親への感謝が薄れていく
娘が手術する。わたしも経験したことのない、全身麻酔を伴う手術と入院。2歳のときに持病の検査で全身麻酔はかけているものの、それより強い薬らしい。先日は術前検査で、そこで受けた麻酔科の先生による説明もしっかりしたものだった。
「この病院においては比較的簡単な手術で、今まで事故もない。あまり心配されないでください」と前置きされたものの、ありうるリスクの説明を延々受け続けていると、西洋医学を全面的に信じているわたしの胸にも心配がとぷとぷと流れ込んでくる。そのリスクのどれかが娘に牙をむいたら、とイメージして、真っ黒な油を飲んだような絶望的な気持ちになる。
おおよそ飛行機事故を恐れるようなものだろう。考えても仕方がない。客観的にはそう理解していても、「もしも」の向こう側にある考えたくもない未来がちらりと目に入ると「この選択でいいのか」と一瞬立ち止まってしまう。娘の手を握る。切ったばかりと思ったのに、ずいぶん爪が伸びていた。
麻酔科医の説明、採血や心電図含む術前検査が終わった。長丁場に疲れはて、ぼてぼてと歩く娘を見る。4年前まではこの世にいなかった娘を。4年10ヶ月前まではどこにも存在していなかった、娘を。
いろいろあったけど、おおきくなったな。なにはともあれ笑顔で大人になってくれれば——。
ふと先ほどの「リスク」の話が頭によぎる。産後、笑ってしまうくらい涙もろくなったわたしは鼻のしびれる痛みに耐えながら娘にたずねた。
「抱っこしようか? 疲れたでしょ」
はじめの3つの音で、呆けていた顔にぱっと日が差した。
「うん!」
ずしりとした重みと、首に回るやわらかい腕の感触。肩にあごが乗る。娘がどんな顔をしているか、見なくてもわかる。耳元でささやく。
「よーくがんばったね。とくべつにジュース、飲む?」
さらにどんな顔になったか、わかる。
「うん!」
ちいさな野菜ジュースを院内の売店で買い、駐車場まで抱っこ。車にはいつも自分で乗ってもらうけれど、とくべつに乗せてあげた。
野菜ジュースにストローを挿して、渡す。
「ありがとー! ママはやさしいねえ」
うれしそうに言う娘を見て、ふっと、ある映像を思い出した。
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幼稚園の年長か、小学校の低学年。40度近い高熱を出してぐったりしていたわたしは、2階の畳の間で横になっていた。母が階段をのぼってくる音。ふすまが開く。
「桃、食べようか」
おそらくほんとうにしんどかったのだろう、わたしは寝たままだった。ちいさく切った桃を、母が口に運んでくれる。わたしが娘を車に乗せてあげたように、とくべつに。
ひんやりした甘さが口に広がる。目からポロっと涙がこぼれた。次から次へと出てくる涙は、右に左にと流れていく。母は「あらあら」とその水滴を指でぬぐった。「どうしたの?」。
しゃくりあげながら、くるしい、と答えた。かわいそうに、と眉を下げられた。
でも、ちがう。
はっきりと覚えている、「どうしてこんなに優しくしてもらえるんだろう」といううれしさ——どちらかというと不思議さで泣いていたのだ。
ずっとずっとよくわからなかった。「ゆうこはなんにもしてあげられないのに、どうしてお母さんはこんなによくしてくれるんだろう?」と。
その前に熱を出したときには、「ゆうが体調崩したから今日のランチごめん!」と電話している母の背中を見て、申し訳なさすぎてどうしていいかわからなくなったこともあった。いろいろしてもらっているのに、迷惑までかけてしまった!
それまでのいろんな気持ちが溢れたのが、あの、桃のときだったのだ。
母はチャーミングで、家族思いで、ダメなところもあるけれどそれは当たり前で、ごく普通の母親だ。それでも「こんなに時間やお金、手間をかけてもらえるのはなぜか」という感覚は、とくに実家にいるあいだ根強くあった。これはもうわたしの性格か、ほかに理由があるとしたらもはや前世のなにかなんだと思う。
でも。いまならわかる。
娘であるわたしは、決して「なんにもしてあげられな」かったわけじゃない。じゅうぶんに「あげていた」のだ。
「大好き」「かわいい」「愛しい」「おもしろい」「うれしい」「はっとする」——いろいろな切実な感情を、成長のよろこびを、存在のかけがえのなさを、母にあげていた。
親なんて。
「なにはともあれ笑顔で大人になってくれれば」、そんな気持ちをもらえるだけで、じゅうぶんなのだ。こんなに心配できるのも、存在してくれるからこそ。
高熱にうなされるわたしに向けられた目は、いま、わたしが手術前の娘に向けている目と同じだろう。
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産後、親への感謝がすぅっと薄れていくのを感じている。もしかしたら一般的な感覚と逆なのかもしれないけれど、それは悪いことじゃないというか、「ありがとうね、でも楽しかったでしょ?」と握手したい気持ちに近い。娘を眺めつつ、「お母さんもこんなふうに、かわいいわぁってしみじみしてたのかな。よかったねえ」と誇らしく思うことすら、ある。
できることなら「どうして、なんて気にしなくていいよ、ホントに」と昔の自分の頭を撫でてあげたい。「にこにこしてればいいよ」と。それはつまり、娘に言いたいことでもある(いまのところ、そんな偏屈なことを考える性格ではなさそうだけど)。
……とはいえこれは、幼い娘と暮らしての話。今後、たとえば娘が思春期に入ったとき、母に対する猛烈な感謝に襲われるかもしれない。娘に「もっと感謝してくれ」と思うことも、「欲」が出ることもあるだろう。そのときにこの文章を読んで「浅はか! バカ!」と怒るかもしれない。
それでもわたしはいま、薄くなった親への感謝が心地いい。薄くともたしかにそこにある感謝と、同士のような気持ちが。
手術のときには、めいっぱい甘えさせよう。「ママがやさしかったナ」と、少しでもいい思いが残ることを期待して。
なにはともあれ、笑顔で大人になってくれれば。