない欠陥であるかのように。
しかし彼らの不憫な境遇は悪者と断定するのには躊躇いを覚える。
彼らを見ているとむしろ私たちの方が罪悪感を刺激される。
彼らが悲しみを抱えてしまったのは、私たち人間に原因があると。
それならば、持ち主あるおもちゃのウッディと、持ち主のいないおもちゃは果たして対立すべきだったのだろうか……
さて、序章の方でした話をもう一度繰り返すが、3の最後で「決して仲間を見捨てない」というテーマが“提起“される。
4はこのテーマをより深めるために「仲間とは何か?」を突き詰めることになる。
ウッディの仲間とは、1では「アンディ」というともだちただ一人だった。
2のウッディ救出劇から3の保育園脱出にかけて「アンディのおもちゃたち」と一緒にいることがウッディ自身によって意識的に選択され、
それが3の最後に「ボニーのおもちゃたち」にも広がり、
そして4でボーとギャビーギャビーとの交流で「持ち主のいないおもちゃ」との最後の壁が崩され、「すべてのおもちゃ」が“仲間“となるのである。
●ウッディの心境変化
並行して、ウッディはなぜギャビーギャビーにボイスボックスを渡す気になったのかについても理解する必要がある。
ウッディがボーに対して「持ち主に捨てられたおもちゃだから、大切にされているフォーキーの気持ちが分からないんだ」と言い放ってしまうシーンがある。
ウッディはこれまでも「選ばれなかったおもちゃ」の立場に対して、やや無配慮で想像力に欠けるところがあった。
これはウッディがいつもアンディに「選ばれるおもちゃ」の立場しか経験したことがなかったがゆえに仕方のない部分はある。
3を思い出すと、みんながサニーサイド保育園行きの箱に入ってしまったシーンで「保育園なんてどうせ捨てられたおもちゃばかりの寂しい場所さ」と言い放ち、箱に入れられて傷心のバービーをますます泣かせてしまう。
ここでの口論も話が噛み合わず、アンディが実際は捨てようとしていなかったのは事実でも、ウッディは「選ばれたおもちゃ」と「選ばれなかったおもちゃ」の気持ちと立場の違いを理解していない。
自分と全く同じように、みんなにとってもアンディの側にいるのが一番良いに決まってる!!と思い込んでしまう。
一方、バズはウッディと同じような「アンディのお気に入り」の立場もゴミ袋に入れられて「選ばれなかった」立場の両方を経験しており、両者の間を穏便に取り持とうとする。すなわちウッディは4で、初めて「選ばれなかったおもちゃ」の側になることを経験する。
しかし、選ばれないこと、必要とされないことへの強い恐怖心と、そして実は少しの蔑みがあるからこそ、自分がその身の上になったことをどうしても受け入れられない、受け入れてたまるものかと必死になるのだ。
しかしギャビーギャビーやダッキー&バニーを通して見れば、おもちゃが子供に出会うことができるのはほんの一握りの幸運なのだということを知ることができる。
そしてその中でさらに子供のお気に入りになることができるなんて、砂漠の中から一粒の砂金を見つけるような奇跡であり、ウッディは滅多にない特殊で特別な経験をしてきたのだと。
それゆえに、確かにウッディの気持ちは他の誰にも理解できなかった。
しかし、ギャビーギャビーは持ち主のないおもちゃでありながら、フォーキーから聞いた話を通して、ウッディの尋常ならざるほど強く子供を想う気持ちを理解することのできる初めてのおもちゃだったのである。
もう一度強調すると、それはウッディが他の仲間たちともなかなか共有することの叶わなかった想いだった。
「私たち想いは同じじゃない?
子供のそばにいることが、オモチャの一番大事な役目だと思ってる。
あなたは私が夢見る人生を送ってきた……あなたはいい時も悪い時も子供のそばに。
なんだってするわ、あなたのように愛されるなら。
そのチャンスが欲しいの」<ギャビーギャビー>
ウッディは自分の気持ちが理解されたことで、ウッディは選ばれない悲しみに寄り添うことができるようになった。
持ち主のいないおもちゃと自分は全然違う!そう思っていたがギャビーギャビーをもう一人の自分であるかのように思えた。
もしかして運が悪ければ故障したボイスボックスを持つのは自分だったかもしれないと、自身を重ねることができた。
そしたら、自分もやはりどんな手を使ってでもボイスボックスを奪おうとしたかもしれない。
「ウッディを失くしたのかな?」
「失くす?まさか!ハーモニーは完璧な子供よ!」<フォーキー、ギャビーギャビー>
ウッディもアンディをそのように思っていた。
でも先述したように、アンディだっておもちゃを失くすことも飽きることもある。
完璧な子供はいない。
私たちの誰一人、自分こそが全てのおもちゃを一つ残らず永遠に大事にすることのできる完璧な子供だったと言える自信もない。
しかし立派だったり優れていたり完璧だったりなどではなくても、それでもウッディとギャビーギャビーは、子供を愛しているのである。
そしてウッディの良いところの一つは、相手が誰であれやり直す“チャンス“をあげようとするところだ。
3では裏切られてしまったものの、ゴミ処理場でロッツォにも手を差し伸べていた。
ウッディはギャビーギャビーにも、チャンスをあげたいと思った。
「友達に言われた。子供は大勢いるって」<ウッディ>
小さなアンティークショップでハーモニーを最後の唯一のチャンスだと思っていたギャビーギャビーと、小さな子供部屋でアンディを唯一無二と思っていたウッディは本当によく似ている。
ウッディはギャビーギャビーに手を差し伸べることによって、自分自身のことも救えたのだ。
5、ボー・ピープ –自由なおもちゃ
●変化の意味
ボーは今作の大幅なデザイン変更でファンを騒然とさせたことは言うまでもない。
確かに私たちはピンクの水玉スカートとボンネットのよく似合う彼女の姿に慣れ親しんできたし、私も大好きだった。
ボーは今までだって強く頼もしく、積極的な女性だった。
ウッディが落ち込んでいるような時にも彼女は笑顔で励まし、いってらっしゃいカウボーイと彼を支えてきた。4でもカブーンに「あなたならできる!」と励ます様子は相変わらずだ。
そして恋愛面においてもリードしているのは彼女の方だった。
しかし4ではウッディがその脆い部分を明らかにしたように、彼女もまた内面の悲しみや寂しさを、様々な想いを私たちに見せてくれるのだ。
ボーはアンディのために飛び出していくウッディを気丈に見送ったが、本当は傷ついていた。
本当は自分と一緒にいてほしい気持ちもあったのに……今生の別れになるかもしれないときまでウッディを行かせてしまったことを、たらい回しにされた挙句のセカンドチャンスアンティークで後悔した。
自分の気持ちを抑えつけて、待ち続けていても、誰も自分を選んでくれない……チャンスなんて来ないと。
ウッディとボーの関係は4の前作である『リメンバー・ミー』に登場する夫婦関係によく似ている。
音楽家となる夢のために家族を残して旅立った男がいた。
男は帰らず、怒った妻は彼を一族から永久に追放し、一族に音楽を禁じた。
男は死後、死者の国で妻子を蔑ろにしたことを後悔し、妻に許しを求めるストーリーである。
そこには今までのあらゆるストーリーで、ヒーローの何か偉大な夢や目的のために蔑ろにされる、二の次であり、ただ待ち続けることを当然のように期待されるヒロインの我慢の限界、苦痛が見出せる。
ボーもまたその一人であった。
ボーの姿の変化は、ウッディと対照的である。
ウッディは古い人形でありながら非常に状態が良く、コレクターから高値がつくほどであることは番外編を含めたシリーズで度々触れられていた。
それはウッディが、アンディを失望させないように汚れにもパーツの欠落にも細心の注意を払い、変わらぬ姿を保ち続けてきたからだ。
これは持ち主を得たいと望むギャビーギャビーも同様で、鏡を見て自分のそばかすの色を整えるシーンが出てきている。
一方ボーはもはや持ち主に気を使う必要がない。
自分のやりやすいようにスカートをスカートとして使うときもあれば、活動的になるときはマントにしてパンツスタイルになる時もある。
自分の都合次第で、自分で変更することができるのだ。
持ち主を主軸に考えるおもちゃと、持ち主に限定されないおもちゃの大きな違いが表れている。
さらに子供部屋を生きてきたウッディにとっては、汚れること、壊れることは、子供から捨てられてしまうというおもちゃとしての死を意味するとてもグロテスクな大事件だ。
でも、ボーは壊れた腕をこともなげに笑ってみせた。
猫に体を半分食いちぎられたおもちゃも登場していたが、特にそれで本当死ぬわけではないらしい。
ボーを含めた持ち主なきおもちゃにとって、「壊れる」など大したことではないのだ。
また修理すればいいだけ。
持ち主を得ることを最高の目的と考えなければ、持ち主に嫌われるかもしれない、捨てられるかもしれない…と怯える必要なんてない。
それに対して腕がちぎれた話で2の映画が一つ出来たほど大騒ぎするウッディは、まるでかつてのバズがヘルメットを外されれば呼吸ができないと思い込んでいた時のように、小さなごく一部の“設定“のなかで生きてきたことを思い知らされる。
「子供部屋にこだわる必要がある?世界はこんなに広いのに」<ボー>
『アラジン』でジャスミンがアラジンに導かれて王宮から外の広く美しい世界を初めて目にしたように、ウッディはボーに導かれて子供部屋の外の世界を知ることで、あんなに一巻の終わりだと思っていたことに、別の道があることが示されてゆく。
そして最後にウッディは、ボイスボックスを譲渡し、保安官バッジを託し、大事なパーツを一つ一つ手放していくことに決めるのである。
●ウッディを見つめ続けて
4でフォーキー取り返し作戦を失敗したウッディだが、今までの彼なら、見事な作戦で幾度となく試練を乗り越えてきた。
仲間の誰一人欠けることなかった。
なぜならその時は、「みんなでアンディのところに帰る」という目標があったからだ。
しかしそれは仲間自体が大事だからというだけではなく、誰かが欠けてしまえば持ち主のアンディが悲しむからというアンディへの思いやりがゆえのウエイトも大きかった。
それゆえに、ウッディは「持ち主なきおもちゃ」のことを軽んじてしまうのである。
おもちゃの使命を果たすことが何よりも重要だと思っているウッディにとって、持ち主を持たないおもちゃはその使命を果たすことができていない。
そんな存在に俺の気持ちのいったい何が分かるのか。
お前たちと俺は違う。
俺はアンディ…いやボニーのために、おもちゃの使命を果たすことができるおもちゃだ…!!
持ち主のいないおもちゃは壊れても、帰らなくても、悲しんでくれる子供がいない。
だから無謀な作戦に巻き込んでも構わない。
そんな意識が密かにウッディの中に存在する。
そしてその意識がそのまま、子供に必要とされなくなったと感じている自分自身を蔑ろにし、深く突き刺し、傷つけているのである。
ボーはそのことを見抜いた。
「私たちはどうでもいいの?」
「そういうわけじゃない…ボニーのためなんだ」
「自分のためでしょ?」
「忠誠心だよ、迷子のおもちゃには分からないだろう」
「迷子はあなたじゃないの?」
<ボー、ウッディ>
そうだ、ウッディは…おかしくなることが前からずっとあった。
アンディから離れることをあまりにも強く恐れたり、自分のアンディへの想いを否定されたと感じると酷く躍起になって、攻撃的になってしまうことがある。
私が長年違和感を持っていたことが、それは要はずっとウッディを心配していた要因をようやく指摘してくれたようで、私は映画館で思わず涙が出た。
そのことを叱責することができたのは他の誰でもない、彼がどんなにアンディを愛してきたかをよく知っている、しかし外の世界のことも知っている、ボー・ピープにしかできないことだった。
フォーキー取り返し作戦でウッディはボーの指示を聞かず、一人で飛び出していく。
それはウッディがアンディのところにいた時はいつも指示を聞く側ではなく、自分が全て決定し、自分が主体となって指示を出す側にいた名残だ。
ウッディがいた子供部屋社会の難しいところは、お気に入りのおもちゃとそうでないおもちゃの間に“上下関係“が存在していたということだ。
「俺はおもちゃのまとめ役だったんだ」
ウッディはフォーキーに思い出話を語るときにそう自慢げに言っている様子から見て、彼はアンディから離れたことだけではなく、その“地位“にも未練があり、それを失ったことも嘆いているのだと分かる。
まとめ役である自分に誇りを持ち、それだけ頑張ってきたからだ。
しかし4ではその上下関係から降りることによって、本当に仲間達を信頼し、協力し、頼ることのできる関係として改めて結び直すことができるのだ。
そしてその仲間のなかには、もちろんボーも含まれている。
ウッディはずっとアンディを見つめてきた目を周囲や背後に向けると、ずっと自分のこと見つめ続けてくれていた、ずっと自分の子供を想う姿を慈しんでくれていた存在に気がつく。
「でも、それが愛すべきところ」
子供のことを一番に考えるウッディに呆れながらも最後にはそう口にしたボーのこのセリフにはウッディへの人としての、いやおもちゃとしての尊敬が込められている。
このセリフは私のウッディに対するファンとしての気持ちも代弁してくれるかのようだった。
子供のことをいくら想ったところで虚しいだけ……とボーが捨ててしまった、諦めるしかなかった情熱をウッディがまだ持ち続けていることへの希望。
そしてそれをウッディに失ってほしくないという思いやりがある。
ウッディは、今度は自分からその視線に応えることにした。
後でも触れるが、ウッディは持ち主を持つおもちゃにしては突出して活動的であり、子供部屋以外の場所でも様々な試練を乗り越えてきた。
それはどちらかというと外の世界で強かに生きる持ち主なきおもちゃに通ずるところがある。
ウッディは持ち主なしで生きるボーに「すごいな…」と感心するシーンがあるが、ボーはそれに彼をよく知る彼女らしくこう答える。
「あなただってできるわよ」
6、ダッキー&バニー -ふたりなら最強
特定の持ち主のおもちゃであることが唯一の幸せとしてしまうのは、人間で言うと例えば「お金持ちになることだけが唯一の幸せだ」とするようなものと言えるかもしれない。
もちろん、金持ちになること自体を強く望むわけじゃなくても、安定した経済状態があるに越したことはない。
しかし、金持ちにならなければ人間として価値がないのか?
金持ちになれなかった人間は努力しなかった敗者なのか?
金持ちになること以外の人生における様々な出来事や出会いは幸せではないのか?
というとそういうわけではない。
おもちゃにとっての「持ち主を得ること」もそれと少し似ている。
今作で初登場したダッキーとバニーにも、やや駆け足ながら重要なストーリーがある。
二人は遊園地のゲームの景品おもちゃで、子供がゲームに勝てば子供の元にいくことが出来る。
しかし、大人は知っているが、このようなおもちゃは基本的に客寄せの飾りであり、そう簡単に勝てるようにはできていない。
縛り付けにされていて、不自由であり、自分から子供に近づくこともできない。
多くの子供を目にする機会はあるのに、その元に行けないという生殺し状態を二人は長年味わい、子供を得ることを切実に願っている。
しかし、ボニーという子供のところへ行くために参加したフォーキー取り返し作戦が失敗に終わり、猫に追われて逃げ出した先でダッキーは転がった綿をバニーの成れの果てだと思い、大事な片割れを失ってしまう壮絶な悲しみを経験することになる。
「もう大丈夫」
ボーは羊たちに、カブーンは愛車に、バニーはダッキーに。
大事な相棒を安心させるための言葉が、このシーンで強調される。
(そしてのちのシーンでは、バズがウッディに伝える言葉でもある)
ダッキー&バニーの二人は思い直した。
無理して子供を見つけて離れ離れになったり、そしてどっちの方が愛されているかで喧嘩をするより、二人で一緒にいることが一番大事だと。
それに、私はこの映画を初めに見ていた時は二人は手がくっついた状態のそういうセットのおもちゃだと思っていたのだが、
グッズは別々で売られているものが多く、上映前の特別映像でもバラバラの状態だったため、本来は切り離してそれぞれで遊ぶおもちゃらしい。
つまり二人は子供の元へ行けば切り離される運命にある。
そしてそうなれば、どちらか一方だけが失くなってしまったり、他へ譲られたりして、永遠に会えなくなってしまうリスクが高まるということだ。
最終的にこの二人は子供よりもお互いを選んだのだ。
7、ボニーのおもちゃたちー受け継がれる使命
今作は、ウッディが拾い集めたゴミによって作られたフォーキーが、いわばウッディの息子のような存在になることを筆頭に、おもちゃたちの世代交代のような様子が描かれている。
ウッディが他のおもちゃと違うのは、人間に見つかってはならないという掟があるにも関わらず、かなり積極的な行動を起こすところだ。
4でもボニーの幼稚園について行こうとして、元々のボニーのおもちゃたちを困惑させている様子から見ても、一般的に持ち主を持つおもちゃはいくら持ち主のためでも子供部屋から自分から出て行くなどという危険なことをしないのが普通なのだろう。
それはあれほど持ち主から離れることも壊れることも恐れているウッディにとっても、子供部屋から出たり、車から飛び降りたりすることは本当はいつも怖くてたまらなかったに違いない。
それでもおもちゃを助けるためであったり、子供を安心させるために、”諦めちゃいけない”という内なる声を聴いて、勇気を奮い立たせ続けてきた。
その目的のために人間にすら働きかけるような積極的な行動を促す内なる声は、今度はジェシーやバズたちに受け継がれる。
4のバズが音声機能に紛れてボニーにメッセージを発するシーンは、1の最後でおもちゃのルールに反するがと前置きした上で、シドに「おもちゃを大事にするんだぞ」と語りかけたときを思い起こさせる。
ジェシーの釘付け作戦は、人間たちの気を逸らし、誘導しながら作戦を進めるウッディのやり方とよく似ている。
どれもまだ荒削りで、ウッディほど上手いとは言えないかもしれない。
もっと完璧な方がウッディも安心して任せられるとは思うが、しかしなんでも一人でうまくやれてしまうタイプの人というのは、周囲が自分ほど優秀ではないと感じるからこそ一人で抱え込んでしまう。
例えるならウッディはサニーサイド保育園でイモムシ組の子供たちを一人で一手に引き受けているかのような状態だ。
でもそうではなく、バービーとケンたちが改革したようにみんなで交代して負担を分散し、協力し合うやり方が3で提示されたのである。
周囲を信じて任せることが、周囲の成長のきっかけにもなり、負担を分け合うこともできるようになっていく……
そしてそれは、今までウッディの専売特許状態となっていた子供を積極的に近くで見守り、実際に手助けをし、親身に成長を見守るということを、ウッディ以外のおもちゃたちにも経験させてあげられるようになるということだ。
8、ボニー -おもちゃとの出会い
※2023/11/30加筆部分
⚫︎子供らしさ
ボニーは今までアンディに慣れ親しんできたファンにとってよそよそしい気持ちになり、そのためアンディよりも性格や言動の描写が多くされているが、それでも誰この子?という困惑した感覚が長年のファンほど抜けづらい。
しかし注意深く見ると子供あるあるな、というか私に共感できるところが3つあった。
その1、ウッディじゃなくてジェシーを保安官として遊ぶところ。
私もジェシーが大好きなので、ボニーの立場でも同じことをしそう。子供にはおもちゃの元々の設定なんて関係ない。
その2、私も学校でおもちゃを作ったことがある。
それはセロハンテープを貼り合わせて作ったロボットだったり、あやとりのカメだったり、顔を書いた消しゴムや鉛筆だったりした。
友達と遊んだことよりも、一人机の上で繰り広げた空想遊びのことの方がよく覚えている。
でもある日仲間の一員だったアニマル型の小さな消しゴムを一つ落として失くしてしまったのが何日も悲しくて、空想の世界から目が覚めてしまったみたいにもうそれきりそういう遊びをやめてしまったような覚えがある。
その3、私もよく忘れ物をする。
習い事先でほとんど毎回ふで箱を忘れて、友達が家に届けてくれていた。
「子供は毎日のようにおもちゃを失くす」
ボーがウッディに何度も繰り返して諭す。
それはおもちゃにとって自然の摂理のようなものかもしれない。
何とか止めようとすることもできるかもしれないが、どうしようもないこともある。
また今度『ファインディング・ドリー』の感想記事を書くつもりでいるが、
ボニーはそこで描かれたドリーと似た性質を描かれていると言えるかもしれない。
つまり人を苛立たせやすいタイプだ。
ボニーは忘れっぽく、気が散りやすく、しかし頑固で、手のかかる子供で、おもちゃをどうしても失くしてしまいやすいのだ。
私もよく「大事なら忘れないはずだ」と怒られて酷く辛かったことがある。
家族を忘れてしまうドリーのように、どんなに大事なことでも忘れてしまうのだ。
忘れるから、大切にしていないわけではない……。
トイストーリー4はそのことを責めないでいてくれる。
子供はおもちゃを失くすもの。
忘れっぽい子供は物を失くしたり置き忘れたりして、あ〜あ…どうして私ってこうなんだろう…と肩を落とす経験を無数にしながら成長していく。
親や、あるいはおもちゃがその後ろを追いかけて、そうなることを全て防げたらいいが、不可能だ。
子供がいずれ自分で折り合いをつけいくしかない。
しかし、それでもすっかり自信を失くして、自分はもう何もかもだめかもしれないと落ち込んだときのために、その傍にはおもちゃが必要なのもまた事実だ。
⚫︎かけがえのないおもちゃ
あまり目立つシーンではないが、ボニーがフォーキーを見失って、母親から「また作ったらいいじゃない」と言われた時に、ボニーはこう言う。
「だめ!フォーキーはフォーキーだけ……!」
それは、おもちゃが最も欲している言葉である。
それが主なテーマとなっていたのは3だ。
持ち主が失くした自分の“代わり“を用意したことに深く傷ついたロッツォがケンに言い放つシーンのやり取りで強調されている。
「バービー人形なんて、代わりは他にいくらでもいる!!」
「違う!僕には彼女だけだ!!」
おもちゃは量産されていて、常に自分でなくてもいいのではないか?という不安定なアイデンティティを抱えている。
それゆえにおもちゃたちは、「あなたみたいな代わりはたくさんあるけど、それでもこのあなたがいい」という存在になりたいのだ。
なれるかもしれないし、なれないことの方が多いかもしれない。なれなくてもお終いというわけではないが、しかしチャンスを求める価値もある。
これは人間にだって覚えのある感情だ。
フォーキーが他とは違うボニーの特別なゴミでありかけがえのないおもちゃであるということ。
それはサン=テグジュペリの『星の王子さま』を思い起こさせた。
王子さまは、自分が今まで大切にしてきた一輪のバラが世界にとってはなんら特別なものではなく、どこにでもありふれたバラに過ぎないことを知って一度ショックを受ける。(スペースレンジャーのCMを見た時のバズにもどこか似ている)
しかし、その後で自分のバラと他のバラは全く違うことに気がついて言う。
他のどれでも一緒のバラではなく、自分だけの特別なかけがえのないバラの存在があることの素晴らしさ。
星の王子さまは別のシーンでこうも言っている。
トイストーリーにおける子供とおもちゃの関係もきっとそのようなものだ。
ボニーにとってのフォーキー、迷子の女の子にとってのギャビー、そしてアンディにとってのウッディもそうだった。
そしてまた逆におもちゃにとっての持ち主も。
この世界のどこかにそのバラがあると思えるだけで、生きる勇気が湧いてくるような存在。
子供がそんな自分だけの特別なバラを見つける経験をさせてあげられる最初の第一歩、それがおもちゃにできることなのかもしれない。
9、そして再びウッディへ–最後に残った宝物
さて、これまでウッディの献身に隠された裏面、皮肉な欠点に触れてきた。
彼には「子供のために必死になるあまり仲間を蔑ろにしてきた」ところがあり、その「仲間を蔑ろにしてしまったのはなぜか?」に向き合い、「用済みになることが恐ろしい」という気持ちに寄り添われ、過去の過ちが精算されることによって、
とうとう最後に磨き抜かれて汚れなき輝きを取り戻すものがある。
「ウッディは子供のためを一番に思っている」<ボー>
それこそがどんな時も、どんな場所でも、どんな在り方でも、それだけは変わらぬ一番大切なウッディの本質として浮かび上がる。
それは全おもちゃに刻み込まれた義務でも、カウボーイ人形劇ウッディの美徳でもない。
私たちが見守ってきた、このウッディだけの素晴らしいところであり、揺るぎない真実であり、「愛すべきところ」なのだ。
最初の章で、「子供のため」と「仲間のため」は両立困難であり、矛盾しあってしまうという話をした。
しかしウッディは4の最後で、その両立を果たすための新しい使命に辿り着いた。
すべての子供たちが勇気と安心を与えてくれるおもちゃと出会えるように、
すべてのおもちゃが子供の成長を見守ることのできるチャンスを得られるように。
ウッディ一人では全ての子供を助けられない
しかし、子供に会いたいおもちゃの願いを叶えて送り出すことで、孤独に震えるあらゆる子供に寄り添ってあげられるおもちゃに会わせてやれるのだ。
ウッディがギャビーギャビーにボイスボックスを渡すことで、そして遊園地のゲームを操作することで、さまざまなおもちゃが子供に出会うチャンスを作ることにした。
それは反出生主義の命題である「この世界が苦しみに満ちているとしても、それでも新しい命を送り出すのか?」という問いに、「イエス」と答えるような行動とも言える。
子供との出会いがあれば別れもある、過酷な悲劇もあるだろう。
どんなストーリーが待ち受けているのか、それは分からない。
それでも生まれてきたからには、おもちゃとして「選ばれた」からには、すべてのおもちゃたちにチャンスが与えられるべきだ。
それが決して苦痛と後悔だけに満ちたものではなく、かけがえのない宝物となるような素晴らしい出会いへの道にもなる。
それがウッディの出した答えだった。
それは何よりもウッディ自身が、苦労も寂しさもあったが、それでもこれまでやり抜いてきたことを、アンディを愛してきたことを、決して後悔していないからだ。
ウッディは1から基本的に新しいアンディのおもちゃが増えることを嫌がり、自分とアンディの間に割り込む者がいることなどもってのほかだった。
しかし、最終的にはそこへ迎え入れた。
それはアンディも同じで、3の最後、本当はウッディを手放したくなかったが、しかし素晴らしいおもちゃだからこそ、二人の間に他の子供も入れてあげる。
ウッディは4でギャビーギャビーにも、ボニーのところにおいでと言ってあげていた。
そんなことしたら自分の居場所はますますなくなり、クローゼットで埃を被るようになるだけとわかっているはずだ。
それでも見捨てなかった。
だから彼が最終的にすべてのおもちゃにチャンスをあげる活動をすることは、本当に彼にぴったりの選択だったと、私は思う。
今思えばトイストーリーにはおそらく最初からこのようなテーマへ向かう素地があった。
まず1で「アンディのお気に入り」というウッディとアンディただ二人きりの狭い領域に、バズを迎え入れるということ。
2でジェシーらに出会い、彼女らを「アンディのおもちゃ」として迎え入れること。
そして3では子供部屋以外で活躍する保育園のおもちゃの存在が示唆されながら「アンディの子供部屋」だけでなく、他の子供の存在に出会い、「ボニーの子供部屋」へと道が開かれる。
そうやって、世界の範囲をどんどん広げていっていることがわかる。
このように見るとウッディは既存の仲間をというよりは、元々仲間でない存在でも、助けを必要とする者を見捨てなかった。
すると4では今までおもちゃとして正しくない状態として扱われてきた「持ち主なきおもちゃ」と向き合い、「持ち主のおもちゃ」と言うラベルにこだわらない世界へ足を伸ばしていく。
この広い世界が開かれ飛び立っていくような展開は、まさにウッディがバズと出会ったことから生まれた可能性であり、それゆえ4の最後をバズとウッディの二人がこのセリフで飾る。
「無限の彼方へ」
「さぁ行くぞ」
おわりに –トイストーリー4へ
ウッディを解放してくれてありがとう……
映画館で4を見終わった私が第一に思ったことだった。
3でもうこれ以上泣くことはないと思われたが、4では何度もどころか、初めから終わりまでとどめなく涙を流し続けていた。
ずっと彼を心配していた。
どんな子供のところへ行っても、ウッディの捨てられるかもしれないという強烈な不安と苦しみは無くならないじゃないんじゃないか、同じ不安を永遠に繰り返していくだけなのではないか……子供の頃の私たちが、おもちゃを望んだことは、彼らにそんな苦しみしか与えないような、罪なことだっただろうか…
4は『トイストーリー』という作品から私たちに向けての「彼はもう大丈夫だよ」というメッセージを伝えてくれる作品だった。
3は理解しやすいストーリーをすっきりと面白く、過不足なく収めてみせた。
その見事さに比べれば、4は複雑で難解な複数のテーマに溢れ、尺に収まりきらないような描写不足があることは確かだ。
しかし、過去の長い歴史があって、ファンの思い出に残っているストーリーに、過ちや問題があったことを認め、作品の描写として、“用済みになる恐怖“というキャラクターとファンを傷つけてしまったことへの贖罪があるストーリーとなっている。
長く続いているシリーズだからこその責任感と柔軟性を見せてくれた大変な勇気ある作品だと感じる。
『トイストーリー』という作品に出会えて本当に幸せだった。
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最後におまけとして、この文章を書くにあたって私が内容を整理するために作った図解のメモ書きを置いておきます。
記事を読んでいただきありがとうございます。 よろしければサポートいただければ励みになります!