肉体は単一でエーテル体は多様
起きているときの日常意識下でも、わりとレイヤーのように物事を見ています。人の話を聞きながら、心の中というかエーテル体で生命の樹を見ていたり、頭を洗いながら、野花を見ていたりします。そのエーテル体で見ているものは、目に見える現実とまったく関係のないものではなく、だけど連想でもなければ、思い浮かんだものというわけでもなく、同時に別の意味を捉えている感じです。
「アラームを消そうとしながら、同時に時間を取ろうとしていた」と言っていた人がいますが、すべての物事がそういうものです。同時にいくつかの意味が流れています。
単一の存在であり、答えは一つで、一つの命しかなく、言っていることが変わってはいけず、人格は一つでなければいけない。肉体を持つと、そういう単一のものが正しいもので、正しいものは一つだけになり、原因と結果を求められます。なので肉体に依存していると道は一つしかなく、着地点は決まっていて、自由意思など存在しません。答えは一つで、レールの上を歩くだけです。ですが誰もが様々な生き方を模索し、イメージしているのだから、肉体に依存しない別の自分が必ず存在しています。肉体は単一ですが、本体は多彩です。
たった一つの答えを見つけなければいけない。この思い込みは案外根強いのかもしれません。