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自分のキャパで悩む人へ(思考実験を引用しながら)

田中マイケル君です。頭の中を少し整理したいと思います。

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このような問題を中学生くらいの頃に目にしたことがある。当時の僕は「命!」と即答し、それ以上深く考えることはなかった気がする。

現在もそれほど深い思慮や知識などある訳もなく、ただの「一般大学生」ではあるが、今見ると見方が変わってくる。

「生物的組織」「ひよことしての形」「良心」「時間」「労力」もちろん「命」、、様々な答えが思い浮かぶ。

そもそも答えなどあるのだろうか。上記に挙げた答えはどれも一つ一つが正解であり、不正解など無いように見える。失われている訳であるためだ。ではこの問題には明確な単一解答などないのであろうか。

様々な思考を巡らせたが分からん。そこで、問題文から定義付けを始めることとした。

「失われるのは何か?」

何を失うのだろうか。私はひよこに着目しすぎて、もっとマクロな視点を持つことが出来ていなかったのではないか。そこで視点を変えた。「失われた」ではない。「失われる」のだ。現在進行形。すり潰す過程で失われるとは一言も言ってない。視点を、「この問題を見ている私を第三者的に見る視点」に切り替える。ここで一つ気がつく。この問題を見ている時に視力も行使するために視力も失われるのではないか。これも別解答だろうけど今の問題に関係ない。

一番失われてしまっているのは、「自分の視野の広さ」ではないか。もっと別の視点がある、もっと別の解答があると考える度に物事の本質から遠ざかっていく気がする。更に言えば、この問題に注力する時間があれば、もっと他の注力すべきことに時間を割けたのだ。僕にも他に注力すべきことはある。悩んでいることなど沢山ある。なのにそれに割く時間が失われている。どれも「自分の視野の狭さ」が招いている事象である。何たる自業自得。

元々私は視野が広い人間ではない。そのため視野の狭さを頑張って背伸びして広く見せていたことは多くあった。しかし現実問題背伸びした私より視野の広い人間など沢山いるのであって、自分の能力の低さに絶望したことも沢山あった。これは個人個人の能力(キャパシティ)にも同じことが言える。元々無いキャパを大きく見せることなど不可能だ。ではどうすれば良いのだろうか。

自分ができる範囲の視野、キャパを把握して、その中で頑張るだけで良い。

自分の視野の広さ、キャパを理解できるのは最終的に自分だ。その範囲で頑張ることを誰も否定しない。私は賞賛する。自分のキャパの小ささに打ちひしがれ、辛い思いをしている人に理解してもらいたいのは、「誰もキャパを超えた範囲で頑張ってほしいと思っていない」こと。自分が出来る範囲で、無理なく頑張って欲しい。挑戦するなとは言わない。挑戦は応援されるべきだ。それでもキャパを越えそうな時、無理せず他の人を頼れば良い。世間で有能と呼ばれている人間達は、みんなキャパがバケモンな訳では無い。自分の出来るキャパ内で最大限頑張っているだけである。そう思えば、きっとキャパが無くて辛い時も頑張れるし、キャパが無い「等身大の自分」を愛せることにつながると考える。

話は逸れたが、この実験は「自分の視野が狭くなっていないか」ということを私に教えてくれた。そして私がこの問題を通してみんなに伝えたいことは、

「等身大の自分で頑張って欲しい」

ただこれだけ。応援しています。

以上、田中マイケルの頭の中でした。


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