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見慣れた卵かけご飯を、いつもと違う茶碗に盛る。

朝だ。
のそりと布団から起き上がり、俯瞰で自分の寝床を眺める。

畳の上に一夜中私の重力を受け止め続けた布団が抜け殻のように萎れている。巨体に巻き込まれた掛け布団は裏表が逆になり、敷き布団にゼロ距離でチェック柄を見せびらかせている。ゴムで四隅を留めるタイプの敷布団カバーは、ゴムが伸び切り、望まぬだらしない波形を獲得している。

いつものように窓を開け放ち、光を入れる。いつからか発せられるようになった澱んだ自臭を外に分け与え、新鮮な空気で中和する。目の前を走る普通電車の乗車率を目で追う。小鳥がちゅんちゅんと模範的に囀っている。天気はイマイチなように見えるが、もう少ししたら晴れてくるらしい。

昨日は理由もなく夜更かしをした。いや、理由がないというのは嘘、大きな不安を抱えているからに違いない。不安が巣食っているとどうやったって規則正しく眠ることはできない。その不安の大元を解決できそうにない事柄だと特に。

動悸がして眠れないのではなく、まだ何かをやり残した気がして眠りたくない。とはいってもやることと言えば、自己啓発要素のある動画を観て自分を奮い立たせ、その直後には質素な暮らしを発信しているYouTuberの動画を観て「足るを知る」だ、と元の位置に自分を戻す。そんなことを繰り返しているうちに丑三つ時を越え、左横にある仏壇の存在を強く意識し始めた頃に諦めるように眠るのだ。

不条理めいた事柄であったとしても「まぁ仕方なし」と受け入れ、自分にも非があるのだと思えるようにはなった。事実を受け止めて前を向いてもいるが、それと不安の有無はまた別物だ。布団と一緒に不安も脱げれば万事解決なのだが、内部に深く侵入した不安は脱皮したって、内部に留まる。仕方なく昨夜の憂鬱や不安をそのまま羽織って朝を迎える。

とりあえず用を足し、キッチンに向かって冷蔵庫を開ける。ジップロックの偽物タッパーに入れられた米が不憫にも行き場を失い、シャウエッセンなどと共にチルド室で冷えている。がさっと取り出してそのまま電子レンジに放り込む。600Wで2分。見知ったいつもの朝だ。同時にアルマイト鍋に残った昨夜の豆腐の味噌汁を火にかける。霧吹きに水を入れ、観葉植物たちに葉水をして回る。

2階のデスクに置いた子パキポディウムを眺めていると階下からピピーとレンジの音がする。飯に関する音への反射神経は、太い人ほど良い。踵を返して、どすどすと階段を降りていく。

アチチになった米を取り出し、蓋を外すと、湯気が立ち昇る。先程までチルド室で冷えていたとは思えない。タッパーのまましょうゆをひと回し。かき混ぜた納豆をのせ、中心をかき分ける。かき分けてできた窪みに生卵を割落とし、その上からもう一度しょうゆを回しかける。味噌汁も温まっている。眇眇たる豆腐の小片も逃さない。これとバナナヨーグルトと牛乳。納豆を切らしていたら味の素を振りかけたりもする。そんな朝食を毎日食べている。

この変わり映えのない朝に飽き飽きすることもあるが、生活に普遍的なものがあることは悪いことではないと気づけるくらいには大人になった。それがどんなにささやかなものであったとしても。そう気づいてからはいつものようにチルドで冷えている米に「またお前か」と辟易することもなくなり、むしろ「おはよう」と挨拶を交わせる友のような存在になっている。その後無慈悲にかき込むわけだが。

普遍的な卵かけご飯は、常にご機嫌とはいえない私の安定剤的なところもある。気持ちは簡単に浮き沈むけれど、その浮き沈みに共鳴して卵かけご飯が変化することはない。朝に卵かけご飯を食べることで、気持ちばかりのチューニングをし、フラットな位置に自分を戻そうとしている。そうしようと思って毎日食べているわけではないけれど、いつもある卵かけご飯がそういう意味を持ち始めている。

また、毎日の卵かけご飯をどう捉えられるかで自分の今の状態を測ることもできる。「またお前か」という時はきっと心がささくれている。「やったー」と思える時はきっと恋愛初期のような何もかもが輝いて見える時だ。そして今の私は、卵かけご飯を見ても特に心は動かない。卵かけご飯がそっくりそのまま卵かけご飯に見えている。悲しみに打ちひしがれて感情を失ってしまったわけではなく、下の方かもしれないがある一定の場所で感情が安定しているのだと捉えている。


世間には卵かけご飯のアレンジレシピ的なものが多くある。
黄身を醤油漬けにしたものや、卵白を撹拌して雲のようにしたものなど。でも、今のところ私はそういうものにはあまり惹かれない。卵かけご飯を普遍的な存在から逸脱させたくないのだ。普遍的な存在であるはずの卵かけご飯が変わってしまうと、チューニングの基準がなくなる。卵かけご飯と私はいわばダイアル式の鍵のリングだ。どちらかを固定できれば、0から9まで順に試せば良いが、どちらも動かさないといけないとなるとなかなか鍵は開かない。

だから「うちの卵かけごはん」というお題を見て、何か書きたいと思ったのに、人に紹介するようなレシピめいたものは何もなく、困った。ただ毎日のタッパー卵かけご飯を紹介するのも良いが、自己満過ぎる気がして憚られる。
それでも書きたいなと考えた時に、タッパー直食べではなく、茶碗に盛り直そうと考えた。驚くほどにささやかな変化である。これもまた自己満の範疇をまったく越えていないが、その時の心の動きを観察しようと。

もはや実験でもなんでもない。米が元いるべき場所に帰っただけである。米からすればタッパーの方が旅先である。しかし、働き方や生き方の多様性が叫ばれている昨今、米にも多様性が適用されていいのだ。外国人の方が日本のことに詳しいように、身近過ぎて当たり前の事象「米は茶碗に盛る」がタッパー直食べが常態化してしまった私にとっては地味に新鮮なのだ。(朝食以外は茶碗で食べているが)

そして、普段使っている茶碗ではなく、ええいと新調してみた。

窯元を訪問して、こだわって選んでやろうと一瞬考えたが、それも違う気がして、Amazonを立ち上げ、いつもは選ばない濃い色の茶碗を何の気なしにポチった。翌日には届く。そして届いた翌日の朝、早速試してみようと画策するのだ。

うっかり浮かれていきなりいつもと違う行動を取ってしまった。普段より1時間も早く起きてしまったではないか。何も変わりはないだろうとたかを括っていたのだが、迂闊にも心が躍っていたのだ。何か辛いことがあったて、それはそれだ。これくらいの小さなことで嬉しくなってしまうほどまだまだ感情は生きている。だから飯は侮れない。

まだ少し早いと思い、しいたけなどきのこ類を干す。朝の空気が心地良い。きれいに並べたカットしいたけはもはやパンのようだ。なんとも言えず愛おしい。今年はじめて梅干しに挑戦してからというもの、「干すと可愛い」という事実に気づいてしまい、すっかり何かを干すのにハマってしまった。また感情を動かしてしまった。

良い時間になったので、食べよう。いつものようにタッパーごとチンし、いつもとは違い、新しい茶碗に盛り直す。タッパーで食べていたからその米量はなんとなくベールに包まれていたが、米盛り専用の器に盛られることでその量が容赦なく明らかにされる。

「タッパーに半盛りくらいの量」と少し控えめ感を装っていたが、茶碗に盛ると、しっかり山盛りだった。器次第で山の標高は高くも低くもなる。これでは納豆と卵をのせられないと思い、山頂付近、いや7合目より上の部分を箸で掬い取り、口に運んだ。

山が均されたところで、いつものように納豆をかき混ぜてのせる。中心部をかき分け、生卵を割り入れるが、いつもと勝手が違うからか、思わず白身をとろりと流出させてしまう。自重で自分を次々シンクに引っ張り落としている。しばらく眺めてしまった。キッチンペーパーで拭き取り、しょうゆを回しかけて、食べる。いつもと同じくおいしい。


結論から言うと、何か気持ちが変わるということはなかった。いくばくかの新しいものを使っているという高揚感はあるものの、その感情は数日使っているうちに消えるだろう。

それは私がただ鈍感なだけかもしれない。
実際にはタッパーで食べるよりも背筋が正される思いがする、とか洗い物も丁寧になるので、心が穏やかになるなどの効果もあるのかもしれない。でもその効果を期待して、茶碗を使おうとは思わなかったのだ。何かが変わることを期待していたかもしれない。でも、変わらなくてよかったとも思う。

しかし、私がもう茶碗を使わない、タッパーのままで良いやと思ったかというとそうではない。逆に目立った変化がないから、何に盛ったって良いやと自由になれた。タッパーのままでも良いし、茶碗でもシェラカップでも何に盛っても良いのだ。容器を変えることに特別な意味がないからこそ、たまには茶碗に盛ってみようと思っている。

結局、卵かけご飯は何に盛っても卵かけご飯だった。わかったのはいつも食べている量が茶碗山盛りだったことくらいだ。健康診断で肝臓の数値で引っかかった時に、再検査で訪れた医院で非力なお爺さん先生に腹を揉まれ、「太いね」と言われて終わった時くらいの徒労感を感じながらも、少しだけ世界が広がった気もするのだ。明日は何に盛ろうか。


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