迷彩と月光のオーバーオール


迷彩と月光のオーバーオール

2020年7月18日 15:06

迷彩のオーバーオールで先輩がその本屋の入り口に現れ、それから1時間先輩のパリの話を聞き続けながらカナタは、「これで結婚に踏み切れる」と思っていた。

先輩はパリでポルトガル人の女との間に可愛らしい子どもをもうけ、カナタはその写真をずっと見つめていた。子どもは口を尖らせたりブランコに乗っていた。その一枚一枚の写真を先輩は解説し、解説しながら喫茶店で頼んだオムライスのチキンライスのチキンを皿の端っこによけていた。

その、よけられたチキンのかけらをカナタはじっと見つめた。そして先輩に対して、もうこれ以上しゃべらないでと願った。

だが先輩は話し続けた。その、アバンギャルドなオーバーオールをきちんと先輩は着こなしていた。そして、先輩は7年前と同じように背が高く、かっこよかった。声もきれいだった。

けれどもカナタは、先輩が笑うたびに、今の恋人のあの人を思い出していた。あの人は先輩よりは背が低い。かっこ悪い。お腹も出ている。そして何よりも、私があの人の話題にすべて合わせている。私は、あの人が語ることのほとんどに興味を抱くことができない。

ただ一つ、大島弓子の『バナナブレッドのプディング』の解釈について、カナタは共感したのだった。彼はこう言った。

「主人公が自分の長い髪で自分の顔を隠したあの一コマ、あの一コマを見た時、僕は自殺を止めようと思った」

その一言はあの人と出会ってすぐの頃だった。だからカナタは彼と付き合ってもいいと思ったのだった。

目の前では先輩が、今度はパリの大学事情について延々と語っている。先輩はこんな堕落した男だったっけ? そのポルトガル人の女が悪いのか、先輩はそもそもこういう人で、大学時代の私が幼かっただけなのか。

理由はカナタにはどうでもよかった。早くその喫茶店から出たかった。

 ※※※

そのすぐ後にカナタは男と結婚した。結婚する時、母のアキラは、「新婚旅行はパリではなくハワイがいいよ」と言った。

母のアキラの言葉にはそれほど意図はなかったのだろうが、カナタはその通りにし、夫とハワイに行った。

ビーチはいやだったので、バスを乗り継いでワイキキの反対側の浜辺にカナタたちはやってきた。その浜辺では、大きなウミガメが昼間っから産卵していた。

夫となった男は、ウミガメの産卵についてウンチクを語っていた。そのすべてをカナタは知っていたが、知らないふりをしていた。夫のウンチクは止まらなかった。

「カメは卵を産みながらどんな声を出すんだろう?」と、カナタは先輩を思い出しながらつぶやいた。先輩ならどんな答えを言ってくれるだろう。

そのとき、「君はどうしていつも僕の言葉をはぐらかす?」と夫は言った。なぜか彼は怒っていた。

どうやらカナタは夫の問いかけに答えず、上のような感想をつぶやいたことに夫は怒ったようだった。

「あ、ごめん」とカナタは言った。その時もカナタは先輩のことを考えていた。先輩はどうしてあんな迷彩のオーバーオールを着て私の前に現れたんだろう。そして、どうして大学の頃よりも先輩はカッコよくなっていたんだろう。

そんなカナタの思考がだだ漏れになったかどうかはわからないが、夫は怒って沈黙してしまった。その後、ドールの工場に行ってもホテルの夕食でも夫は黙りがちだった。

ホテルの部屋は8階で、ワイキキの夜のビーチが見えた。カナタはソファに座ってその光景を見ていた。夫は午後と同じ様に言葉少なだった。

夫がカナタのそばにやってきたて、カナタの手に自分の手を合わせてつぶやいた。

「僕は君の、ドール工場を小馬鹿にする様な態度が好きなんだなあ」

 ※※※

続けて夫は、カナタの好きなところをしゃべっていった。夫はしゃべりながら泣き始めた。カナタもその表情を見ているうちに涙が出てきた。

「僕は君と結婚したかったんだよ」と夫は泣きながら言った。その涙の粒は、昼間見たウミガメの涙よりも大きいかも、とカナタは思った。「結婚できて本当によかったよ」

「私もそう思う」それは嘘ではないとカナタは思った。今、この瞬間もカナタは先輩のことを思い出していた。あの笑顔と、あの変すぎる迷彩のオーバーオールと、先輩とポルトガル人の女の間に生まれた可愛らしい子どものことを。

けれどもカナタは先輩に未練はなかった。それどころか、先輩を毎日思い出し続けている自分を憎悪していた。そうして沈黙するカナタの手を、再び夫は握りしめた。

気づけば夫は号泣していた。カナタが聞いたこともない大声で、夫は泣いていた。どうやら、彼の35年くらいの人生の苦渋が、その、ワイキキビーチを照らす月光の力によってすべて引き出されたようだった。

「僕は君と違って」と勝手な想像で夫は言った。「今まで人と出会うことができなかった」

カナタは黙って夫の手を握り返した。夫は続けて言う。

「やっと、本当に生きている生き物と、僕は出会うことができた」

カナタは半分うんざりしたけれども、なぜか泣いていた。ホテルの8階の部屋に射す月光が、彼女のその表情を青白く浮かび上がらせた。

そういえば2人とも風呂に入っていなかった。新婚カップルらしく、その後2人は一緒にシャワーを浴びたが、カナタは泣き続けていた。先輩とかはどうでもよく、私みたいな人にこれほど自分をぶつけてくれる夫に対して、言葉にはならないレスポンスが涙だった。

そんなふうにカナタは夫に話した。すると夫は、母のアキラのようなサバサバした表情で、

「君とずっと一緒にいたい」と言ったのだった。

カナタはその時初めて、他人を許した。

母のアキラ以上に無防備になれる人は、結局、こんな平凡な男だった。カナタはその平凡な男の薄い髪をくしゃくしゃにし、人生で初めて「好き」と言ってしまった。





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