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親知らずを、抜いた

親知らずを抜いた。

左下の親知らずと、左上の親知らずである。

5月に右下の親知らずと、右上の親知らずを抜いているので、
今回が初めてではなく、2回目だ。


35歳になって、どうして親知らずを抜こうと思ったのか、
理由ははっきりしない。
自分で決めたのだけれど、どうもそうでもないような気もするし。

きっかけはどこまで遡るのだろう。

歯の定期検診と歯石の除去で行っている、歯医者で、
先生から抜いた方がいいですよとはっきり言われたからでもある。

いや、うすうす抜いた方がいいんだろうなという感じはしていた。

それは、大学生の頃、
友人が
「親知らずを抜いたよ、痛かったわ」
とか、
「自分も親知らず抜かないとなんだよ」
とか話していたのを聞いていた頃から、
自分も抜くのではないかという予感はしていた。

たしかまだ20代だった。

どうしてそんな予感がしていたかと言えば、
歯並びがよくないことは自分でもわかっていたし、
自分より問題なさそうな友人が抜いて、自分が抜かずにすむわけがない、
と思っていたらからでもある。

とはいえ、
親知らずを抜かなくても、何も日常生活に支障はなかったし、
何より、何も痛くなかった。
何も痛くないということは、別に何もしなくてもいいわけで、
痛くなったら抜けばいいんじゃないか、
そんなふうに考えていた。

嫌な予感はしていたけれども、
それからずっと目をそらしてきた。

30代になって歯石の除去や定期検診に行っても、
虫歯はないですね、
と言われ、親知らずのことも別に言われなかったので、
本当にいいのか、大丈夫なのか、
と無駄にドキドキしていた。

なんか、やましいような、ちょっとした嘘がバレていないのか不安なような、そんな感じ。

それから、妻が歯の治療が上手そうな歯医者に変えて、
そっちの歯医者の方がいいよ、と言われて、
そうなのか、と思って、
定期検診と歯石の除去の歯医者を変えた。

そこでも最初は、親知らずのことは、
やんわり言われた程度だった。
「うーん、親知らずのところ、黒くなっていますね。
いずれ抜いた方がいいですよ。
どうします?」

いずれ抜いた方がいいというのは、
今でもなくてもいいということだろう。

「ああ、そうなんですね。
わかりました。
考えておきます。
今日はいいです」

「親知らずが横向きに生えてきているので、
抜くときは別の歯医者や口腔外科に紹介状を書きますので、
早めに教えてくださいね」

「あ、そうなんですね。わかりました」

そういうやりとりが、
定期検診のたびに、2〜3回あった。

いずれというのは、今ではない。

その時が近づいているのを感じるけれども、
断じて、今ではない。

そうして2020年になった。


年末にある占いを目にした。

以前から健康に問題を抱えている場合、
早めに治しておく方がよい、
というアドバイスがそこには書かれていた。

・・・親知らずの、ことか・・・!?

と頭をよぎった。

まぁ、たかが占いである。

ざらつく嫌な感触を残したが、まだその時ではない。

なぜなら、何も痛くないし、問題を抱えていないから。

また3ヶ月ごとの歯の定期検診とクリーニングに行った。

そしたら今度は、
院長が、
「これ、奥歯の親知らず、黒くなっていますね。
抜いた方がいいです」
とキッパリ言った。

いつもの歯科衛生士の方が、
「はい。いつもお伝えしていて、お考えいただいているところです」
と慌てて付け加えていた。

考えてはいる。いや、考えていたのだろうか自分は。
考えているようで考えていないようであり、
歯科衛生士の方に、お考えいただいているところです、
と言われると、考えていたような気もする。
それはまあいいとして、院長にキッパリ言われて、
専用の鏡で奥歯の方まで嫌というほど見ることになって
抜くか、と決意した。

「親知らず抜くのって、痛くないんですか?」

無駄とも思える、とっても情けない質問を、一応してみる。

「麻酔をかけますから大丈夫だと思います。
ただ、人によって、抜いた後は腫れますから、
1週間くらいお薬を飲んでいただく必要はあるかもしれません」

「一応、仕事に支障がないときに抜く方がいいですよ」

うーん、ほしい答えではないような気がして、
どこか満たされないところがあるが、
まあ、この質問自体、自分に言い聞かせているような気休めなので、
どうしようもない。

痛いと言われても、
痛くないと言われても、
納得はしないのである。

単純に、怖いし、不安なだけなのだ。


そんなこんなで、親知らずを抜くことになった。

右上と右下は5月に抜いたので、
8月31日の今日は、左上と左下だけである。

一回経験しただけで、
前回、だいぶ痛かったような気もするけれども、
不安は少ない。

今日抜けば、金輪際、親知らずを抜くことはないのだ。

「種村さん、今日の体調はどうですか」
と、紹介先の口腔外科の先生は、最初に聞いた。

「体調は、問題ないです」
と答えた。
咳喘息の持病があり、のどがちょっといがいがしたり、咳が出たりするが、
それは言うまでもないことだろう。
そういうことを言うのだろうか。

「体調は、問題ないです。(体調は問題ないのだけれど、前回抜くのに時間がかかったから不安です)」
という心の声もあるけれども、
ここで聞かれているのは、体調のことであって、不安などではない。
それはそっと心にしまっておいた。

でもやっぱり不安である。
歯を抜いている間に息苦しくなったらどうしよう、
咳き込んだらどうしよう、
なんて思いもあるが、前回も大丈夫だったのだ。
なんとかなるに違いない。

それに持病の咳喘息があることは、
以前にも伝えてある。
わざわざ言うことじゃあない。

「表面の麻酔からいきますね」

「深いところの麻酔をかけていきますね」

「ちょっと麻酔を追加しておきますね」

なんか、前回よりも麻酔の時間が長い気がする。
追加までしてくれたし。
前回は歯を抜いている途中で痛くなって、
途中で追加の麻酔をしてもらったのだった。

覚えていてくれたのだろうか。
長期戦になることを感じていたのだろうか。
よくわからないけれども、なんだかちょっと嬉しかった。

「麻酔が効いてきたと思いますが、体調は大丈夫ですか」

「はい」

麻酔のせいで口が痺れて呂律は回らないが、問題ない。

「それでは、ぼちぼち始めていきますね」

前回も先生は、「ぼちぼち始めていきますね」と言った。

そうか、ぼちぼちなのか、と僕は思う。
先生、まだ心の準備が、、、
と思わないでもないが、
ぼちぼちである。

ぼちぼちならいいか、よくわからんけど、
と思っているうちに、
手術は始まった。

左下の親知らずが真横に生えているので、
歯茎を切って、親知らずを4つに割って抜く、
と先生は事前に言っていた。

まずは歯茎を切開するのだろう。
このあたりは、麻酔のおかげでなんの感覚もないままに、終わった。
上場の滑り出しである。

「水の出る機械を使いますね」
と先生は言った。

キュイーーーーーーーーン、と音がして、
歯が磨かれているのか、削られているののか、
ガガガガと振動がくる。

顔は衛生的なシートとタオルで伏せられているので、
なんの機械を使っているのか見えないし、
事前に見ることができたとしても決して見たくないのだけれど、
”水の出る機械”でここまでなるのだろうかといつも思う。

ドリルなんじゃないか、と思う。
実際の機械は調べればわかると思うけれども、
何度もいうが、知りたくないので、調べはしない。

ドリルのような、水の出る機械のようなもので、
よくわからないけれど、削っているのだろうという心象風景が、
目をつぶっている自分には浮かんでくる。

なんで先生は、水の出る機械なんていうのだろう。
ドリルなんじゃないのか。嘘をついているのか。
実際に水が出るだけの機械なんだろうか。
そんなことを考える余裕がある。痛くはない。


「歯を割っていきますので、パキッというような歯が割れる嫌な音がすると思います。力も加わります。ごめんなさいね」

そう言って、先生は、ペンチのような何かで歯を少し割った。
麻酔で感覚は麻痺しているけれども、たいして割れていないような感じが伝わる。
ぺキッとかわいい音がするくらいなので。
まだまだ痛くはない。余裕である。

どんどん削っては、どんどん割っていく。
歯につよい力は入るし、顎にも振動が伝わるけれども、口を大きく開け、両手で椅子をしっかりにぎってふんばっていれば大丈夫だ。
痛くはない、たぶん。

いつもの歯医者では、
「上の歯は簡単に抜けるのですが、下の歯は横向きに生えて埋まっていて、神経にも近いので、もっと専門性の高いところで抜いてもらった方がいいです」
と言われていた。

本番はまだこれからだ。
前もそうだった。
もっと歯の根っこの方を削ったり、割ったり、抜いたりするときが痛かったのだ。
こんな簡単に抜けるはずがない。

どれくらい時間がたったのかわからないが、
削って割っての作業を20分くらい繰り返したころ、
だんだん、奥深くを削ったり、割ったりして、
神経にも響くようになってきた。

「くそー、なかなか抜けないな。
レントゲンでは根が2本に見えたけれど、3本か4本あるかもしれないな」
と先生が、他の医療者につぶやいていた。

ちょうど前回も、右下の歯の根が3本あって、
先生がとても苦労していたので、
うすうすそうだろうなと僕も思った。
(でも先生、4本ってことはないでしょ、と内心でツッコミをいれてみる)

時間がかかっている理由がわかると、ちょっとほっとする。


「暑い。扇風機ちょうだい」
先生が、他の医療者に言っていた。

歯を割ろうとペンチで力を加えたり、
抜こうと力を加えたり、
横になって目をつぶって口を開けているだけの僕にも、
これは体力勝負だというのがよくわかる。

僕も汗びっしょりだ。
暑いというのもあるし、力を加えられるたびに嫌な汗が出ているというのもある。
(先生、僕も扇風機がほしい、と心で思った)


麻酔をかけたはずなのに、
奥の方を削ったりしていると、キーンと痛みがしてくる。
喘息の感じでのどがいがいがしたり、
咳が出そうになると、削っている機械で、口の中を切ったり、舌を切ったりしないのか心配にもなる。
ほんとうに、ただ水がでるだけの機械なのか。歯は削れるのに、舌が切れないという保証はあるのか、急に不安になる。

「ちょっと舌を守っておいて」
と先生が他の人に声をかけて、舌を何かの器具で抑えてくれた。
作業している歯の方にいかないようにだろう。ちょっと安心する。


それにしても痛い。
削っていると、
歯に響くし、あの虫歯のときのような神経にキーンとする痛みがある。
麻酔をしているからこの程度の痛みは仕方がないのか、
どうか迷う。
先生からは痛かった右手を挙げて教えてと言われているけれど、
この制度をどのタイミングで使ってよいのか、ためらう。

早すぎると、こんな程度も我慢できないのか、
と思われかねないし、
なんか恥ずかしい気もする。

だいたい、こんな親知らずを抜く痛みや虫歯の痛み、
歯の神経を刺激する痛みは、
出産の痛みに比べたらなんでもないだろう。

世界には、麻酔を使わずに歯を抜いたりする人たちもいるかもしれない。
そういう通過儀礼もあるかもしれない。

歯が痛いくらい、親知らずを抜くのが痛いくらいで、
死にはしない。
泣き叫びもしない。
それならやっぱり、手を挙げるまでもないのではないか。

そんなことが頭をめぐりながら、
自分の痛みなんてたいしたことないと説得しようとするのだけれども、
やっぱりキーンとした痛みがある。

右手を挙げて、
「先生、痛いです」
と勇気を出して言ってみた。

「あ、痛いですか。
麻酔を足しますね」
といって、自然と麻酔を足してくれた。

痛みは感じにくくなった。

やはり、麻酔はすごい。

そんなことを思っていたが、下の歯はまだ抜けない。

「うーん。奥深くまであって、なかなか抜けないな。
ちょっと止血しておいて、その間に、上の歯を抜きましょうか」
とさらりと言った。

もう先生にお任せするしかない。

「はい」
とだけ答えたところ、
先生は僕の口にガーゼを詰め込んで止血をして、
それから上の歯を抜きにかかった。

上の歯は、まっすぐ生えているので、
先生が言うように、簡単に抜けた。
5秒力を入れてひっぱり、また5秒くらい力を入れて引っ張ったら抜けた。
下の歯にもう20〜30分位かかっているのとは対照的に、10秒で抜けた。

「これ、根が深いな」
と先生は、他の医療者につぶやいている。

「根がつながっているのかも」
と先生。

歯の根がつながっている?
そんなことはないだろうと僕は思いながら、歯の根がつながっているイメージを思い浮かべてみた。それはなんか抜ける気がしなくて、諦めのような気持ちさえ湧いてきた。

ああ、どうして抜くなんて言ってしまったのだろう。
痛くもなかったのに。
先生、もういいです。やめてください。って言いたくもなった。
でも、もう歯を削って、いろいろと割っている。
後戻りはできそうにないし、そんな歯を想像したくもなかった。


子どもの頃、かたいものを食べないと歯が丈夫にならないよ、
と親に言われたことを思い出して、
あのとき、かたいものを食べていればとも思った。
母は、小学生の頃、おやつにといって煮干しを買ってきてくれていた。
1つか2つ食べては、かたいしおいしくないといって食べなかったのだ。
いま、小学生に戻っても、食べない気がするから、仕方ないと思った。

自分の子どもには歯と顎が丈夫になるように、
かたいものを食べさせようかと思った。
いや、きっとそこまではしない。


それにしても、そろそろ抜けないのだろうか。
もうだいぶ削った気がする。

先生は、
「これはエンシンコンか。
エンシンコンなんて抜くのは珍しいな」
と他の医療者に話している。

エンシンコンってなんだ。
よくわからないけれども珍しくて、時間がかかっているらしい。
こういうとき、漢字がわかったらもう少しイメージができるのかもしれないが、自分の歯がどうなっているのかさっぱりわからない。


「ごめんなさい。また、歯に力が加わって、パキッと割れる音がします」
と先生は言う。
先生、全然謝る必要ないですよ、と思いながらも、ごめんなさいと言ってもらうとどこかほっとする部分がある。

もうだいぶ削った感じがする。
また歯の神経が痛くなってきて、また右手を挙げた。
「ちょっと痛いです」
もう我慢した方がいい痛みなのか、仕方ない痛みなのか、なんとかしてもらえる痛みなのかわからないけれども、痛いのは痛い。

「神経にだいぶ近いところですからね」
「青い針もってきて」
「神経の部分に麻酔をかけますね。ごめんなさい、ちょっと痛いですよ」
と言いながら、麻酔をしてくれた。

上の歯は10秒で抜けたのに、下の歯は30分くらいかかっている気がする。
時計が見えないからよくわからないけれども。

先生は、
「針を変えて」「乾電池持ってきて。単三の」などと、いろんな指示を出しながら、歯を抜こうとしていた。
針、壊れたのだろうか?単三電池は何かの電池切れだろうか?
などとちょっと想像してみるものの、よくわからない。

だいぶ歯も割れてきたのだろう。
力を加えて、なんとか歯を抜こうとしているのがわかる。
麻酔をしていもて、杭を抜くように歯の根っこが抜けるような感じがする。

「痛っ」
と思わず声がでたら、
「1つ歯の根っこが抜けましたよ
あと2つです」
と先生。

そしてまた、力が加わって、
「痛っ、痛い」
と思わず声が出たら、
「3つのうち、2つ抜けました。
あと1つですよ」
と先生。

あと1つか、というのと、
この力のかけ具合と痛みがもう1回くるのかという、
もうどうにでもなれという気持ちの中で、
3つ目の歯の根っこも抜けた。

「抜けましたからねー」
と言われても、ズキズキするなぁ、と思いながら、
椅子に座って呼吸ははあはあしていた。
抜いたところや切ったところを糸で縫ってもらって、
終わった。

歯を抜き始めてから1時間が経っていた。
どれくらいが普通なのかもわからないから、
短いのか長いのかもよくわからない。
ただ、上の歯が10秒で抜けたことと比べれば、
やはり40分近くかけていた下の歯は長かったんじゃないかとさえ思える。


先生が抜いた歯を見せてくれて、
「今回、レントゲンでは歯の根っこが2本写っていたのですが、
実際には3本あって、それも奥深くて時間がかかりました。
今回、下の歯は抜く過程でバラバラになっています」
と説明してくれた。

当初は、4つに割って出すということだったけれども、
その歯は、8個以上の破片に分かれていた。
ま、前回もそうだったので驚きもなにもない。

「そして、3本の歯の根っこのうち、
この1本は、通常の根の1.5倍から2倍の太さがあります。
そのため抜くのが大変でした」
と教えてくれた。

言われてみれば、確かに太い気がする。
そうなのか、と思いつつ、もうとにかく抜けたのだからいいやという感じもする。

「神経は出ていませんでしたので、薬を塗って糸で縫っています」
ということで、
そうか、あれだけ痛かったけれども神経には触れていなかったのかぁ、
なんて思ったりもする。
神経が出ていたらどれだけ大変なんだろう、と。

1時間近く格闘してくれたのだから、先生にはやっぱり感謝だ。

歯はしびれているし、
思ったより全身はぐったりしているけれども、
「ありがとうございました」
と3回くらいお礼を言って、その部屋を出た。

会計処理を待っている待合スペースと、
歯の処置をした部屋はカーテン一枚で隔てられているだけなので、
さっきの先生たちの会話がちょっと聞こえてくる。

「いやぁ、これは痛いと思うよ。大変だったね」
と先生。

「そうですよね。見るからに大変そうでしたもん」
と若い女性の声。

大変だったのかどうかはわからないけれども、
こうして横向きに生えた親知らず、水平埋伏歯の抜歯が終わった。

この痛みも経験もきっとそのうち忘れることだろう。

歯が失われた、上下のスペースを、舌で探るのがちょっと怖い。
なんにもなくなってしまったような感覚があるから。
それでも次第に慣れていくのだから、人間の感覚というのは不思議でもある。


夕食は、冷奴とスープくらいしかのどを通らない。


将来はもっと技術が進んで、
まったく痛くなく、親知らずを抜けるようになるのかもしれないと思いながら、まぁ、これはこれでよかったんだろうなと思う。



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