カナタは戸籍上はかなたと書いた。アキラも戸籍上はあきらと書く。カナタを産んだ時、アキラと夫は、その赤ちゃんに対して3つの名前を候補にしていた。カタカナで書くとカナダみたいだったので若干アキラには抵抗があったが、漢字で書くと彼方、英語ではoverなのかな、その、ここではないどこかに向かう感じが好きで、アキラは夫とともにかなたにすることにした。

そのことを再び14才の誕生日の夜にカナタに言うと、カナタは目に涙を貯めてこうつぶやいた。

「わたしもおかあさんみたいに走るのが得意だったらよかったのに」

確かに、カナタという名前と走ることには親和性がある。それは、どこかを目指していつでも走る準備ができている名前だ。そして実際に、いつでも走り始めることができた。

アキラはだから、誰かに束縛されそうになった時はいつも走り出して行った。最も好きなコースは、いつものあの河原で、最も走るのが好きな時間は夜の10時くらいだった。その時間に、河原まで自転車を飛ばしていき、靴紐を確認したあと、河原を思いっきり走るのがアキラは好きだった。20代半ば過ぎで結婚するまで、3日に1回はアキラはそうやって河原を走ってきた。

それはカナタもよく聞かされていた。だから、カナタが小学生の5年生になった頃、よく母から河原のジョギングに誘われた。けれどもカナタは気が進まず、いつもリビングで音楽を聞いた。そのリビングには父がいたこともあればいないこともあった。音楽に博識だった父だが、リビングではあまり音楽も聞かず本も読まず、ぼんやりとテレビを見ることが多かった。

カナタは荒井由実のひこうき雲が好きで、そのデビューアルバムをよくリビンクで流した。ウンチク好きの父はやはりその曲の解説をし、その解説が好きでその曲が好きになったのか、ユーミンの曲のバックバンドのベースがなぜか好きになったからその曲が好きになったのか、アニメ映画で流れたからその曲が好きになったのか、5年生のカナタは忘れてしまった。

ただその曲への没入は導入部分だけで、リビングでアイスを食べながらソファに座って聴いていると(父はiPadを触っていた)、ひこうき雲というよりは入道雲の先端にカナタは座り、その大きな雲がにょきにょきと拡大するのを楽しむイメージに囚われた。

カナタは白いスニーカーを履いていて、その靴先から下には、ありありと下界が広がっていた。そこはもう夜で、河原では14才の母のアキラが走っては止まり、走っては止まり、そして川面を睨みつけていた。

その時、中学2年のアキラは、川面を睨みつけながら、学校の先生が教えてくれた谷川俊太郎の詩を思い出していた。

断片的な記憶だったので、半分も思い出すことができなかった。だからもっと思い出そうとして川面を睨みつけた。14才のアキラの人生はつらく、暗く、黒い川底を這っているような感覚だった。

やがて自分も結婚して子どもを産むのだろうか。それはこんな河原を走るわたしに似ているのだろうか。

 ※※※

入道雲の先端に座ってそんなアキラを見下ろすカナタは、いつのまにかアキラと同じ14才になっている。

足元のアキラは悔しそうに、石ころを蹴っ飛ばしている。カナタには、そんな若き母のいらだちがわかるようでわからない。けれども笑うこともできない。だからカナタは入道雲から堕ちないようにして上を見る。

そこには成層圏があり、成層圏と宇宙の境界があった。幾筋もの白い光がその境界をななめに突き刺していた。

カナタはやはり、母のように走れないし、川底を這えないし、水脈を探して潜り続けることもできないと感じた。その水脈は何かの永遠とつながっているのだろうとカナタは推察していた。そんな永遠を14才の頃から探し続け、たぶん母親になってからも探すチャンスを模索するアキラにカナタは嫉妬していた。

けれども一方で、カナタはこうして簡単に成層圏まで上がってくることができた。

水脈はわたしには無理だけど、宇宙と地球の狭間を見つめることはできる。ママのように人生の本当のことに関しては死ぬまで探す方法が見つからないかもしれないけど、私は入道雲に乗ってこの高度まで上がってくることはできる。

 ※※※

だから、彼方、かなた、カナタ、over、なのだと母のアキラはいつも娘に対して思った。カナタが赤ちゃんの時、そのオムツを交換する時も、お風呂で髪を洗ってあげる時も、個人的には嫌だったがいろいろな社会のルールを伝える時も、カナタがだんだん食べることができるようになったネギを食べている時も、アキラはカナタに対して、わたしにはない成層圏に行く力があると見きっていた。

「わたしのようにやけくそになって走るんじゃなくて」

おっぱいをあかちゃんのカナタに飲ませながらアキラはよく思った。

「何かをひたすら探すんじゃなくって」

カナタの奥歯をていねいに磨いてやりながらアキラはつぶやいた。

「あの、高い高い空に登っていって、飛行機にでも乗って、パリとかメキシコに行けばいいよ。ミロのビーナスの前でしゃがみこみ、メキシコのペンギンに魚を放り投げ、その次はまた飛行機に乗ればいいよ。あなたはそんな感じで、カナタっぽくoverすればいいよ」

そしてクスッとアキラは笑った。

アキラは、できればカナタに星のかなたを目指してほしかった。

洞窟ではなく、成層圏を抜けて、サイド3も抜けて、木星の資源発掘現場も通り過ぎて、当然冥王星の反射衛星砲も横目に通り過ぎ、そして真理や本当のことにもこだわらず、するっと、星の彼方とかなたとカナタを目指して、その進路を死ぬまでとり続けてほしかった。

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