人格の否定と野蛮の時代
お疲れ様です。ターネイです。
「自分や他人の人格なんぞ拘泥する必要はない」という話をします。
これを読むと少し自分や他人が許せるかもしれません。
「中国人は列に並ばない」という話を聞いたことがあるだろうか。私も上海生活時に地下鉄や新幹線駅で頻繁に目撃し辟易していたものだが、その後に「中国人が列に並ばないのは文革時の大飢饉で配給に列を作って並んだ者は飢えて死に、我先に争って奪ったものが生き残ったからだ」「そもそも体制に従順だと命や財産が危うくなることも多かったので自己責任・自己判断のクセが付いているのだ」みたいな与太を聞いてなるほどと感じた事がある。
華僑心理学No.11 なぜ、中国人は、列に割り込むのか?|こうみく (note.com)
どうも華僑の方も同じことを言っているようで、あながち与太ではないらしい。お国柄や歴史が変われば国民性や文化も変わるものだ、と感じ入った次第で、当然、中国人が悪の魂や人格を持って生まれた訳ではないのだ。
他方ドイツを例に挙げると、ナチスの行ったユダヤ人虐殺。ハンナ・アーレントが強調したように強制収容所の移送を担ったアイヒマンの凡庸さ、全人類ナンバーワンの悪党でも何でもなく命令に忠実に従い何万人をも虐殺したように、全体主義によって個人の個性は消滅させられ疑問に思う事すらなくイデオロギー(ユダヤ人は殲滅すべしといった)に傾倒してしまうといった話は大変有名だ。
同じように、関東大震災で流言飛語が飛び、在日朝鮮人は虐殺され、たまたま千葉に行商に来ていた四国の行商団も訛りが強かったことを理由に虐殺されたが、その殺害に加わった”市民”は別に元犯罪者でも何でもないただの市民で、後の裁判で無罪嘆願署名まで集まったという。かように人間は流されてしまいとてつもない犯罪すら犯してしまう、という例は歴史上枚挙にいとまがない。
(例えばロシアが行っているウクライナ侵攻、あるいは1139名の死者が出たハマスによるイスラエル侵攻、またはイスラエルによるガザ虐殺は国際法による”平和に対する罪”として裁かれる日が来るのだろうか?来ないと思うが来ないなら大戦後に裁かれて処刑された日本やドイツの首脳陣はいったい何だったのか?彼らに続き”平和に対する罪”を犯した者は処罰すべきでは。という虚しさがある)
さておき、冒頭で挙げた列に並ばない中国人にせよ、ナチスの例にせよ、彼らの行動や性格、倫理には歴史や文化、世間の風潮が強く影響していて、それは現代を生きる日本人である我々も同じであろうと私は想像している。
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現代で言うなれば「労働と自己責任、集団に対する責任が賛美され、公共福祉や人権はなぜ必要なのかも知らず、他人に強い言葉を勇ましく使うのが正しい、それを裏付けするのは力であり金である」という信仰がもてはやされる野蛮な時代だと私は感じている。
つまり、良心や思いやりよりも生産性や効率、インプレッションを稼ぐことに邁進するほうがケダモノであり、学校に嫌気が差して不登校になる子供や、過負荷労働で適応障害になるサラリーマン、あるいは不正を命じられて自死を選んだ兵庫県の公務員や森友学園事件の赤木俊夫氏のようなマトモな人間こそ潰れていく時代は、まさに野蛮と言うべきだ。
金儲けに邁進し、他人を蹴落とし、パワハラを嬉々として行い、力と金と乳を見せびらかす、そんな野蛮さはどこから来るのか。ここ数十年で人間の遺伝子が変化して野蛮になったのか。そうではない。環境や社会、テクノロジー、あるいは政治が人間を変えているのだろう。
先日アップした『家庭の話、ラインの黄金』稿に書いた通り、私の父は長年の調達・購買業務で尊大になってしまったし、私がパチンコという悪癖に手を出したのも(まぁ親父もやってるしな。。。)という意識があったのは否めない。つまり、個人の人格なんぞに「元々特別なオンリーワン♪」と謳われるほどの尊さも確固たるものもなく、単に国・歴史・家族・世間の風潮が性格・価値観の4割くらいを占めるのではないだろうか。そうでなければ国民性、あるいは関西人、といった概念は生まれる事すらないだろう。
あなたが清廉潔白で人から慕われるのは、たまたま周りの人間が優しい人に恵まれたからで、あなたが不適切な行動を取ってしまうのは周りの人間に落ち度があったからではないだろうか。
というのはいささか暴論だが、もし私が中国人の父母に中国で育てられていたら列に割り込むし道にタンも吐いていただろう。私の中にはそういう諦めがあり、良い人間も悪い人間も等しく受動的な存在でしかないと感じている。だからこそイヤな人間でも憎み切ることが出来ないし、優しい人間すら信じきれないのだ。また自分の人格をどうにかしようと考えるのも、ムダではないだろうか。だって4割は寄与のものであり、今後も影響され続けるのだから。
(例が侮辱的で申し訳ないが)列に割り込む中国人のように、気に入らない他人の振る舞いも4割くらいはその人のせいではなく、野蛮な時代に適合した環境や家族が悪かったのではないだろうか。もうそういう解釈で許していくほかに無い。正直、私たちもイヤな人間に対していつまでも恨みや怒りを抱えてるのもしんどいし、出会う人間出会う人間にレスバを仕掛けて論破するwみたいなのも愚かしいし疲れる。
まぁこのような事を考える、メタ認知の強い人間、共感力のある人間は現代社会においては劣等であり、とにかく我と目の前に写るものが全てと信ずる者こそ上等なのが悲しいのだが、、、どうせ皆、口では野蛮を嫌っても頼りたいのは野蛮な人間だし、モテるのも野蛮な人間である。何故なら時代や社会に適合しているのだから。他人を嘲笑い冷笑するのが得意な人間が人気者になる、呆れるほどに野蛮な時代だ。
もっと正直に言うと、立場・構造・物語を背景に会社で何も言えないまま私はサンドバックになっており、誰にも話を聞いてもらえず、未来に可能性のある若者と違い言葉を飲み込んで従順にしているほか術がない哀れな人間が、自分の良心と誇りを守るためにこうしてカチャカチャキーボードを叩いているだけの話だ。あぁグロテスク、こんな時代に誰がした。ぺけぽん。