【ファインディング・ドリー感想】アシカが糾弾されない理由と忘れっぽい生活の解像度
ずっと見たかった『ファインディング・ドリー』をやっっと見た!!
障害を個性として肯定的に描く!
というより、
『マイ・エレメント』もそうだけど、当事者のための当事者の生きている世界観を再現しようとする映画だったと思う。
全部すごいけど、特に感嘆したのがアシカたちの描写だった。
居心地のいい岩場を占領してのんびり過ごす2匹のアシカであるフルークとラダーは、ジェラルドという別のアシカを明らかにバカにして仲間はずれにするものの、特にそこが糾弾されたりせずに終わる。
そのことに疑問を持った人は少なくないと思う。
鑑賞者は物語のなかでそういう場面を見ると、いじめっ子が何か”報い”を受けることを期待するけど、そうはならない。
それゆえにこの描写には戸惑った人も多くいそうに思うが、私はこのように考えた。
なぜかというと、そういうことは障害を持つ人にとって日常の一部だから……
アシカに学ぶ当事者のための物語
フルークとラダーは、仲間外れをしている”悪者”ではなく、”普通の人”なのだと受け取らなければならない。
マーリンとニモに助言することもあるし、障害を持つ人を”便利に扱う”ためのことはする。
でも仲間じゃない。
フルークとラダーはジェラルドが同じアシカであるからこそむしろ強く当たっているように見える。
あるいはこの映画で一言に障害者といっても先天的な障害の場合から後天的な場合、リハビリなどで改善される場合やされない場合、見た目に障害者と分かる場合や分からない場合などさまざまなことが分かる。
フルークとラダーのような人は、すべての障害者に冷たいというより、その程度の違いによって無意識に態度を変える可能性もあるだろう。
マーリンもベッキーに対して当初強い警戒心を抱いている。
しかし日常でそのように振る舞う人が何か罰されたり不利な事態になることなどほとんど稀である。
それが”普通”というポジション(岩場)にいるということだ。
当のジェラルドはいつも笑顔で、別に私にはっきりわかる形で傷ついたような表情もしないし、「そんなことしないでよ」とも言わずマイペースにやっているように見える。
ただ見てる私がそんな排除の場面に動揺し、傷つく……ということのその意味を考える必要がある。
それが単に物語のなかだけで、誰かを排除する悪者らしき者が適切に罰されて話が気持ちよく終わり完結することを求めるよりも大事なことなんだろうと思う。
意地悪で不愉快なことをしてる者が糾弾されることが正常な物語だと思うのは、自分たちはそれを糾弾できる良い人で、あっちは自分たちとは違う悪者だという風に区別して安心したいからに過ぎないんだろうな……とつくづく考えることがある。
フルークとラダーは、ストーリーの終盤でドリーを救うために作戦を実行するディスティニーたちを見て「こんな面白そうなこと見逃せない!」と追いかけていく。
これは障害者たちの感動物語が大好きで、面白い、あるいは滑稽な見せ物だすら思って楽しんでいる怠け者な人々を揶揄してるみたいだった。
いやもっとフラット言えば、悪気はなくとも私も、あなたも、そのまた隣人も、ほとんど誰しもがどこかの場面ではいつもただ見ているだけの人になりうるのだ。
障害者やその他のマイノリティをテーマにした作品を描く時に製作者が気をつけるであろうことに、いかにそれが単に”感動ポルノ”に陥らないようにするかが課題の一つとなっていると思うが、
そのために”傍観者”を透明化するんじゃなくて、その姿も含めて物語のなかに置いておくというのがすごく巧みだ……
このアシカたちのシーンはコミカルな調子で描かれているように、”滑稽”なのはジェラルドの方ではなく、フルークとラダーの側である。
忘却する生活
ここからはドリーについての話。
次々と記憶が失われていくことは個性というよりも間違いなくドリーにとって困難であり、試練である。
それは『ファインディング・ニモ』で心配性なマーリンがあらゆる危機に直面したのと同様に、しかしドリーには他の人とはまた違う壁が、努力が、工夫が、そして不安や失望がある。
ドリーの場合、ドリー以外の人(ここではついさっきの記憶も失われることのない人々を指す)から見れば「そんな簡単なことのどこが試練なの?」と思われるようなことがとてつもない大冒険なのである。
ドリーはハンクから「記憶がなければ悩み事もなくて良いな」と皮肉を言われ、少し悲しそうな表情をする。
私が『ファインディング・ドリー』をずっと観たいとは思っていたのも、予告や前情報からドリーは私自身とよく似た特徴を持っているのではないかと感じていて、それゆえになかなか観る勇気が出なかった。
もしストーリーの内容があまりに前向きでポジティブで楽天的すぎた場合、落ち込むからだ。
私もドリーと似たようについさっきのこと、今やってたこと、人の話をよく忘れてしまう。
映画を観た人のなかにはドリーの忘れ方は、フィクションだから大袈裟に描かれているに違いないと思った人もいるかもしれないが、そうでもなく、おそらく私の周りにいる人は私のことがこういう風に見えているだろうと思う。
ドリーのように私も道を聞くのがすごく苦手だ。
右から左かを覚えなくてはいけないのもそうだが大抵の場合「”エレベーターの手前”で左」など、そこにある情景もセットで覚えなければならないため難易度が高い。
覚えていられないから、何度も聞き返すのも嫌で最初から聞くのを諦めてしまう。
私は今こういった感想文を書いている間にも、少し時間が開けば自分が何を書いていたのか忘れてしまうので、一から読み直すところから始める必要がある。
さっきまでしていた会話の内容を、いや会話したことすら数秒で何も覚えていないことなども私にとっては普通のことだ。
工夫はある。
ドリーのように「私はすぐ忘れちゃうの」と自己紹介することは相手に不審に思われないようにするため。
ドリーは魚だからより難しいが、私は人間だから、メモを取るようにすることもある。
しかし、メモを取るようにするには自分がどのくらいどんなことでどういう時に忘れているのかということを自覚している必要がある。
自分だけでは自分が何を忘れているかも分からないのにその自覚はどうやって得るのかというと、大抵経験の積み重ねのなかでしかない。
しかしそんな経験をして工夫ができるようになっていくまでに、多くの失敗をしたり、人に迷惑をかけたりして、たくさん怒られて、そのうちにどんどん自信を失って心くじけてしまう方が早いこともある。
しかも極端に忘れやすいということは、能天気で、何も考えてないのと一緒だと思われてしまう。
何も大切に思ってないし、何も傷つかないとも。
本当に大切なら忘れないはずだ、本気で努力しているなら忘れないはずだ、真面目にやってるなら忘れないはず。
だから自分でも不安になる。
私は何も大切にできない人間なんだろうか?何も感じない、薄情者なんだろうか?
ドリー自身も大切に思ってるはずの家族のことを忘れてしまったことを自己嫌悪していたことが、両親と再会した折の謝罪の言葉や涙に溢れている。
しかしドリーは確かに豊かに感じ取っているし、大切に思っているものも確かにあるのだ。
そのストーリーを通して、「忘却」が忘れてはいけない、忘れるのは悪いことだという強迫的な観念から、「忘れても大丈夫」に変わっていく。
これは世の中から前者のように捉える人がいなくなったというわけではない。
相変わらず一般的には忘れることは良くないことだし、人に不審に思われたり、迷惑をかけてしまう日常は変わらない。
それでも世界の中で遭遇しうる不便やそれに対する自分なりの工夫、心構えを経験のなかで少しずつ獲得していく。
その丁寧な過程に、他の物語では得ることのできない共感を持つことができた。
助けを求め続けるということ
私がドリーの一番素晴らしいと思うところは、人に助けを求め続けることを止めないところだ。
人に助けを求めるのはものすごく難しいことだと思う。
見知らぬ人に話しかけるのは怖いし、何かをお願いするのは厚かましいのではないかとも思ってしまう。
それに相手が親切な人や余裕のある人とは限らない。嫌な顔をされるかもしれない、ひょっとしたら悪人の可能性だってある。
「こんな簡単なことができないの?」と思われるかもしれないのも恥ずかしい。
そもそも人に助けを求めなければならないことは、酷く情けないことのように思ってしまう。
実際ドリーも冷たくあしらわれているシーンが無数にある。
その度にドリーは「あぁ今忙しいのね!オッケー!」と明るく応答する。
相手はもう立ち去っていて、その言葉はおそらく聞こえていない。
だからその応答は相手に伝えるためではなく、ドリー自身のための言葉だ。
私にはこれは冷たくされた、迷惑に思われた…と感じて傷つき心が内に引きこもってしまわないための彼女なりの工夫なのだと思う。
ドリーやベッキーに不信感を持ったマーリンに、ニモが「もっと信じてあげて」と促すシーンなど、作中では「信じる」ということがキーになっている。
ドリーは何度も何度も「助けて!お願い!」と声を上げる。
ドリーは人に助けを求めるたびに数えきれない勇気を出し、そのたびにいつも見知らぬ人のことを信じているのである。
いや信じるしかないのだ。
その姿が、他者と自分とを信じられなくなり、恐れるようになってしまったハンクの心を動かしていく。
私としては海よりも水族館に行きたいという選択もそれはそれで悪くないと思うが、それでも人に助けを求めるすべを知っておくに越したことはない。
そして私自身も、助けを求めることの大変さ、大切さ、そしてなにより助けが必要なことは決して恥ずかしいことではないと思えるような気がした。
私の体験
蛇足になるが映画を見て思い出した私の過去の体験がある。
小学生の頃、迷子になったことがある。
塾帰り、ぼうっとしているうちにバスを乗り過ごしたことに気づき、見知らぬ町で降りた。
とんでもないことになった。
当時携帯もなく、泣きながら公衆電話から親に電話をかけたが繋がらず、短い留守電を入れただけで10円玉も尽きた。
どうしようもない。
辺りはもう暗く、もう二度と帰れないのではないかという絶望的な気持ちになった。
私はバスが来たのと逆方向にひとまず真っ直ぐ歩き出した。
どのくらい歩き続けなければならないんだろうと不安を抱えながら知らない光景を見回していた時。
たった一つだけ見覚えのある看板があった。
以前親と通った時に、話したことのある看板だった。
つまり通ったことのある道だった。
そしてそれが分かってみれば、普段の生活圏からそんなに遠い場所ではなかったのだ。
そこから記憶を頼りに歩き、私は無事に家に帰ることができた。
後から聞くと母は私からの電話を後で留守電で聞き、心配のあまりその事件自体が本人以上にトラウマになってしまったらしい。
しかし私にとっては、
なんだ、親から離れて、見知らぬ場所に来てしまっても大したことはない。なんとかなるし、なんとかできるんだ。
と、自信を持つことのできた成功体験だった。
私は今では一人で見知らぬ土地へ旅行に行くことがあるが、この体験がなければそんなの怖くてとんでもない!と思っているままだったかもしれない。
ファインディングシリーズは、親子と迷子の物語として本当に良くできていると感心する。
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