その河原上空から見下ろす点
火事で終わらせるのもアリだった。最初の『ポーの一族』のように、最後は火と灰にしてしまうのは美しい。
また、『百年の孤独』のように、すべてをほこりの中に紛れ込ませて、街そのものを消すのもアリだった。
骨壷を、再びカナタに触らせ、墓と骨壷と死と亡霊のなかに閉じ込めてしまうのもアリだった。
だが、カナタが90才で死ぬ時、そのいずれも拒否することになった。
母も夫も亡くし、この物語に収めることはできなかったものの、娘たちもそれなりの家庭を築いた。
実はカナタは、さっきまで意識がはっきりと働いていた。いまは17:00だから、15:00までカナタは家事その他を行なっていた。
それなのに台所でボォーっとしてしまい、床に倒れてしまった。それを見た子どもたちが私をこの県立病院に運んだのだった。
私の目標は、死ぬ3時間前まできちんと日常を過ごすことだったから、満足している。
これまでの人生も満足している。
最も満足しているのは、ずいぶん若い頃、母のアキラが河原を走り続けていたことを少しだけ真似できたことだ。
あの河原からはその地方特有の大文字焼きを夏に見ることができた。
母のアキラは若い頃、その大文字を横目で見ながら、河原を疾走した。
私もその20年後、疾走することができた。
母と違って、一度か二度しか走れなかったけど。ママはかっこよかったなあ。
カナタが若い頃、その河原で大掛かりな花火が打ち上げられていた。いまカナタは、その花火のひとつの点になって、大空に打ち上げられていた。
上空から下を見ると、何万人もの人たちが私を見ていた。私という花火を。
※
そんな感じでカナタは死んでいった。生き物の死としては、まあマシなほうかな、と死ぬ40秒前に彼女は思い、残されたものたちが終生忘れることのできない、妙ちくりんな笑顔を浮かべたままその生命体は冷たくなっていった。
残された孫たちは、その死体の周辺に変な物語を感じたが、10才に満たないそれら孫たちは、終生その「おばあちゃんの最後の時間」については語ることを封印した。孫たちはそれから80年後に死ぬまで、そんな時間を与えてくれたことに関して、死んだ祖母に感謝し続けた。