水滴のすべて chapter three


12.恋は終わらない

ひかるの母は光瑠という名だった。読みはひかると同じだったので、彼はよく自分の父母に、

「別の名前にしてほしかったなあ」

と愚痴をこぼしていた。そう言われと父は、

「ドリーファンクジュニアみたいでいいだろう?」と、昔全日本プロレスによく来日していたプロレスラーの名前をあげて笑った。

ママの光瑠は、

「あら、わたしは気に入っているのよ」と言って、これまた笑った。「宇多田のファンだし」

そんな父母はいつもオプティミズムとともにあった。それは、父が癌で死んだあとも同じで、49日までは涙に暮れていた母がそれ以降はカラッと明るくなったことに対し、

「ママは冷たいよ」

とひかるがこぼした時、

「いやいや、パパへの恋は終わっていないもの」

という意味不明なセリフを言って母は笑った。

「それは、パパがママの心の中にいつもいるっていうこと?」とひかるが尋ねると、

「似てるけどちょっと違う」と光瑠は言った。「幽霊のパパは、いつもわたしに『顎を上げろ』って叱咤激励するのよ」

 **

顎を上げろとは、いつまでもくよくよするなという意味だと思い、ひかるはそう母に聞いてみた。

「違うよ!  ひかるは真面目だなあ」と母は答えた。「キスする時、パパはいつもそう言ったのよ」

「パパはどこからしゃべってくるんだろう?」幽霊になったパパの場所が知りたくて、ひかるは光瑠に聞いてみた。

「わたしもずっと謎だったんだけど」と光瑠は言った。「たぶん、月の裏側にいるんじゃないかと思う」

まさかそんな陳腐な回答が返ってくるとはひかるは思ってもみなかった。だから、ついつい爆笑してしまった。

「そんなに笑わなくてもいいんじゃない?」光瑠は少し拗ねて言った。「パパの幽霊はね、月の裏にある小高い丘のロープウェーに乗ってるらしい」

「月の裏って真っ暗なのでは?」ひかるは素朴な問いを発した。「幽霊には関係ないのかな」

「関係ないんだよ」と光瑠は言った。そして彼女は続けた。「わたしが夜勤明けでガストでモーニングを食べている時」光瑠はひかるの膝の上に手を置いた。「パパが、

『いっしょに月の裏に行こう』

って言うんだよ」

 **

 光瑠は夫の幽霊に導かれるまま、月の裏に移動していた。光瑠は言った。

「月の裏は真っ暗じゃなかったよ」

ひかるは楽しくなってきて母に質問してみた。「それで、パパはいたの?」

「いたいた」光瑠は笑いながら答えた。「残念ながらカオル君みたいに体育座りはしていなくって、月の裏全体にこだまするような音となってパパはいたよ」

「音?」ひかるはついつい反復してしまった。「そんな音が、ロープウェーに乗ってるの?」

「音はね、自由自在なんだよ」光瑠は答えた。「夜勤明けで無茶苦茶疲れていたせいか、わたしはその月の裏の丘の上で大泣きしてしまったよ」

「すると幽霊のパパは?」ひかるは母を見つめて言った。「どう慰めてくれたの?」

「泣くな、なんてことは言わなかったな」光瑠は肘を立てて、窓の外を見た。「いつも通り、『顎を上げろ」って言ったんだよ」

「顎を上げたら、幽霊のパパがキスしてくれた?」今日のひかるは正直だった。

「キスはなかったな」と光瑠は答えた。「幽霊のパパの残響でわたしを包み込んだ」

「音で疲れを癒す?」ひかるは、自分の耳に入っているイヤホンを取り出して見つめた。

「そう、キスではなくて、幽霊のパパは音になってわたしを包んだよ」と光瑠はひかるを見て言った。「わたしも、そっちのほうがいつの間にか楽になる年になっちゃった」

「恋ってなんだろ」と、気づけばひかるはつぶやいていた。

「だから、顎を上げることなんだよ」光瑠は笑って息子の顎に手を伸ばし、その顎を上げた。「そして、上を見るんだよ」


13.あなた


先輩とその妻のV.に別れを告げ、カナタはドゴール空港から成田行きの飛行機に乗った。ヒカリやひかるが生まれる、ずっと前の話だ。

成田に着くまで、なぜか彼女はずっと泣いていた。空港には夫が迎えに来てくれており、そこから家に帰るまでの間もずっとカナタは泣いていた。その間、夫は何も言わなかった。

夫がカナタの目を見て語りかけたのは、そのパリに最後に行く前に2人が約束していた、妊娠に関して、子どもがどうやらできたらしい時だった。それはカナタがパリから帰ってきた4ヶ月後だった。

「僕は会社を辞めてログハウスを作ろうと思う」カナタの目を見つめて夫は言った。「そこで、ペンションみたいな商売を始めるんだよ」

会社人間の夫がそんなアイデアを言ったことにカナタは心底驚いた。だから「うち、貯金、ないよ」という普通の返事をしてしまったことを後でカナタは後悔した。

「ヘソクリがあるのさ」夫はカナタの手をとって言った。「ヒカリのために僕は密かに貯めていたんだよ」

ヒカリとは、カナタと夫の間に数ヶ月後に生まれてくる赤ちゃんのことだった。「ヒカリは、都会で成長してほしくないんだ」

カナタは、夫のそんなセリフを聞いてびっくりしてしまった。と同時に、自分がこれまでパリの先輩とV.のことばかり考えてきたことを後悔した。

「ごめん、あなた」とカナタは言った。「わたし、パリのことばかり考えていたよ」

「いいんだよ、それが君だから」夫は笑いながらカナタの手を握った。「僕は君がパリから帰って来るのをずっと待っていた」

「ありがとう」とカナタは泣きながら言った。「ありがとう、あなた」

 **

それからカナタと夫は滋賀県のマキノに大きめのログハウスを30年ローンで購入し、内装を大幅リフォームして、80年代風のペンションを経営し始めた。

周囲はいまさらペンションは流行らないからやめろと忠告したが、予想外にペンション経営は成功し、2年目で純利益を上げることができた。カナタと夫は少し高めのワインでチアーズした。

カナタが二度目のパリから帰ってきて以来、2人は旅行に行くことをやめた。わざわざそのことで話し合ったわけではないが、とにかくマキノの日常を楽しむことに専念した。

だからヒカリも、旅行に行ったことがなかった。ここ最近、先輩(ひかる)とともにあちこちを訪れているヒカリだが、それまではマキノと大津と京都以外に行ったことがなかった。

「でも、その3つだけでわたしは十分だったよ」

ヒカリは最近になって先輩に打ち明けていた。この夏にヒカリとあちこち移動した先輩も、そろそろ移動することの終わりを感じていた。

カナタと夫はペンションを経営しながら、料理を学びインターネットを学んだ。そのことでペンションの料理の質が上がり、集客はインターネットだけで十分できた。

2人には日曜日はなく、365日ほぼ仕事をしていた。ヒカリはそんな両親を小学校低学年から手伝い、3人は毎日楽しそうだった。特にヒカリは楽しかった。

ある朝、珍しく宿泊客は女性1人だけだったので、カナタはその客にメニューにはないモーニングを提案してみた。

「トーストに鴨肉とアボガドを乗せてみたいんですが、召し上がります?」カナタは女性に聞いてみた。

「それは嬉しい! 究極の賄いですね」女性は非常に喜んだ。

「あなた、パンを焼いてみよう」カナタは夫に話しかけた。

夫は、カナタからそうした提案をされることが彼の人生の中で最大の喜びだった。「オッケー」と彼は笑って答え、鴨肉のトーストを作り始めた。

「素敵なペンションですよね」女性客はコーヒーを飲みながら言った。「京都からも近いし」

「たまたまですけどね」ほかに客もいないので、近くの椅子にカナタは座って答えた。ヒカリは小学校に少し前に登校した。

「わたし、京都で痛いことがあって」女性客はカナタを見ずに話し始めた。「だから全部どうでもよくなって、ここに昨夜泊まったんです」

「はい、わかりますよ」カナタは女性を見て言った。「よくぞモーニングを注文していただきました」と言ってカナタは笑った。「ありがとう」

女性の頬には涙が流れていた。「こちらこそ」彼女は涙を拭くこともなく、窓の外を見た。「朝日が眩しいよ」

「トーストができるまで、トランプを一度だけしましょうか」カナタは女性に話しかけた。「神経衰弱」

 **

パリでカナタは、先輩の妻のV.と神経衰弱をした。その時、V./ヴァンダがあまりにそのゲームに一生懸命になっている様子を見て、なんだか心が軽くなった。

そんなことをカナタは女性客に言ってみた。

「パリで、ポルトガル人と神経衰弱?」女性客の涙はすでに乾いていた。彼女は笑いながら「素敵」と言った。

カナタはトランプをテーブルいっぱいに広げ、2人は神経衰弱を始めた。パリのヴァンダと違って2人とも半分ふざけていたので、意外にゲームはスムースに進んだ。後半に入り、女性客はこうつぶやいた。

「わたしたちも、こんな普通のことをしたかったよ」彼女はまた涙ぐんでいた。「ホテルとかじゃなく」

神経衰弱の最後の8枚は、そうやって泣き続ける女性客が黙ってとっていった。2枚ずつカードを取りながら、女性客は声を出して泣き始めた。

その時、鴨肉アボガドトーストの皿を持って夫がキッチンから出てきた。夫は号泣する女性に驚くこともなく、「そんな時はオリーブオイルですよ」と言って、イタリアの珍しいオリーブオイルをテーブルに置いた。

「はい」女性客は泣きながら、鴨肉アボガドトーストにたっぷりとオリーブオイルをかけた。「キラキラしてますね、オイル」

「うん」夫が隣に座ったのを確認したあと、カナタは友達に話しかけるようにうなづいた。「食べてみて」

「おいしい」女性客は泣きながら笑った。

夫は女性客の前に集められていたトランプを自分のほうに集め、「結局、運なんですよ、僕たちって」と、これまた友達に話しかけるように言った。

「じゃあわたしは運がなかったってことかしら?」女性客はトーストをまた一口かじって言った。

それを聞いた夫は6枚だけトランプを裏返してテーブルに置き、女性客に向かって「この6枚の中になんの数字が入っているでしょう?」と聞いた。

そんな夫を見てカナタは珍しく黙り込んだ。そして、

「あなた」と言った。だが、そのあと彼女は言葉を続けることができず、代わりに彼女の頬に涙が流れた。

「あなた」と続けて彼女は言った。

「普通の夫婦はそんなふうに話しかけますよね?」女性客はカナタの涙を見て言った。「話しかけるだけ話しかけて、その先を続けない」

「うん」カナタは女性客に友達のように答えた。「だからわたしは30年ローンを組んだんだ」

それを聞いた夫は、鴨肉アボガドトーストがなくなった皿を持ってキッチンに戻った。結局、トランプの6枚の意味は語られないままだった。

「わたし、京都に帰ります」女性客はそう言って、カナタに握手を求めた。「ありがとうございました、ごちそうさまでした」

「お気をつけて」カナタはその求めに、握手と笑顔で応えた。


14.海王星


「もしかして、あなた、カホ?」と聞いたのがカナタだった。さっきからカナタは変だ変だと思っていたものの、その女性の何が変なのかが実感できなかった。

でもやっと、わかったのだった。カホ(海王)こそ、カナタが大学生の頃、京都の丸善で大島弓子の本を思わずプレゼントしてしまった女性だった。

「バレました?」カホはアニメのキャラクターのように舌を少し出して自分の頭を撫でた。「ずっとドキドキしていたよ」

カナタとカホは、丸善で出会ってから10年ほど、ずっとメールで交流してきた。カホが生きていくうえでの苦しさをカナタはわかっていた。カホも、自分のことをわかってくれるのは長くて短い人生の中ではカナタだけなんだろうと直感していた。

「それでも、リアルなわたしたちに気づけない」

ふたりはそうやって同時につぶやいた。

「わたしたち、そんなもの?」

これも2人同時につぶやいた。

 **

カホは来月結婚する予定だった。たくさんの準備を彼女はこれまで重ねてきた。けれども、「わたし、結婚式前日に逃げるかも」と、カナタに言った。

「誰を忘れられないのかしら」カナタは思いついたままに言った。

「どうしてわかるの?」カホはストローから口を離して聞いた。

カホは、結婚相手と出会う1年前まで6年間付き合った男がいた。男は大学の1年先輩で、カホが初めてつきあった男性だった。

「わたし、その先輩と結婚するんだろうと思ってました」カホはペンションの椅子に座ったまま、隣のカナタを見た。「カナタさんの先輩よりカッコ悪かったかもしれないけど」

「わたしは結局先輩とは結婚しなかったし」とカナタは言って、厨房の奥を見た。そこでは夫が朝食の皿を洗っているはずだった。「それでよかったと思ってるよ」

「わたしたち、どうして別れたのか、わからないんです」カホは続けて言った。「来月結婚する別の人は、そのへんも聞いてこないし」

別れを切り出したのはカホの先輩だったそうだが、カホもその申し出に瞬時に応じた。

「というか、先輩が『そろそろ別れよう』と言う前に、その言葉がわたしの頭に浮かんで」とカホは言った。彼女はテーブルにある残りのコーヒーを飲んだ。「すると先輩は」と続けた。

「『僕がしゃべる前に、カホはその言葉が聞こえたんだね?』と、先輩は言ったとかなんとか」カナタは笑いながらカホを見た。

「え、どうしてわかるんですか?」カホはマグカップから手を離して驚いてカナタに聞いた。

「そんな時、聞こえるものよ」カナタはアニメのキャラのように小さく舌を出して肩をすくめた。「わたしはでも、先輩のそんな声が聞こえなかったけど」

 **

「僕がしゃべる前に、カホはその言葉が聞こえたんだね?」と、1年前、先輩はカホに聞いた。「聞こえたというか、脳に浮かんだんだろ?」

「はい、わたしの頭の中で、紫色の文字で『そろそろ別れよう』と書かれていました」その時、カホは少し涙ぐんで先輩を見上げていた。「悲しいことに、わたしも同時に」

「うん、僕の頭の中では、『別れる時ですよね』と、ピンクの文字で書かれていたよ」先輩は笑っていた。

「紫とピンク」カホは目に涙を浮かべながら、笑っていた。「決定的な言葉って、派手なんですね」

ふたりは先輩の部屋のリビングで座っていた。それからカホは黙って泣き始めた。すると先輩は、

「カホ、例のゲームをしよう」と提案した。

カホは、例のゲームというだけで何のゲームかはわかった。それは一種のテレパシーゲームで、机の上に6つモノを置き、ひとりがその6つのなかから一つを選んで頭の中でそのものを思い描く。できるだけ相手に伝わるよう、強く強く思い描く。

そして、もう片方がそのイメージを想像し、6つのうちの一つを言い当てる、というゲームだった。

1/6でも、それはほとんど当たらない。カホと先輩は時々おもしろ半分にそのゲームを行なったが、当然、ふたりともほぼ外した。

けれども時々、当たることもあった。主として当てるのはカホのほうだったが、先輩も時々当てた。当たったあと、ふたりともなぜか疲労困憊していた。

「今日も本でやろうか」と先輩は言った。

多くは、ふたりは本を6冊並べてそのゲームをしていたが、そのふたりにとっての最後の日も本になった。カホは最後くらいはCDでやろうかなと思ったが、結局本でいいか、と思った。

ふたりは先輩の本棚を一緒に見て、6冊選んだ。その6冊は、

トマス・ピンチョン『V.』原書

日渡早紀『僕の地球を守って』1巻

ジャック・デリダ『エクリチュールと差異』原書

大島弓子『バナナブレッドのプディング』

ガルシア・マルケス『百年の孤独』

イマニュエル・カント『純粋理性批判』上巻

だった。

「先輩の本棚、偏ってる」とカホは言った。「けど、とても好き」と言ったあと、なぜかカホは恥ずかしくなり、顔が数年ぶりに真っ赤になってしまった。

「ありがとう」先輩は座ったまま本を手に取り、つぶやいた。『ピンチョンもマルケスもカントも旧版だからちょっと汚れてる」

「それがいいんですよ!」とカホは言った。「この読みにくさが、読者を惹きつけるんです」彼女は『V.』をペラペラとめくり、「このナミビアの熱い風と、女スパイの日常は、ちょっとカビ臭い紙でないと」

「じゃあ始める?」先輩は6冊をテーブルに並べて言った。「集中するぞ」

「はい、わたしから行きますね」カホは膝をきちんと揃えて椅子に座り、向かいの先輩に向かって、「はい、先輩、思い浮かべて」と指示した。

「オッケー」と先輩は応え、目を瞑って本を思い描いた。カホも目を閉じ、先輩が6冊のうちどの本を思い描いているのか、懸命に想像した。

「そろそろいいだろう」と先輩は言い、目を開けた。「僕はどの本をイメージしてた?」

カホは少し逡巡したあと、「あ、迷っちゃった」と首を振った。「先輩、なぜか2冊が頭に浮かんだんだけど、迷うのはやめるよ」と言った。そして、

「『V.』」

と言った。先輩は、

「当たり!」と驚いて答えた。「久しぶりに当たったな!」

このゲームをふたりはだいたい週イチペースで行なったが、この3ヶ月はどちらも当たることはなかった。

「ほんと、久しぶりだね」カホも驚いて言った。「けど、頭に思いついたのは2冊だったから、純粋に当たったわけではないね」

「そうだな」と先輩は答え、「次はカホが本を思い描いて」と言った。

ふたりは同じように目をつむり、今度はカホが本をイメージし、先輩がそれを読み取ろうとした。

30秒ほどたって先輩が、

「僕タマ!」と、『僕の地球を守って』に対してファンが好んで使う略称で答えた。すると、

「すごい、先輩! 僕タマだよ」とカホは答えた。

それからワンターン、ふたりはそのゲームを行なった。結果は珍しいことに、2回目もふたりは相手が思い描く本を当てた。

「4回中4度、100%の確率だ」と先輩は言った。

そして5回目、先輩が思い描いた本をカホは外してしまった。カホは、ついついデリダの本の名を言ってしまったが、先輩が思い描いていたのは『バナナブレッドのプディング』だった。

 **

「それが1年前だよね?」と、カナタは自分が経営するペンションの中で、向かいに座るカホに向かって言った。「変なカップルだなあ」とカナタは笑っていた。

「そうなんですよ」カホはカナタを見て言った。「わたしもどうして別れたのか、いまだにわからない」

「ちょっとそのゲームをやってみようか」いつのまにか近くで聞いていたカナタの夫が、テーブルに3枚のレコードを並べていた。「3枚だったら確率は高くなる」

「よし、やってみよう」カナタは夫に答えた。「1/3だもんね」

夫が並べたレコードは、

ジミ・ヘンドリックス『エレクトリック・レディランド』

中島みゆき『親愛なる者へ』

クラッシュ『ロンドン・コーリング』

の3枚だった。カホは「なぜみゆき?」とつぶやいたが、それは他のふたりにはスルーされた。

スルーされながらカホは、カナタとその夫が行なうテレパシーゲームを見ていた。10回カナタ夫婦は行なったが一度も当たらなかった。「あれ、確率的に言ってもおかしいな」とカナタの夫は言ったが、カホは「当たらない時は当たらないんですよ」と言った。

「やっぱり4回中4回当たるのはすごいんだよ」とカナタはカホに言った。そして、

「結婚なんかやめて、前の先輩とよりを戻しなよ」と、3人がその時思っていた可能性の一つを口に出してしまった。

「でも」カホは首を振ってカナタに言った。「6年もつきあって、最後はそんなゲームしか楽しみがなくなっちゃって」

「でも」カナタも、でもと言って続けた。「4回中、4回だよ!」

「でも、5回目は外れたし」カホも、でもと続けた。「しかもわたしのバイブルの『バナナブレッド』をわたしは外した」

朝のペンションで、カホの目にまた少しずつ涙が浮かんできた。「わたしは、カナタさんとわたしのバイブルの『バナナブレッド』を外したんですよ!」

「だって、5回目のテレパシーだもの」カナタはテーブルの上に置いたカホの手に自分の手を重ね合わせた。「日常の関係って、いちばん大事な時に空振りするんだよ」と彼女は言い、近くの夫に同意を求めた。

「テレパシーは、10回やって10回外れ、11回目も12回目も外れ、17回目あたりに当たってその次から50回くらい外れ、68回目に当たったりする、それが本当のテレパシーなんだよ」と、意味不明の数をカナタの夫は並べた。

夫婦の話を聞きながらカホは、4回中4回当たり、5回目の『バナナブレッド』が外れたことを先輩との別れの引き金にしたことを後悔した。「ああそうか、あれから50回外れ続けるべきだったんですね」と言い、彼女は泣き崩れた。

肩を震わせて泣くカホの前にカナタはカホのリュックを置き、無断でそのリュックの中に手を入れてiPhoneをとりだした。そしてカナタは言った。

「はい、電話」カナタはカホの肩を撫でた。「日常に戻るんだよ」


15.出来事


それからカホが現在の婚約を解消し、先輩と結婚するまで1年かかった。その過程では、多くの謝罪が重ねられ、カホが想像していたものよりも少なめのお金が介在した。

結婚した2人の間には結局子どもができず、カホと先輩は徐々に徐々に離れていった。先輩は浮気はしなかったものの、カホに接近していた情熱はゆっくりと冷めていき、それは太陽系から冥王星が切り離されたこととパラレルのようだった。

カホ(海王星)は、気づいてみれば、自分の重力圏から冥王星が離れていっているのを感じていた。

奇しくも先輩の名前はメオ(冥王)といった。メオはカホを好きだったけれども、その重力の大きさがゆっくりと小さくなっていくことを否定することができなかった。

だからメオは時々カホにこんなふうに言った。

「僕たち、また情熱的な出来事が必要なんだろうか」

だからふたりは懸命にセックスに励んだ。けれども、ふたりを結びつけたあの情熱は帰らなかった。そしてふたりは予算を惜しまずに遠くへ旅行に出かけた。パリ、ブエノスアイレス、シドニー、稚内。だが、どの土地に行ってもかつての情熱は戻らなかった。

「そもそも、ね、あなた」とカホは言った。「わたしたちは『あの頃』を取り戻そうとしていること自体が間違いじゃないかしら」

「そうかなあ」とメオ。「じゃあ、あの頃のラブラブ以外に何があるんだ?」

そしてふたりがやってきたのが、結局は京都だった。

ふたりが行ったのは、伏見稲荷大社だった。中国人と日本人のオタクがひしめく、その神社の本殿を抜けて、2人は裏山の登山道を歩いた。

**

赤い小さな鳥居が延々と続くその登山道を歩きながら、メオが、

「まるで別の時間軸にいるみたいだ」と言った。「この小さな鳥居を潜るたびに、なんだか時間が止まっているような気がするよ」

「時間が止まるというよりは」メオの言葉を受けてカホが答えた。「鳥居を潜るたびに時間が刻まれる感じ」

それを聞いたメオは足を止めてカホを見た。「たしかに。時間がエイゼンシュタインみたいな感じで刻まれている」

「色は赤というよりはモノクロのほうがいいよね」カホはわざとらしく舌を出した。「そしてここはオデッサとつながっている」

「鳥居を潜るたびに」とメオは言った。「僕らは何を願う?」

「わたしたちの結婚生活は続いていくのかしら」カホはその時思いついたことをそのまま言った。「わたしたち2人だけで、お年寄りになっても」

「僕らに出来事は必要なのかな」メオはまた一つ鳥居を潜って言った。「なんだか疲れたよ」

「そんなドラマチックな出来事なんて、わざとらしいよ」カホは夫を見上げて言った。「わたしたちの人生は、こんな鳥居を毎日くぐり抜けていくんだよ」

それを聞いたメオの目に涙が浮かび始めた。「時間は止まるのではなく、こうやって刻んでいくものなのかなあ」

「わたし、時間を止めてみる」カホはその場で立ち止まり、目を瞑った。「メオも一緒に止めるんだよ」

それを聞いて、メオも目を瞑って時間を止めようとした。

 **

「ダメだ」ふたりは同時に漏らした。

「刻むことはできるけど、どうしても止まらない」とメオは言った。

そのとき、時間は17:00前、季節は6月初めでまだ梅雨前だったので、空気は澄み時間がそれこそ可視化できるように感じた。

「先輩、というかメオ」カホはついつい昔の呼び名で話しかけた。「たぶん、時間って、止まったらダメなんだよ」

「僕もそう思う」メオはカホを見て言った。カホもメオを見返した。それは、冥王星と海王星が再び近づくような重力の虹の力を表現しているようだった。

「僕らにドラマは似合わないな」そう言いながらメオはカホの手を数年ぶりに握った。「手をつなぐのも自然にいこう!」

「ええ」カホはニッコリ笑って答えた。「先輩、わたしたちには旅行は必要ないんだよ」

「そうだな、ブエノスアイレスもパリも不毛だったな」と言ってメオは大笑いした。「何百万円捨てたんだ、僕ら?」

「パリにはドラマがあると思っていたんだけどな」とカホは言いながら前を見ると、赤い鳥居の連なりの終着点も見えた。「そろそろこの時間の刻みも終わるみたい」

「僕は、ルーブルからオルセーまで急いで走った、セーヌ川沿いの歩道で、なんだか時間が止まった気がしたよ」メオは最後の鳥居にたどりついた時、その鳥居を見上げながら言った。

「それが不純だったんだよ、先輩」カホはメオの背中を見て言った。「わたしたちにルーブルやオルセーはいらないんだよ」

「そうだな」メオは目の前に広がる、稲荷山の頂上を見ながら言った。「京都も夜に覆われる」

 **

稲荷山から降りてきたメオは、久しぶりにカナタにメッセンジャー電話してみた。

iPadの画面の向こう側にいるカナタは、

「いま、琵琶湖にも夕陽が沈もうとしてるけど」と言い、「そんなにドラマチックでもないんだけど、わたしの心をとらえる」と言った。

それを聞いたカホは、冥王星(メオ)が再び太陽系に入ってきたように感じた。海王星(カホ)はその事態を喜んで受け入れた。

海王星と冥王星は紆余曲折しながらも、同じ系にいる星々なのだ。


16.水滴の渚


ひかるが音の幽霊である父と出会うことはあまりなかったが〜夜中のトイレ時にわざとらしく廊下の奥で父は「鳴った」〜ひかるの母である光瑠は、それこそ毎日夫が「鳴っている」のを聴いていた。

光瑠は、どんな時に夫の幽霊の音が鳴るのかをこの頃細かく観察していた。

「あの人は」と光瑠は思った。「わたしが仕事で疲れている時なんかに励ましてくれのかしら」

だから光瑠は、病院の夜勤明けの最も疲れている時に夫の音が鳴るのかな、と期待した。

けれども、夫の幽霊の音は早朝にはなかなか鳴らなかった。

彼が家の物を揺さぶったり振るわせたりするのは、光瑠が主として夕食を作っている時だった。

たとえばカレーを作る時、牛肉の灰汁を取るのを光留がサボっている時は、盛んに家の中の物たちが震えた。まずは時計が鳴った。その次に窓枠が不自然に震えた。それを受けて、テレビの横のサボテンがパチパチ点滅したりした。

「サボテンを点滅させないでよ」と、光瑠は部屋の空気に向かって言った。「サボテンはあなたみたいに闘争的じゃないんだよ」

すると幽霊の夫は反省したのか、部屋の光景を月に変えて見せたりした。

その荒凉たる大地に白い暴力的な太陽の光が当たる景色を、最初光瑠は驚きをもって見ていた。けれどもその光景が夫の贖罪だと理解した時、初めの喜びは薄くなっていった。

「あなた、そろそろ消える時なのでは?」

光瑠は、音の幽霊である夫にまだまだここにいてほしかった。けれども、その実存感はあまりにリアルで、肉体のない音だけの夫がいちいち主張してくるごとに恐ろしいほどの寂しさを覚えた。

そして、音として食器をならしたりするその夫に、実をいうと、強く抱きしめてほしかった。夫が生きていた頃のように、光瑠が出口のない言葉のなさと寂しさに襲われた時、冗談を一言ふたこと言ったあと、黙って抱きしめてほしかった。

けれどもそれは叶わない。せいぜい夫は、精一杯の力を出したとしてもドアをバタンバタンとうるさくするだけだった。

「だから、やめてよ、あなた」光瑠は時々誰に訴えることのできない苦しさとともに、そのドアの音に対して叫んだ。

「どうしてあなたは、わたしを抱きしめることができないのかしら?」光瑠はドアのノブを睨んで言った。「そしてわたしは、どうしていつまでもあなたにギュッとしてほしいんだろう?」

そして光瑠は、夫が癌で死ぬ直前、「今にも死にそうになってようやく死の先輩たちの声が僕に届くようになった」と小さく漏らしたことを思い出した。

「幽霊の先輩たちは」と夫は死の床から語りかけた。「音として」夫は笑っていた。「幽霊の音として家族たちに語りかけるんだけど」夫はそこで休んだ。「すぐに家族たちは物足りなくなるそうだ」

今のわたしだ、といま光瑠は思った。わたしはだから今、あの時の彼の声を思い出している。

「音だけで物足りなくなった時にね」夫の声は一層細くなってあの時言った。「幽霊の先輩たちはこうしろって僕に言うんだよ」

「たぶん、音とか気配だけでは、わたしは一層切なくなるよ」その時光瑠はそう言ったが、まさに今の自分の気持ちだった。「幽霊のあなたがユリゲラーみたいにスプーンを曲げたって、わたしは泣いてばかりなんだから」

そのまま2人の会話は終わってしまった。

なぜなら死の床にあった夫がその時妻に伝えようとしたことは、幽霊の自分が無数のスプーン曲げをすることで妻を爆笑させるという陳腐な提案だったからだ。

 **

けれども、気弱な幽霊だった父だが、ドリーファンクJr.よりテリーファンクのほうがとても好きだった父はそれでも楽天家だった。

だから光瑠が、身体と身体の接触が無理であるにも関わらず、立体的で身体的な接触を求めていることに関して、絶望を感じながらも非常に気楽な思いを抱いていた。

本当はテリーよりもドリーファンクJr.のほうに親和性を抱く父は、身体と身体がこの世で接することが終わった、死という出来事を歓迎していた。

「もう血みどろのグーパンチは僕は十分おみまいしてきた」と幽霊の父は、妻の光瑠に言った。「君が僕の肌の温かさを求めていたとしても」

「それが無理だから、あなたの声や音では無理だから、幽霊というあなたを否定せざるを得ないから、わたしはこうして泣いているの」と言いながら光瑠は泣いていた。

泣きながら光瑠は若狭湾を見ていた。いつも若狭湾は憂いを帯びていたけれども、その日の湾は光瑠に優しい光を投げかかけていた。もう泣くなよ光瑠、と、ひかるの母である光瑠に、湾全体で若狭湾は語りかけていた。

その朝の光瑠は、いつも通り夜勤明けで、疲れきった腰や肩を抱えて車に座り、目の前の若狭湾を見ていた。夫の幽霊は、そんな光瑠にこんなふうに語りかけた。

「ごめん、光瑠」と言いながらも、無意味なポルターガイストを夫は避けた。代わりにこんなことを空気を振動させて言った。

「僕らのひかるはやがて結婚するだろう。その相手は君にやっぱり似ているよ。その君に似ているひかるの結婚相手とともに、どこかの夏のスキー場を彼らは走るだろうね」

「夏のスキー場?」それはたぶん、ひかるの彼女のヒカリの実家があるマキノのスキー場だろう。そこで彼らは、不思議な光を見ることになるんだろうか。

「見るんじゃなくて」と、幽霊の夫は言った。

「感じる?」光瑠はすぐに応えた。

「それとも少し違って」よく考えると、幽霊がそれだけ明瞭にしゃべるのは変だったが、ポルターガイストではない、あの夫の声が自分を包み込むのが本当に快感だったので、光瑠は深く考えなかった。

「夏のスキー場には当然雪はないけれども」と幽霊の夫は語った。「何かの方法でひかるたちに語りかけてくる」

「ああ、朝の草の水滴とか、雨かしら」光瑠は深く考えずに言った。「夏のスキー場を全面的に覆う水滴が、それを見るものを幸福にするの」

「当たり」と幽霊の夫は音を鳴らした。「僕はそんな水滴になって君を包み込みたいんだよ」

「それでもわたしは不満じゃないかな」光瑠は、自分の周囲を包む物理的圧に対して言ってみた。「やっぱりわたし、泣いてばかりじゃ?」

「まあ、クルマの外に出てみなよ」幽霊の夫はそんなふうに音全体で伝えた。「騙されたと思って」

光瑠はそんな幽霊の夫に騙されてみようと思い、クルマから出た。目の前には不思議な静寂さを抱える若狭湾が展開していた。

太陽は湾の向こうで滲んでいたけれども、同時に細くて見えない雨に光瑠は包まれた。

その少しあと、光瑠の目に涙が浮かび、「あなた、ありがとう」と呟いていた。

光瑠は夫に今も抱きしめてほしい。強く。

けれどもそれは叶わない欲望だ。そんな欲望を抱えながら光瑠は、自分を包み込む雨粒や、その雨の打撃音や、その打撃音がいちいち思い出させる夫とのコミュニケーションの回想に包まれた。

それは夫のリアルな腕とは別の、蒸し返すような生命の響きだった。

「あなた」と光瑠は自分を包み込む水滴たちに語りかけた。「あなたってこんな豊かな人だったっけ?」

それを聞いた無数の水滴に宿った幽霊の夫は、若狭湾全体を包み込むような大声で笑った。その声を聞けたのは光瑠だけだったけれども。


17.激しい雨


カホも帰っていき、再び静かになった自分のペンションのキッチンで、カナタは目玉焼きを作りたくなった。そう夫に言ってみると、彼は冷蔵庫から2個卵を出した。

「思い切って5個使おうか?」カナタは夫に笑いながら言った。

「5 個も焼けるフライパン、あったっけ?」と言いながら、夫はキッチンの中を探した。

棚のドアを開け閉めしてしばらく探したあと夫は、「あった!」と珍しく大きな声で言った。「ペンションのオープン前に使うかなと思って買っておいたけど、結局一度も使ってないな」

フライパンに5個の卵を割り、すぐにカナタは蓋をした。透明な蓋の下でプクプク震える5個の卵を見下ろしながらカナタは、「なんとなく目玉焼きの気分じゃないよねえ」と呟いた。

「いまさら」と夫は言ったがすぐに、「じゃあスクランブルエッグに変身させる?」と言った。

「うーん、それもワンパターンだなあ」とカナタは言い、「ヒカリに聞いてみようかな」と続けた。

「なんだ、ヒカリと話したいんじゃあ?」と夫は言った。

「そうかも」とカナタ。「カホと話してたら、なんだかヒカリとひかるに話したくなったよ」

「僕もだよ」そう夫は言い、珍しくカナタの肩を抱き寄せた。

 **

そうして夫に肩を触れられながら、カナタは母のアキラとの記憶に囚われ始めた。

そして、カナタと夫が今いるマキノのペンション周辺に、雨が降り始めた。

もうずいぶん昔、カナタは、先輩に会いにパリに行き、そこで先輩の妻のヴァンダと語り合ったあと、すべては終わったと受け入れたはずだった。

最後の夜にヴァンダと神経衰弱をしたパリ旅行の帰り、カナタのこころはそううまく収まらず、飛行機の中でずっと泣いていた。関空に着いた後も涙は収まらず、仕方なくカナタは母のアキラを訪ねた。

アキラは黙ってカナタを迎えいれ、

「また私の絵を描く?」

と誘ってくれた。

カナタは、少女の頃と大学生の頃に母の絵を描いたことがあった。いずれも上手に母を描くことができたのだが、アキラとカナタにとって不思議だったのは、いずれの場面でも、ふたりだけの時間ではなかった気がしたことだった。

特に大学生の頃に母を描いた日、突然外に激しい雨が降ってきた時、ふたりはそう感じたとあとで語り合った。

「あの時の土砂降りの雨、わたし、なんだかほっとしたの」とカナタ。

「あら、わたしも描かれながら不思議に落ち着いた」とアキラ。

その雨は、2人を包んだ。大学生のカナタは、その激しい雨音を聞きながら母のアキラの絵を描いた。

その激しい雨に支えられるようにして、大学生のカナタは、激しい雨がもつリズムに応援されるように、アニメ絵でありながらアニメではない母をそのノートに描くことができた。

ふたりはその時、雨に包まれていた。その雨はなんだったんだろう、年をとったアキラも、成長した娘のヒカリを見つめるカナタも、ふだんの生活をしている時に突然考えることがあった。

3回目のペンをもつパリ帰りのカナタに向かってアキラは、「あんな不思議な雨は今日はたぶん降らないだろうね」と、いつもの椅子に座りながら言った。

「わたしは降るような気がするよ」ノートを広げペンのキャップをとってカナタは言った。「たぶん、これば最後だろうけど」

そう言いながら、カナタは母の絵をノートに描いていった。

「あら、まずい」

描きながらカナタは思わず声を出した。溢れ出てきた涙が、ノートに描かれる絵にぽつん、ぽつんと落ちたからだ。

「いいよ、それが本当の水彩画だよ」アキラは娘に笑って話しかけた。

その時、カナタの予想通り、雨が急に降ってきた。少し前まで明るい太陽のひかりが周辺を覆っていたが、雨はまるでカナタが泣く時をずっと待っているように突然降ってきた。

「カナタの涙を、雨は待っていたのかな」母のアキラは立ち、窓際に歩いていった。「絶対降ってやる、みたいな感じだったな」

「立ったらダメだよ」ひっくひっく顎を上げながら、カナタは母に言った。顔は涙でびしょ濡れだった。

「え、まだ描く?」窓際に立ち、アキラは娘に聞いた。「今日はもうやめていいんじゃないの?」

「ママ、それじゃあ、雨に応えたことにはならない」

 **

「それで君は絵を完成させたの? 」娘のヒカリにネット電話をするためパソコンの前に座りながら、カナタの夫は聞いた。

カナタは窓の外に広がる夏のスキー場を見つめていた。そして、自分がその時、3回目の絵を完成させたかどうか忘れていることに気づいた。

「たしか絵は完成させたはずなんだけど」カナタは夫を見て言った。「ママがずいぶん喜んでいた記憶があるよ」

「じゃあ、ヒカリへの電話よりも先に、おかあさんに聞いてみる?」夫はそう言いながら、パソコンで義理の母であるアキラに連絡していた。

そのようすをカナタは黙ってみながら、3回目の絵はどんなものだったのか、ずっと思い出そうとしていた。

電話にすぐに出たアキラに、夫は今の状況を話し、3回目の絵が完成したのかどうかを、単刀直入に聞いた。

「もちろん」相変わらずアキラの声は力強かった。「わたしのこの部屋にあるから、いま送ろうか?」

「ぜひ、お願いします」カナタが考える前に夫は母に頼んでいた。カナタは、その一連の流れが楽しくなっていた。

「届いた!」夫のパソコンに映し出された画像に、カナタがパリから帰って描いたアキラの像が映し出されていた。

だがそこに描かれていた絵には、アキラの姿は不在で、代わりに、夜の琵琶湖の湖面と、空中に浮かぶ夜の月があった。

「なんでこれがわたし? って、その時聞いたのよ」アキラは、カナタの夫に語りかけていた。

「おかあさんっぽいですよ」カナタの夫は笑って答えた。つづけて、「この湖面は本当に琵琶湖なのかな」と言った。

カナタは立って、パソコンに映し出された自分の絵をじっと見た。そして、「わたし、どうしてこんな月のママを描いたんだろ」とつぶやいた。

すると、外で急に雨が降ってきた。

雨音を聞いてカナタは、「いま、また降るの? 」と、外の雨粒たちに語りかけた。

その声に答えるように雨の勢いは激しくなった。

「雨と会話できる?」と夫はつぶやいた。「こんな人なんですか、カナタは、おかあさん?」

「あら、わたしのほうが会話できるのよ」とアキラはパソコンの画面の向こうで言って、笑った。「京都でも降ってきたよ」

カナタは、その母の声を聞き、パリから帰ってきた時、なぜ自分が母の実像の代わりに湖面と月を描いたのか、少しだけわかってきた。

「わたしはね、あなた」と、カナタはパソコンの前に座る夫の背中に向かって言った。「ママの絵を描くことで癒やされながらね」

「うん」と夫は言った。その時夫は、カナタと言ったハワイの新婚旅行のことを思い出していた。それまでの人生すべてをカナタに語った夫は、その高層ホテルの一室で、カナタに向かってすすり泣いた。

そんな体験をこれまでしたことがなかった夫は、鮮明にハワイの夜を覚えていた。その体験を思い出しながら夫は妻の美しい声を聞いていた。

「あれは琵琶湖の湖面でもなく、もちろんセーヌ川でもなく」とカナタは言った。「やがてあなたと旅するハワイの海なんだよ」

そこまで聞いた京都のアキラは、ネット通信を静かに閉じた。そのことを、カナタも夫も気づいていた。そして、ありがとう、とふたりは思った。

「ワイキキの月か、あれは」と夫は漏らした。「でもなんだか、ジャパニーズっぽいぞ」

「海はワイキキなんだけど」とカナタは言った。そして、夫の肩に手を乗せた。「あの月はあなたなんだよ」と言い、つづけて、

「つきと」と言った。

夫は、久しぶりに自分の名前を読んでもらえて嬉しかったが、月人という名をもつ自分と出会ったのは、カナタが母を3回目に描いた少しあとのはずだが、とつぶやいた。

「そんなものなのかもよ、あなた」カナタは月人の首に腕を回して笑った。「ヒカリへの電話は、明日ね」

その時は雨は降っては来なかった。終着点を悟った人々に雨は関心を失うのかなと、カナタは思った。月人は、雨が慰めてくれない地点にまで、なんとか我々はたどり着くことができたのかなと妻に言ってみた。

「雨は去っていったのね」カナタは寂しそうに言ったものの、目の前にいる平凡な男の髪を撫でることでその寂しさは消えていったことが不思議だった。

雨の助けがなくとも、私たちは互いの髪を撫で、その互いの髪がどこまでも絡み合っていたとしても許すことができる、そのような地点にどうやらわたしたちはたどり着いたようだ。カナタは再び静かに泣いた。









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