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みなと【神戸】
まずい。このままでは鰻を食べ損ねる。
5年前ごろに制定された一夏一鰻のマイルール。我が腹が定めたこの法を犯すわけにはいかない。私本体は我が腹のしもべに過ぎないのだから。
腹のために重い腰を上げ、残暑の候に滑り込むように赴く。
友人との約束は、11時50分。
8時半の電車に乗り込み、神戸三宮を目指す。
少し早めに到着し、先にどこかで1杯入れるつもりだったが、考え直した。鰻をしっかり迎え入れるために、腹は空にしておこう。
その代わりに本屋を訪れ、息子用に寿司になる前の魚の姿と寿司を同時にチェックできる図鑑を購入した。そういう本がないか先日から探していたらあった。
1,800円くらいと思って、値段を見ずにレジに向かったが驚きの高額。これから鰻を食べようと言うのに…。少し怯む。喜んでくれれば良いなとだけささやかに願う。
その後、ライフワークであるうまい飲み物探しを開始。食料品も売っている雑貨店を訪問し、マッチ箱のような可愛いデザインの箱に入れられた紅茶を発見。
数年前まではとりわけこういった可愛げのあるものに目が無く、見つけては買っていた。めっきりそういうこともなくなったが、自分を取り戻すように2つ購入する。
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ここからも買えます。
「みなと」に開店10分前に到着。
ビル1Fの奥まった場所にひっそり佇んでおり、風格を感じる。
開店後すぐに席に通され、メニューを一瞥。
サービス定食でうな丼もあるが、うなに関しては妥協したくない。もちろん丼でも十分なのだが、やはり重に限る。そして生ビール。
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ほどなく運ばれてくる重。
いつだって、なんだか小さく感じてしまう重。密度に期待する。
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つやつやとしたしんこ盛りと肝吸いも到着。
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ついに蓋を開ける時がきた。この瞬間を夢見ていた。
一夏に一度だけ開かれる蓋は、夏の扉そのものだ。遅ればせながら今本当の夏が始まる。
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開けた瞬間、湯気が立ち昇る。うな重てそんなに湯気が立ち昇るものだったっけ。
つやつやとした脂が滲み出ている。人と目を合わせることが苦手な私も、この吸い込まれそうな焼き目とはしっかり目を合わせることができる。
箸を入れるとふわっと解ける。さすが良い鰻を使っている。
タレの染みたご飯と共に口に運ぶと、やっぱりどうしたって笑顔が弾ける。ビールと流し込めば、体のいろいろな部分が弛緩する。
この替えの効かない特別感が好きだ。
ナスの蒲焼丼みたいなレシピや、スーパーの鰻をふっくら焼き上げる方法みたいなものをよく見かけるが、私はそれらには目もくれない。
そういった代替案的なものを否定しているわけではない。ナスの蒲焼も驚くほど美味いのだが、どうしたって鰻にはなり得ない。
私は歴史を感じる店で、しっかり重に入った特別な鰻が食べたいのだ。
だから一夏に二鰻、三鰻とは言わない。
一鰻で満足できる至高の鰻を食べたい。
(怒りが収まらない時に鰻を食べるというMYルールもあるので、複数鰻行く場合もあるが)
テクノロジーがいくら発展しても、しっかり現金で払いたくなるようなそんな気分なんだ。
この先もずっと一夏一鰻を食べたい。それは自分が今幸せに生きていられるかどうかの判断軸にもなる。鰻を食べて夏を終えられたのならそれはこの上ない幸せだ。