翌朝、ふたりは早く出発したが、昼間、ふたりとも一度は見ておきたかった古い神社に寄ってしまった。
その神社は広く、途中、たくさんの鹿がいる場所もあった。ヒカリはその鹿たちを見てびっくりしてしまい、先輩の腕をとっさにつかんでしまった。
先輩はヒカリの仕草にびっくりしてしまい、笑いながらも飛び上がった。
「鹿って」とヒカリは飛び上がる先輩を笑いながら見て、言った。「すごく大きいんですね」
「目も大きいな」先輩はヒカリの手を握っていった。
ふたりは、身体と目が大きいオスの鹿が、そうした部位の大きさのわりに声が小さいことについて語り合った。
ヒカリがアルバイトしていたホテルのある駅から、その鹿の神社に来るまで、JR普通で3時間もかかった。広大な神社をゆっくり歩くと、時間はもう午後2時だった。
ふたりは、計画ではもう少し先に進む予定だったが、それ以上JRに乗ってもその先の宿の見通しをたてることはできなかった。
ふたりは話し合い、その神社の近くの、駅前の古い旅館にその夜は泊まることにした。
受付で記帳し、12畳ほどの部屋に通された二人は、それまで同じ部屋で泊まったことがないことに思いあたった。
そこで先輩が、旅館のオーナーに別々の部屋にしてほしいと頼んだ。
オーナーは淡々と「かしこまりました」と言い、ヒカリを隣の部屋に案内した。
それぞれ入浴したあと、少し広い先輩の12畳の部屋で二人は夕食をとった。
ふたりはまだ若く、夕食に既成のトンカツが出てきてもそんなものだろうと思い、淡々と食べた。それよりも、小さめの浴衣からはみ出る自分の足を先輩もヒカリも気にしていた。
そういえば、ふたりが過ごす夜をそれまでイメージしたことがなかった。
そう思うと、先輩は急に緊張し始めた。だが彼は、自分からなにができるわけでもなかった。風呂に入り夕食をとり、いつもの雑談をしたあと、ヒカリは自分の部屋に帰っていった。
先輩は、そんなものだろうと思った。ヒカリも、先輩の部屋でスリッパを履き、隣室に戻る途中、そんなものだろうと思った。
ふたりは、同じ場所で夜を過ごすイメージをそれまで持ったことがなかった。
それから3時間ほどたち、0時を過ぎた頃、先輩の部屋のドアをノックするヒカリの姿があった。
先輩はびっくりしたが、そんなこともあるかもしれないと予測もしていた。彼はヒカリに「どうしたの?」と聞いた。
「足を引きずられるんです」その時のヒカリの表情は、おそらく文字通り青ざめていた。「すごく強い力で、布団の外から手が入ってきて」
眠りに落ちる直前のヒカリの足を、強大な力がどこかにひきずりこむという。それは金縛りとも異なり、ヒカリは懸命に自分の頭が乗る枕にしがみついていたそうだ。
ヒカリは泣きはしなかったが、「もうあの布団では寝ることができません」と先輩に言った。
先輩は、ヒカリがその布団に戻ることは恐ろしいことだと直感した。ヒカリがいうような強く暴力的な力を先輩はイメージできなかったものの、その強い力は相互的ではなかった。
その暴力的な力は、一方的だった。
「そう、その手は語ろうとしないんです」ヒカリは徐々に自分の目に涙が浮かんでくることを自覚した。
「わたしは、一方的な力はこわいの」
そう言ってヒカリは先輩の胸の中に飛び込んできた。
先輩はそれまで、人を抱きしめたことはなかったが、その時は意識せずともヒカリを抱きしめてしまった。
だが、先輩の部屋にヒカリが寝る布団はなかった。かといって、隣のヒカリの部屋に戻ってその布団を取ってくることはできなかった。
再びあの強い力でヒカリが引っ張られた時、こちら側に彼女は帰ってくる自信はなかったし、先輩も、その強い力に抵抗することはとてもできなかった。
だから先輩はこう言ってしまった。
「僕の布団で寝なよ、ヒカリ」
先輩がヒカリを名前で呼んだのは、この時が初めてだった。「僕は、座布団の上に寝るから」
先輩は笑っていたけれども、自分を部屋に押し返すことはしなかった。恋人ではないこと、他者を受け入れきれないこと、自分の布団は自分だけのものであること。
ヒカリであればさまざまな理由を思いつくことができたが、先輩はこの部屋にとどまれ、俺の部屋にいろ、と言ってくれた。
たぶん、あれは幽霊の手なんだろうとヒカリは思った。古い古い神社が近所にあり、大きな鹿がいるそこには、たぶん幽霊もいる。古い古い歴史のなかのある存在に、わたしはさっき足を引っ張られた。それは強大なちからだった。
そんなことをヒカリは先輩に言ってみた。すると先輩は、
「僕は、一生懸命身体を縮めていたよ」
と言った。どうやら、先輩も幽霊に足を引っ張られそうな怖さにとらわれ、思わず身体を縮めて布団の中で寝ていたそうだ。
身体の大きな先輩が、布団の中で丸くなっている姿を想像して、ヒカリは笑ってしまった。そして、
「先輩も幽霊が怖かったんだ」
と言った。
そう言われてみて初めて、青ざめた表情で自分の部屋に入ってきたヒカリを見てなぜ自分がほっとした気持ちになったのかに先輩は思い至った。
そう、先輩も、ヒカリが幽霊に足を引っ張られていた時、自分も引きずり込まれそうになっていたのだった。
「僕も」
「わたしも」
とふたりは言った。
「幽霊は力持ち」
そう言ってふたりは笑い、暗い暗い、幽霊がいる部屋で初めて、ひととき抱擁し合った。