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「蟻の街の子供たち」の北原怜子のこと。


まるで現代のゲーテッドコミュニティのようなたたずまいの「蟻の街」。中世の要塞のようにもみえる。

その街に北原怜子があらわれたのは昭和24年12月の雨の日のことだった。北原がのこした唯一の著書「蟻の街の子供たち」によれば、そこにいたる経過はほんとうにいくつもの偶然がかさなったものだった。あるいは、人によってはそれを奇跡と呼ぶかもしれないが。

北原はもともと霊的な志向をもつ少女だったようだ。世俗のことにはさほど興味がなく、きよらかなものにあこがれを抱くような子だった。父親は大学の教授で、子供たちの考えを尊重される方だったようだから、北原もとくだんに悩むことなく妹が通っていたクリスチャンの学校との縁で受洗する。

北原の姉が浅草の履物問屋の主と結婚して、一家もその問屋の隣に引っ越した。ここからが北原と蟻の街との前史といっていいだろう。なぜなら、北原が浅草にいなければ、その出会いもたぶんなかったからだ。
姉が結婚してなぜ一家がぞろぞろと隣についていったのかはよくわからないが、なにか越さないといけない事情でもあったのだろうか。

昭和24年の11月のなかごろ、履物問屋にガイジ ンの宣教師がやってくる。店先で相手をしていた店員が、これは北原の客だろうとかんちがいして彼女を呼ぶ。これが北原とゼノ修道士とのファーストコンタクトだった。
ゼノは任意にえらんだ店に入ってキリストの福音の話をするのがならいだったようで、たまたまその日は北原のいる店にきたのだ。
そして店員は北原がクリスチャンだとわかっていたので、彼女を呼んだ。いくつかの偶然と誤解がかれらをみちびいた。


「蟻の街の子供たち」を読んで不思議に思ったのは、これが出されなかった手紙だということだ。あとがきの松居桃楼の説明では、棄てられた紙くずの中に彼女の未投函の手紙があり、それをもとに本にした、というのだ。なぜ彼女はこの手紙たちを宛てた本人に送らなかったのだろうか。

それと子供たちの活動の時間がいまの時代からみてかなり遅いことにもおどろいた。たとえば蟻の街の新聞をつくることになったのだが、子供たちが終わるまでやりたいというので北原は蟻の街の作業場から自宅につれてかえり、深夜の3時までかかって完成させている。そして朝も開けようとするあけぼののころに、子供たちと一緒になってその新聞を蟻の街にくばってあるくという、いまからみれば暴挙というしかないテンションの高さをみせているのだ。
この子供たちは小学生から中学生である。夜中の3時までやらせることか、と批判されていないのは、そういう時代だったのだろうか。

文庫版の表紙は子供の顔が谷内六郎だなと思ったが、知らないイラストレーターの名前だった。しかしどうみても谷内のタッチだよな。

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