喝采
「人生は実は無意味で、自省をしすぎる人はそこに気が付いて絶望してしまい自殺することが多い」というような言説がTwitterで流れてきて(ちょっと文面違うかもやけど)、少し考えてみた。これに関しては積極的に同意するわけでも異論があるわけでもないが、なんとなく無視できないものを感じたからだ。
まず人生に意味が無い、という話には割と賛成である。これはネガティブな意味ではなく、俺としては無いものは無いのだから考えても仕方がない、くらいに思っている。そもそもの前提が一段飛ばしになっていて申し訳ない。
なぜそう考えるようになったのか、自分の人生を遡っていくと「ここだ!」という確固たるきっかけの出来事があるのだが、特に紹介する必要もないし何よりめんどくさいので書かない。俺がそう思っているということだけ分かってもらえたらいい。
問題は人生が無意味だと捉えられるようになってからも俺が死にたいと思ったことは一度たりとも無いということである。
少し話が逸れるが、昔ブログを書いていた頃に「率先して意味の無いことをする人のもとには沢山の人が集まる」というようなことを言ったことがある。「人気者の条件」とかそんな胡散臭いタイトルだった気がするが、実際それは今も大事にしている持論だ。周りの人が思わず「そんなことして何になるの?」と聞きたくなるようなことをして、「そんなもん知るかー!」と笑って答えられる人はどうしようもなく魅力的に見える。打算や下心などは人と人の間にあって当たり前で、それ自体が悪いなんてもちろん今は思ってないが、だからこそ余計にそれらを無意識に取り払える人は眩しい。少なくとも俺にとっては。
意味が無い、というのは実はとても信頼に足る状態なのだ。
冒頭にも触れたTwitterなどは最たるもので、俺はTwitterのまっっったく意味の無いところが大好きだ。それ故か、逆に意味を求めたくなる人達にとっては本当にしんどい場であるようで、特に昨今は俺の友人の中にもつぶやくのをやめてしまった奴や、アカウントを消して退会してしまった奴が何人かいる。まあそれをとやかく言う気はないし、しんどいと思うことなら絶対やらなくていいと思うけど、おもろい奴が書くおもろい文章を見る機会が減るのは単純に寂しいものがある。
あまり観点を移しすぎても冗長になるので、手っ取り早く結論に辿り着くために自分の話ばっかりするが、俺がこれっぽっちも死にたくならないのは日頃から「俺は白いご飯になんらかのタレや汁をかけて食べる為にこの世に生まれてきたのかもしれない」というような冗談レベルの価値観を、半ば本気で自分の軸として持とうとしているからだと思う。生き甲斐や矜持といった立派な言葉たちが音も立てずに崩れて消えていくようである。しかし、人生ならびに生活とは案外その程度のものであったりするかもしれないのだ。
こういうことを言うと日頃の生活に転がる小さな幸せ一つ一つを大事にしていきましょうね、みたいなある種の自己啓発的なものとごっちゃにされそうだが、それとは微妙に違う。そもそも俺はそういう庶民性への開き直りをわざわざ見せつけるノリは大っ嫌いだからだ。「私はかしこまった服装に身を包んで高級なレストランで夜景を楽しみながらする食事なんかより、安くて汚い居酒屋で一杯90円のハイボールを片手にちっちゃいチャンヂャをつまむサシ飲みの方が好きだなー」みたいなアレである。あーもううるさい。ノブナガ、少し黙れ。そんなもんどっちもええに決まってるやろ。こういうことを言っておいたらより多くの人間を味方につけられるだろうという見え見えの魂胆がお前のチャンヂャを余らせている。ちゃんと下に敷いてるシソまで食べてんのか?
そういえば、ダウンタウンの浜ちゃんがライセンスか誰かにご飯を奢る時、「俺とメシ行くときはええもん食わしたるけど、一人で貧乏してる時は安いメシ食うとけよ。なんでも上も下も知ってた方が深みが出るんや。」と言っていたのを思い出す。言ってたっけ?言ってなかったらごめん。まあ回らない寿司を食べられるようになってもカップ焼きそばってめちゃくちゃ美味しいし、寿司食ったことは忘れないじゃんって話。
いよいよ何を言ってるか全然分からなくてなってきただろう。実はここまで書いたこの文章自体にも何の意味も無いんです、とかそんなオチをつけたいわけではない。
俺が言いたいのは、「人生は無意味だが、せっかくそこに気付いたんならおまけの楽しみをたくさん見ながら死のう」ということだ。こんだけダラダラ書いてきてそれかよ、と思われるかもしれないがこれだよ。
おそらく生きるに値するだけのものは無い。ただこれは生きるに値するだけのものなのかもしれないと思い込ませてくれるものはある。そしてそれは何回失っても次々と出てくるんだと思う。死なない限り。