不器用だから、恋愛の失敗が必要だった
娘に彼氏ができたことを想像すると、ちょっとだけ胸がザワつく——そんな冗談めかしたお父さんの声を、同年代からもちらほら耳にするようになった。
バレンタインにウキウキしながらお菓子づくりするのおもしろくない、とか。
この手をつないで歩いちゃうのイヤだ、とか。
彼氏を家に連れてきたらどんな顔をすればいいの、自室にふたりきりになったらこまめに声かけすべきなの、とか。
そんなお父さんたちに言いたい。いま、過去を振り返って強く思う。恋愛の失敗は、不器用な人間にとってほんとうに大事な練習だったって。
◆ ◆ ◆
「恋愛の失敗経験は大事」。これ、よく言われることではあるけれど、自分の経験を踏まえてわたしなりに明確な理由がある。
自分に、ちゃんと開き直れるようになるのだ。
……ここからけっこう恥をしのんで書くけれど。
わたしの人生、とくに初期における「お付き合い」の失敗の原因には、まず距離感のなさがあった。付き合って1週間で、1年付き合った彼女ヅラをしてしまうような。付き合って1ヶ月で、どんな家庭を築きたいか聞いてしまうような。
さらに「付き合うってようわからんけど、漫画のヒロインぽくあればいいのだろう」という浅知恵にも溺れていた。
付き合ってすぐにテディベアを手づくりしてプレゼントしたり。
ドキドキしている風で、いきなり家電(いえでん)にかけたり。
好きってなんだろうね、と面倒くさ甘い話題を振ったり。
死刑制度の是非についてメールで議論したり(これは地)。
要は、必要以上に、がちがちに力んでいたのだ。
うまく「付き合う」をしなければ。彼氏満足度を上げなければ。よい彼女にならなければ——。そう思うほどドツボにハマり、彼の前ではピエロになる。ぶざまな自分ばかりが前に出ていく。
会わないと不安だし、会うと疲れる。結局、はじめての彼氏は半年付き合って、ほんの少し手をつないだだけで別れた。
いま思うとかわいくて仕方ない。愛おしいくらいだけれど、
付き合うこと、相手、自分、すべてへの理解が乏しく、振る舞いもへたくそだったのだ。
でも、そんなわたしも高校時代を経て上京し、大学に入り、社会人になり、いろんな人と出会った。ときどき告白されたり、付き合ったり、振ったり振られたり。
その中でやっぱり、自分のへたくそさが滲み出てくる人と、「彼氏満足度」など考えずに付き合える人がいて。なにが違うんだろうと分析することは、自分の中でケーススタディになっていった。心理学やコミュニケーションの本も読んだ。
そうこうするうちに自分や他者への理解も進み、次第にどんな人に対しても——男女問わず、「取りつくろっても仕方ない」と思えるようになっていた。疲れるだけで何にもならないや、と。
自分以上の自分は見せられない。
そう開き直れたとき、ひとに対して萎縮することが激減した。取りつくろわず、力まず、いい意味でちゃらんぽらんになれるようになった。
この境地に到達したころいまの結婚相手に出会えた気がするし(偶然かもしれないけど)、ついでに、どんな人にインタビューしてもほとんど緊張しない自分になれた気がする。
たられば、の話をしても仕方ないのだけど。
誰とも付き合わず、はじめて付き合った人と結婚していたら。いま、こんなにご機嫌な結婚生活は送れていないと思う。こじらせ、いろいろ無理をしていただろう。
不器用なわたしは場数と練習を経て、こなれて開き直った。自分比だけど、なんだかいい感じになった。
だから世のパパさんたち、娘がはじめて彼氏を連れてきてけしからんと思っても、ケーススタディ収集中だと思って大目に見てほしいのだ。彼女はいま、自由になる練習をしているのだから。
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