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それは恋にも似た感覚で

どうしても大人と話したい気分だったので、保育園帰り、「外ごはんしよっか」と3歳の娘を誘って近所の飲み屋に行った。38歳のマスターがひとりで切り盛りするそのお店は、創作料理とお酒がおいしいだけでなく気軽なおしゃべりが楽しい店。仕事で疲れた日、「今日はしゃべり足りないな」と思う日におじゃますることが多い。

幸い娘は食べるのが大好きだから、家とはちがうごはんを味わったりオープンキッチンの様子を見たりして、ずっとご機嫌だった。わたしはマスターと2人で、ときに娘を入れて3人で、たくさん話して食べて飲んだ。

ふくふくと満たされ店を出た。時計を見る。

——20:30をまわっていた。笑ってしまった、2時間もいたのか。いつもなら寝室に向かう時間だ。

「ねえ、もう8時半だ」
「おそい?」
「おそい、おそい。すっごいおそい」

けれど生ビールとハイボールを数杯飲んだわたしはほろ酔いで、秋の夜風も冷たすぎず、娘が「あっち行きたい」と引っ張る方向に「いいよいいよ」と歩を進ませた。「このお店はもうしまってる」「こっちはまだやってる」と指さし確認する娘の手はあたたかい。

ねえ、いいでしょう、夜の三軒茶屋も。娘にそう言うとウンとうなずき、「さんげんぢゃやー!」とコールしてけらけら笑った。わたしも笑った。「今日は特別ね」「とくべつ!」。

そのままわたしたちは、街頭に惹かれる虫のように、夜道に光をはなつ太子堂商店街の古着屋に入った。すこしばかりの子ども服と、レディースの服。どれがいいかな、これ似合うかなと言い合いながら、でもピンと来るものがなく店を出た。ほんの少し、考える。

「ねえ娘ちゃん」
「なあに?」
「もう一軒、お洋服見に行っていい?」
「いいよ、もちろーん! とくべつねー!」

ありがとうと娘をハグすると茶沢通りを下北沢方面に進み、雰囲気のあるモードな服を揃えている古着屋に向かった。娘はわたしが「ここだよ」と言う前に手を振り払い、さっさと入っていく。5歩ほど遅れて入店すると、面食らった顔の、ダイナミックなパーマをかけた店員さんと目があった。そりゃそうだ、もう21時近いというのに、3歳児がひとりで入ってきたのだから。

そこでとても、すてきなポンチョと目があった。

「これ、どうかな」
「いんじゃない?」

マネキンが着ていたワンピースのほうが気に入った娘につめたくあしらわれながらも、試着する。

イタリアのライトヴィンテージ、キャメル色のポンチョに頭をとおし、鏡の前でくるくるまわってみた。「ママすてき!」。娘も気に入ったようだ。

「そう? 買っちゃおうかな」。値段を見て一瞬たじろぐ。でも「すてきだからいいよー!」とうれしそうな娘がかわいくて、酔いにも背中を押され、気づくと「これください」と言っていた。

お会計を済ませ、ポンチョの入った袋を娘が誇らしげによっこらしょと持つ。「つぎはアンパンマンウィンナー、用意しとかなきゃね」と手を振るお兄さんに見送ってもらうと(彼の子も同じく3歳なのだそう)、21時をゆうに回っていた。

寝る時間だ、急げ急げ、とくべつだもんねーとおどけながら、ふたり転がるように家に向かう。

笑いあいながら、ああまだ帰りたくない、と思った。もうすこしだけこの時間を味わいたい。いつもの町がきらきらきれいで、たのしくて、「大好き」が暴れる。

ちいさな娘の手を引きながら、ああこれ覚えがあるな、と思った。

恋してるときの気持ちだ。

たとえば上京直後、ずっと好きだったひとと深夜、静まりかえった新宿西口を大笑いしながら突っ切ったときの。たとえば大好きで仕方なかったひとと、あるオフィス街で目をこすりつつ朝マックしたときの。

あの抱えきれないほどの「好き」の気持ちを、なぜか思い出したのだ。うれしくて、でも焼き付けないと消えそうで、どこかさみしい予感を抱えた気持ち。

どうしてだろう。「足つかれちゃったァ、だっこー」とせがむ娘に「もうちょっとがんばれ!」と声をかけながら考えた。記憶をさぐりつつ、いまの気持ちをつかまえていく。

——そうか。なんてことのない日常が国宝級の輝きを持ったり、いつもの風景の彩度がぐんと上がったり、笑顔を見るだけで満たされる存在がいるからだ。それはかつて恋で得ていた感覚で、いまは、この子から得ていて。

「とくべつ」を共有してうれしいのは、好きだから。「好き」の種類はちがえども、そこは同じなんだろう。それに、恋は永遠にはつづかないし子どもはいつまでも子どもではない、そんなところも似ている気がする。

新宿があんなに輝いて見えたことは、あれ以来ない。マクドナルドをあんなに食べ終わりたくないと思ったことも、あれ以来ない。あのときのすべてをいまも鮮明に覚えている。

同じように、今夜のことはきっと忘れないんだろう。三軒茶屋がこんなにもきらやかにうつることも、もうないかもしれない。「ねえ、だっこォ」の声に根負けして娘を腕に包むと、それはそれはうれしそうに、にっこりと笑った。

「子どもはちいさな恋人」という言葉は好きじゃなかった。親子は親子でしょう、それはちょっとちがうんじゃないの、と。いまも子どものことを恋人のように感じているわけではない。

けれどあの若いころのわたしが焼き付けたのと同じ、痛いほどにまぶしい風景をいま見せてくれるのは——いつもの町を強烈な思い出にしてくれるのは、いまこの子なんだなと腹に落ちたのだ。アルコールで愛と感情がむきだしになっていることを差し引いても。


「とくべつ」たのしかったね、今日も大好きだったよ、でも明日は「そしょく」ね、えー「そしょく」なのォ?、なんてくっくっ笑ってわたしたちはベッドに入った。

朝起きたらいつものように、「おはよう」のかわりに「ママすきだよ」と言ってくれるであろう娘は、ものの数秒で寝息を立てていた。

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